第12回「本書は教科書として構想され、辞典となった」(佐々木健一 『美学辞典』より)
このマガジン「デザインという営みにコピーを与えてみる」では、デザインにコピーを与えるという目標に向かって「デザインを語ることば」を集めています。第11回では、中川幸夫の「美しかっただけでは判らない。花はどの花も美しいのです」を紹介しました。
さて、第12回でご紹介し、書き留めておきたいのは、東京大学名誉教授であり美学やフランス思想史を専門とする佐々木健一氏のことばです。
「本書は教科書として構想され、辞典となった」
佐々木健一氏の『美学辞典』の序文は、この言葉ではじまります。
こうした「ものの見方」や「あり方」の「変化」には、大きなエネルギーが必要です。だからこそ、人の営みを感じます。ここに、「デザイン」のプロセスが、あったのだろうと。
佐々木氏は、美学の教科書を書かないかと依頼を受けたものの、乗り気ではありませんでした。授業で教科書を使ったことがなかったし、他人の書いた教科書をつかって授業ができるとは思えなかったのです。
しかし、教科書を書くということ自体、考えてみると奥深い。佐々木氏は、次の難問と向き合うようになります。
この難問に、佐々木氏はどのような解答を与えたのか......。
単純に、教科書から辞典に体裁を変えたという話ではありません。教科書の良さと、辞典の良さを掛け合わせたような、教科書であり辞典でもある書物が構想されました。
本書は、大学で美学を教えていた著者の教育実践と強く結びついた、優れた教材開発の事例として読むことができます。
ーー本書は教科書として構想され、辞典となった。
本書の序文では、この言葉の背後にある思考プロセスが開示されます。この序文を読むだけでも、デザインのアプローチに対する発見があります。つまり、デザインを学ぶ格好の材料だといえます。
でも、デザインを学んでいる方には、こういった本が目に留まりにくい。美学を学んでいる方には、これがデザインだとは気がつきにくい。そういったふたつの視点をつなぐことを目指して、この言葉の奥深さをお伝えできたらと思います。
直観に耳を傾ける: ニーズとウォンツの接点でつくる
デザインの最初のステップは、社会的なニーズと自分自身のウォンツの接点を探ることだと言えるでしょう。どちらが欠けても、いいものは生み出せないように思います。
さて、『美学辞典』の場合はどうだったのでしょうか。
ーー当初は、まったく意欲を覚えなかった。
教科書を書かないかと依頼された、著者の正直な告白。ぜひとも注目したいポイントです。なぜ、意欲が湧かなかったのか。にもかかわらず、なぜ、教科書を書くということが頭の片隅に残り続けたのか。こういった、自身の直観にメスを入れる行為は、デザインを生み出す根本原理に迫ることに等しい、そんな気がします。
では、なぜ意欲を喚起しなかったのか......。
教科書をいかに捉えるか、ここにポイントがありました。
それでは、教科書とは何か......。一般的には、常識として共有されている知識をまとめたもの、といえそうです。
教科書のニーズをふまえれば、「最上の教科書は資料集である」という見方にも一理ある。
でも、それでは創作意欲が刺戟されない。
著者は、教科書としての客観性を大事にしながらも、「読者の問題意識をかきたて、美学的思索への誘惑となるような」教材を作りたかったのです。
著者は、時間をかけて、この自分自身のウォンツを発見しました。よりよいものを作るためには、自身のウォンツに従いながら、ベストな教科書の姿を模索するほうが正しいはずです。
そして著者は、次の3条件を満たす教材を目指します。
・常識として共有されている知識を示す(=客観記述)
・個々の概念に対する著者の問題意識、
どこに批判すべき点を認めているかを示す(=主観記述)
・教科書の各部分が独立し、体系性をもたない
実践のなかで磨き、信念を生み出す
教科書の依頼を受けたとき、もちろん、具体的なイメージはありませんでした。著者は、自身の授業実践を通して、教科書の方向性を探ります。
そして、美学概論の授業ノートを8年かけて(隔年で4回講義を実施)ブラッシュアップしていきました。
このように、美学の全体像を俯瞰するために必要な概念を、目まぐるしいスピードで整理し、やりくりするなかで、『美学辞典』を生み出す基盤が整っていきました。
そうして著者は、教科書のデザインに本格的に取り組んでいきます。
著者は、自身の経験を専門家のフィードバックと突き合わせる作業を実施しました。教科書で取りあげる概念の決定。これはとてつもない作業です。
たとえば、デザインを語るために必要な概念を抽出し、不可分なく厳選する作業を想像すると、この行為そのものが、一種の研究といえるのではないかと思うほど深淵なのです。
