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はじまりのはなし…不安感⑨

「年金だけじゃねぇ…老後2千万円でしょ…この歳じゃ働く所もないしねぇ…」

「斎藤さんが最近介護施設で調理補助の仕事始めたらしいわよ…」

「すごいわよねぇ〜…私達だって充分お年寄りなのに…年寄りが年寄りの為に働く世の中なのかしらね…若者って何処に行っちゃったの?…皆んな引きこもっちゃってるのかしら?」

「うちの子は辛うじて働いてるわよ…いい歳なのに結婚もしないで…正月にも帰って来やしない」

「うちのも働いてはいるけど実家暮らしのままだし、また仕事辞めたいとか言ってるし…あいちゃんは学校の先生で収入も安定してるし、可愛いから彼氏くらいいるわよ」

「さぁねぇ…連絡が無いのが元気な証拠って言うけどねぇ…ずっと一緒に居られるのが幸せなのか…会えなくても自立してくれてる方が幸せなのか…分からないわね」

「まぁ…どっちにしても子どもに迷惑はかけられないわね…ピンピンコロリしなきゃね…」

「可笑しい…ピンピンコロリなんて久しぶりに聞いたわ…」

「そう…私は旦那に毎日言ってるわよ。あなたが先にピンピンコロリよって...」

「やだ、もう…吉崎さん。マスターが笑ってるわよ...」

照れ屋のマスターが軽く会釈した…病院の近くにある昔ながらの古びた喫茶店に、僕は週に一度はモーニングを食べに行っている。
厚切りのトーストにはしっかりとバターが沁みている…ゆで卵は半熟で…サラダにはトマトと薄くスライスされた胡瓜に少量のポテトサラダが添えてある。
珈琲は少し深煎りで程よい酸味がトーストのバターと溶け合う…器は知り合いの女性作家さんの物らしく猫の絵が描いてあるカップやお皿が多い。穏やかな音楽…窓辺に朝日が心地よく差し込む。
マスターはいつも常連さんの冗談に恥ずかしそうに頷いてばかりで、口数は少なく接客が上手だとは言えないが、その人柄の良さについつい通ってしまう人が多い。

「おい、水」

常連の一人であるサラリーマンは、いつも偉そうで…同じ時間に決まって同じ席に座り…新聞を広げながら、また景気が悪いと溜め息混じりに煙草を蒸しながらマスターに絡んでいる。それでもマスターはいつも恥ずかしそうな笑顔で真摯に相手をしている。

マスターの仕事の大半が珈琲を淹れる事よりも常連客達の悩みを聞く事になっているのかもしれない。
マスターは、特に気の利いた言葉を返す訳でもないし...困惑しながら相槌を打つだけではあるが、それが客にとっては自尊心を逆撫でされる事もなく、都合が良いのだろう。ただ日々の不満や将来の不安をぶつけるサンドバッグとして、常連客達はマスターを便利に使っている。

このサラリーマンや近所のおばさん達のように、僕もマスターに愚痴のひとつでも零せば気が楽になるのだろうか?

この先どうなってしまうのだろう…そんな事ばかり考えてしまう。

彼女に別れを切り出されてからは、毎日のように彼女の居ない人生を想像している。それでも想像しているだけで、現状はまだ身寄りのない彼女の身元引受人となり、こうして頻繁に面会に来ている。でも、この状態がいつまでも続くとは思えない。

仕事も以前は、主に書籍やゲームなどを取り扱ったの物流業者に正社員として勤務していたが、彼女の一件で急に休む事が多くなり、働き続ける事が出来なくなり退職した。

上司に辞表を渡した時に、「お前だったら、働き口なんて幾らでもある」と言って貰った事が、今では懐かしい。どちらかと言えば冷たい上司で、時期的にも繁忙期だった為に、相当嫌味を言われるだろうと覚悟していたが、理由を話すと内容が内容だけに、自分の人生を選択するようにと強く促された。

その後、暫くはハローワークに通って失業給付金を貰いながら、彼女の看病に徹していたが、現在は彼女に突然何かがあったとしても、直ぐに病院に駆けつけられる様にと、彼女の起きている時間に働く事を避けて、深夜のビルの清掃や警備員のアルバイトをしながら生活している。
結婚式の為に貯めていたお金を切り崩せば、もう少し楽に暮らせるのかもしれないが...そこに手をつける事には気が引けてしまう。
彼女との結婚に対する未練なのか...単に定職に就いてない事での浪費に対する拒否反応なのかは分からないが、このまま深夜労働を続ける事は、肉体的にも精神的にも難しい。
 
