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次男は言った。「おれに妹なんていない」母は過去と向き合う。自分自身の成長と、私や兄、その周囲に愛と幸せを伝播させるために。

長男の過去を知ることができ、なぜ母は私の病気を見過ごし、待ったのかが解った。

しかしそうなると今度は、同時期を過ごした次男はどうだったのかが気になる。
同じ家にいて、なんの影響も受けなかったのだろうか。

昨年、私が帰省し兄妹3人だけで集まった際に、次男は言った。
「おれらはもう母さんとは関わりたくないんよ。やから最低限しか家に行かんのよ」

次男は両脚内反足で生まれた。
当時としてはめずらしく、大学病院で症例として紹介されるほどだったという。担当になった医師が本当にいい先生で、よく診てくださり、完治が難しいとされた内反足は綺麗に治り、次男は高校に入った時、柔道で大会に出るまでとなった。

私が生まれたのは次男が小学5年生のときだ。
「かわいい妹が生まれたんよ!」と先生に言ってまわり、私の顔を眺めては、頬をつんと突いて喜んでいたという。

しかし事は起こる。
学校から帰り、私を抱きあげようとした際にとつぜん親父から「汚い手でさわるな!!」と、手を払いのけられたという。
あまりに突然のことに驚き、びくんと体が跳ね、そのまま部屋へ行ってしまった。
その様子を母も見ていたという。 
それを境に次男は週末になると祖父母の家で過ごすようになった。
親父はまたそれが気に食わない。

「なんで行くんか」

お前のせいじゃろがいとゴリエの口調で全国からツッコミが聞こえる。

そしてある日、母は学校から電話を受ける。
「次男くん、様子がおかしくて気になって連絡をしました。なにかあったんですか?」
保健室の先生だった。
「妹さんすこし大きくなったんやない?また一段と可愛くなったやろう」と声をかけたところ、

「おれに妹はおらん」

そう言い放ったらしい。それで保健室の先生はわざわざ電話をくださったのだ。

この話を聞いたとき、涙がぼろぼろと溢れて止まらなかった。今も泣きながらこの無機質なスマートフォンに向かって文字を打っている。
スマートフォンが何も言わない機械でよかった。

次男の気持ちを考えると、あまりにも理不尽で不憫でならない。そう思うと泣くしかない。どうして親が子を虐める必要があるのだろう。

電話を受け、母は次男に「気にせんでええけえね」と話したという。
しかしケアが足りなかった。私はそう思う。なぜ暴言を吐かれて手を払いのけられたその時に庇ってやらなかったのだろう。気にせんでええけえね、そんな言葉だけで守ったつもりだったのだろうか。

「あんたが生まれて間もなかったから…親父に逆らえんかった」と母は言う。

「可愛いね」と妹を抱っこしようとした子どもに対して「汚い手で触るな!」と怒号をとばすような人と、未来が築けるか?この先ずっと結婚生活を続けていけるか?
もうその時に解ってたやろ?
あんたは、自分の保身のために子どもを犠牲にしたんよ。

私がそう言うと、母も泣きながら「やからって今更どねーせえって言うん!全部私が悪かった!!やけどそれで今どうして欲しいん!!」と興奮した状態になったので、冷静に話を続ける。

「今どうしてほしいとかそういう話はしてないよ。やけど、次男のその子どもの時の気持ちを考えたら、”次男がなにもしてくれん””なかなか家に寄り付かん”って当たり前やないかな?守ってくれんやった人をなんで守る必要があるん?
次男は、いまでもあの日々のことがわだかまりとしてあるんよ。過去に戻って庇ってやることはできんから、あなたが本当に当時を悔やんでいてやれることがあるとしたら、謝罪することくらいじゃないん?」

「……」

すこし落ち着いた様子の母。

「やけど私に近寄りたくないんやったら、今のお嫁さんとの結婚の同意も要らんやったし、結婚に同意してくれんやったら縁を切るって言いよったんやけ、切ればよかったやん」

なんだろう、(元)夫婦揃って馬鹿なのだろうか。辟易とする。縁を切って後悔するのはあんたらやろがい(ゴリエ2回目)

「親子ってそんなもんやないやろ。それに今はそんな話をしてないよ。あんたが次男の立場やったら、大人になってやっと逃れられた親からの要求に我慢して何も言わずに対応するかん?」

「……」

「あんたがもう今できることは、兄ちゃんたちへの謝罪じゃないの?」

長男は飄々としているので。おそらく幼少期のことを引きずってはいないだろう。(しかし無意識下では幼少期の体験が今の兄を形成しているのは間違いない。)
次男は、母がどれだけ具合が悪く体調を崩していても積極的に会いには来ない。
それに対してグチグチ言う母。

私も上京してすぐのころ、なぜ兄たちは地元にいるのに母の面倒をみてやらないのだろうと思っていた。

けれど、全員から話を聞いていくうちに問題の全貌が見えてくる。

次男は優しい人だった。
私の誕生日やクリスマスになると服やアクセサリーなど、女の子が喜びそうなものをプレゼントしてくれた。半分しか血の繋がっていない妹に。私の父親のせいで嫌な思いをたくさんさせられたのに。

母から一言謝罪があれば、本人たちの気の持ちようもまた違うだろう。
気の持ちようが変われば、それはほかの人へも伝播していくだろう。
愛や幸せとはそういうものだ。
自分がもらうばかりが愛や幸せではない。
与えなければ自分はさもしい人間としてしか生きてはいかれない。

そのとき丁度、長男が帰ってきた。
長男はいま期間限定で実家に住んでいるのだ。夫婦仲が悪いとかそういう感じではない、これまた複雑な問題があるのだろう。

「ちょうどいいやん、いま謝ったら」
「いまって!心の準備ができてない」
殴られたり暴言を吐かれるときも心の準備などできていないはずだが。

私は母との通話を切り、長男に電話をかけた。

「なんか話があるってよ」
「なに?改まって、めんどくさあ」
「母さんそのへんにおるんやろ、呼んで」
そして母が揃い、ぎこちなく話を始めた。

「今更やけど…あの時は私のせいで家族がめちゃくちゃになって子どもたちを振り回して、行きたい学校も受けさせてあげられんで…ごめん」

「なに!いまさら!」
と兄は笑う。長男はこういう性格なのだ。

どれだけ歳をとっても人は成長できるのだ。
母はいまそれを体感しただろう。

しばらくして母に電話をかけた。

「どう?気持ちは」
「うん、なんか、身勝手かもしれんけどすこしスッキリして、荷が降りた感じ。ちょっと兄ちゃんにものが言いやすくなったかな」
「じゃあ次は次男が家に来たときやね」
「やってみる」

いまさらこんな事をしても仕方がないと思う人もいるかもしれないが、それは違う。
過去の自分自身、過去の相手と向き合うことでとれるわだかまりもあるし、母が変わることで私や兄が変われば、それは私や兄の周囲にも影響を与えるのだ。それが与えると言うことだ。

65歳にして過去と向き合い、息子に謝罪できた母を誇りに思う。

次回、父が語る「なぜ離婚したか」(あまりにパンチの強すぎる内容&真偽のわからない話のため、有料記事の予定です)

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