こういった事柄は、どれだけ客観的であろうとしても、答えがあるものではありません。最終的な判断は、歴史と向き合い、社会と向き合ったうえで、個の信念で導出するしかないのではないでしょうか。
著者は、専門家へのアンケート調査と自身の経験を照らしあわせて、最終的な判断をくだします。
このプロセスも、収集したデータの奴隷になるのではなく、自身やチームの信念を軸としてデータを解釈し、全体を編成していくデザインのプロセスと似ています。つまり、いかにデザインを進めるかを考えるための、良い参考になるのです。
教科書として構想され、「読む辞典」となる
著者は、自身の直観に耳を傾けながら、専門家の意見をふまえて『美学辞典』の構想を練りあげていきました。
そして、教科書というよりは「読む辞典」というべき教材が完成します。
辞典になったのは、情報の客観性と厳密さを追求した結果です。著者は、自身が「〜と言われている」や「〜とされる」などと書きたがっているときは自身の知識があやふやなのだと戒め、典拠を示すために多大な労力を割いています。
ようやく完成した『美学辞典』には、美学上の基礎概念が4カテゴリー全25個とりあげられており、美学の全体像を俯瞰できます。
一方で、辞典は引いて確かめるもの。概念が25しか取り上げられていないことは異例の事態です。ここには、本書が教科書として構想されたプロセスが生きています。つまり、「引く辞典」ではなく、教科書として美学の全体像をつかむために厳選された概念を「読む辞典」となったのです。
ところで辞典は、項目の重要性にしたがって記述量が変わります。しかし本書では、各概念の記述量がほぼ同じで、それぞれ一度の講義で消化できるようになっています。これも、教科書としての構想から生まれた形式でした。
これは、専門家のアンケート結果に偏りがあるという発見をふまえて、著者の中で磨き上げられた構想です。この信念に導かれ、全ての概念が同程度の記述量にまとめられました。
さらに、教科書としての客観性を大事にしながらも、「読者の問題意識をかきたて、美学的思索への誘惑となるような」教材を作りたいという強い思いがありました。
そこで著者は、各概念の説明を3パートに分けることにします。
客観的な情報と著者の意見を明確にパート分けしているので、利用者は目的にあわせてアレンジできます。教科書としてのニーズと、著者のウォンツを統合し、うまく両立させています。
著者は、全体を通して客観性と厳密さに多大な注意を払っているのですが、その根底には次のような考え方があります。デザインで他者とコミュニケーションする場面でも見習うべき視点であり、心を打たれました。
著者は、自身の定義は決定版ではなく、「試みであり、提案であり、(やや大袈裟に言うならば)挑戦である」と述べています。さらに、客観記述にも介在する著者自身の偏向に注意を促す意味でも、III パートで自身の意見を提示することを避けられなかったといいます。
ここで言語化されているのは、『美学辞典』の軸となるコンセプト(ニーズとウォンツの接点)そのものです。このコンセプトが、教科書に問題意識を書き添える形式を生みました。そしてだからこそ、より厳密に客観性を担保すべく、辞典の形式を取り込むことになったのです。
ーー本書は教科書として構想され、辞典となった。
この端的な一文に込められた、デザインの物語には、感服します。
本書の「序文」と「あとがき」には、『美学辞典』を生み出す過程の思索が描き出されています。問題の定義と解決策を導き出すプロセスが。そして、自身の直観と向き合い、社会的なニーズと著者のウォンツをぶつけ合わせ、方向性を定める弁証法的なプロセスが、描き出されています。
こうした良質な学習と創造のドキュメンテーションは、他者にインスピレーションを与えます。デザインを学ぶひとや、教科書や教材をつくっている先生たちに、この『美学辞典』の魅力を伝えたい。そう思って、PCに向かいました。
おわりに
今回は、佐々木健一氏の「本書は教科書として構想され、辞典となった」という一文に込められたデザインプロセスを紹介しました。
著者は、自分が「デザイン」をしたとは考えていないかもしれません。しかしそこには、まぎれもないデザインの足跡が描かれていました。それは、社会的なニーズと個人的なウォンツのはざまで、取り組むべき問題を発見し、解決するプロセスです。この、ニーズとウォンツの弁証法的昇華は、芸術特有のプロセスと思われがちです。しかし、デザインや全ての制作活動においても、根本的な活動として理論化されるべき事柄だと思います。
今後も引き続き、わたしにとって魅力的な、「デザインを語ることば」を紹介していきたいと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?