そろそろ本腰を入れて就職活動しなければいけないと思いながらも、就職情報誌を鞄に突っ込んだまま、一度も開く事なく、呑気に喫茶店で珈琲を飲みながら...常連客達の会話に耳を傾けている。

「マスター、大手の銀行でも続々とリストラだって…いやぁ〜末恐ろしい世の中だね。明日は我が身だな…俺も脱サラして喫茶店でも始めるか…」

「実はこの店…今年いっぱいで閉めるんです。」

「えっ?」

「最近、肩コリや腰痛が酷くて…もう歳も歳なので…妻の実家の不動産屋を手伝う事になったんです。今、宅建の勉強してるんですけどね…いやぁ〜、チンプンカンプンで…」

「そう…この店は…どうなるの?」

「年明けから改装されまして、コンビニになるらしいです。…皆さんとお話し出来なくなるのは寂しいです」

サラリーマンは急に大人しくなって…組んでいた脚を直し、猫背だった背筋を伸ばしてから、折り畳んだ新聞を卓に置いて、重そうな腰を上げレジへと向かった。
マスターは相変わらず笑顔を絶やさないまま、愛想良く慣れた手つきで洗っていた皿を置き、手際良く手を拭いて会計に移る。そして、元気な声でサラリーマンを見送り、キッチンに戻ってから、猫が描かれた皿やらカップを拭き上げている。

マスターは、まだまだバイタリティ溢れる世代の一人に見える。だが、彼自身も気付いてないのかもしれないが...もう、不満や不安をぶつけられるサンドバッグとしては、ボロボロで限界だったのだろう。
誰が健康で、誰が病気なんだろう…誰が正常で、誰が異常なんだろう…誰が健常者で、誰が障害者なんだろう…全ての人が紙一重で生きている様に思える。

「いい匂いがする」

「えっ」

「珈琲?」

「あぁ、近くでモーニング食べて来たんだ…」

「今日も夜勤明け?」

「うん」

「身体、大丈夫?」

「大丈夫だし…それに今は昼の仕事も探してる」

「…ごめんね」

一年前の自分に今の自分が想像出来ていないように、今の自分には一年後の自分は全く想像がつかない。
想像したところで描いたはずの未来とは違う未来が、既に用意されていたかのように運ばれて来る。受け取り拒否は出来ない…自由意志が働くのはそれをどう捉えるかだけだ。

「凶はね。これから良くなるって事だよ」

正月の鎌倉は由比ヶ浜から扇ガ谷の辺りまで交通規制が掛かり、歩く人ばかりのゆったりとした往来を見ていると、車の無い時代にタイムスリップした様な感覚を味わう事が出来る。
例年通りであれば、近所の神社で簡単に初詣を済ませてしまうのだが、二年前の元旦には、彼女が気合を入れて祈願したい事があるとかで、朝早くから横須賀線に乗り込み、二人で鶴岡八幡宮を目指した。
駅を降りて東口から小町通りを抜けて、若宮大路に出た所で甘酒を飲み、冷えた体を温めてから、串刺しになった胡瓜の一本漬けを片手に段葛を歩いた。
朱塗りの大鳥居を潜って舞殿を横切り、本宮で参拝してから御神籤を引くと僕も彼女も凶だった。
 
彼女は周りに居る大勢の参拝客の視線も気にせず、一人で大笑いしながら僕を引き寄せ、二枚の凶神籤をカメラに向けて、ツーショット写真を撮った。
 

写真の中の僕は、上手く笑えていなかった。わざわざ朝早起までして来て、これから彼女と二人で幸せになろうと願いを込めて引いた御神籤が縁起の悪い結果なのだから...新たな一年のスタートに、歩み始めたその一歩目で躓いた様で、僕は大人気なく目に見えて不機嫌になってしまった。

「ほら、凶神籤を納める専用の箱があるよ」

「そう...」

「そんな顔しないで...ねっ、どっちか片方じゃなくて、二人とも凶だったんだから良いじゃない」

彼女はそう言って、携帯電話の待受画面に設定したツーショット写真を愛おしそうに眺めていた。不本意ではあるが、あの時の御神籤は当たっていたのかもしれない。内容をもっとよく読んでおけば、その年に起った不測の事態に備える事が出来たのだろうか・・・そうすれば、彼女の語るはじまりの話も、こうして聞く事はなかったのだろうか?

「不安とは霞の中を歩くようなものです。恐怖がその対象を明確に持っているのに対して、不安は何が対象なのかすら曖昧で、未来という膨大な時間へと伸びるその道筋は、輪郭がなく脆弱です。そこを綱渡りのように進むのですから…」


続く

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