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人の才能を勝手に公共財にするな

自分の才能は世のため人のために使うものである
そう思えば、謙虚でいられる
才能を私物化せず、公のものだと思うこと

これは,京セラの創業者である稲盛和夫氏の言葉である。

私は自分が彼ほど才能のある人間とは思わない。
しかし,様々な指標を定量的に見た客観的な判断から,どうやら少なくとも知的能力だけならば日本人口の上位5%には入っているようだ。
そのため,この言葉を胸にひたすらこの社会を少しでも良い方向に持っていくために自分は何ができるのか子供の頃からずっと考えてきた。

自分ができることで人の役に立てるのならば,報酬が無くても満足だった。

学生時代,体育祭でのリレーは休んだ人の分まで2回走り,部活で怪我をした時も痛み止めを飲みながらいつもフル出場していた。

インターンや大学の講義のグループワークでは,誰もやりたがらない作業を全て引き受けているうちに人の2倍も3倍も働くなんてことはザラにあった。

私の人生はいつも忙しくて充実していたし,人よりも色々な経験を積むことでもっとできることの幅が広がることもあった。

何より,私は人よりできる人間が人一倍頑張るのが正しいことだと固く信じて,今日までそれを疑ったことなどなかった。私が通っていた女子校は,歴史もネームバリューもある高校だったため,毎日のように

「君達のような優秀な女性が家庭も仕事も両立させて社会に進出し,日本を引っ張っていく義務がある」

と言い聞かせられていた。

当時は,自分達が茨の道を進むことで,今後社会に出て活躍したい次の世代の女の子たちの道標になれればいいと思っていたし,おこがましくも自分の世代は日本の女性たち全体の希望を背負っているとも思っていた。

しかし,いざ高校を出て大学,大学院と進み,社会についての解像度が上がっていくと,高学歴の女性に向けられる冷たい目線に気付いてしまった。

この日本社会で人気を集める女性は,男よりもものを知らない,顔が可愛くて若い女性である。求められていたのは顔の美しさと胸のサイズ,それと何も知らずにニコニコ笑っている純粋性の3点だけだった。

生意気に議論に参加してくるような女も,自分の知識をひけらかすことができない博識な女も,求められていないどころか排斥の対象になる。

つまるところ必死で勉強してスキルアップした結果,社会からの尊敬を集めるどころか,敬遠されるようになるのだ。高学歴の女性は「かわいくない」のだ。

実際に,日本では高学歴,高収入の女性ほど未婚率が高い。

どんなに必死に頑張っても,頑張っても,男性が得られるほどの社会的な尊敬を得ることはない。

また,守り導いていくべき弱者が,本当に守るべき存在なのかについても疑問を持つようになった。

ヘラヘラ笑いながら,

「え〜それやったことないからわからない〜やってよ〜」

「こんなかで一番頭いいんだから決めてよ〜」

「あなたの方が物知りだから任せるよ!好きなようにして〜」

などとタスクを丸投げしてくる無能どもが最近どうしても許せなくなった。

最初こそ感謝するが,段々こちらが仕事をこなすのが当たり前になっていき,私たちを馬鹿にしさえする。

少し前までの私は,専門知識をわかりやすく伝える媒体が少なく,知識にアクセスしづらいから市民が意思形成できないのだと思っていた。

だからジャーナリストを志した。

しかし,こちらがどんなにわかりやすく書いても,多くの人はそもそも読まないし,読んだとしても自分の頭で考えることをしようとしないのだ。

”一般市民”のレベルの低さに愕然とし,絶望するきっかけとなったのは,金融広報中央委員会が行った「金融リテラシー調査(2022年)」であった。

この中に,次のような単利の計算問題があった。

「100万円を年率2%の利息がつく預金口座に預け入れ,他に口座への入出金がなければ,1年後口座の残高はいくらか(利息にかかる税金は考慮しない)」

この設問は記述式で,「わからない」という選択肢も用意されていた。正解はもちろん102万円だが,正答率は男性74%,女性62%であったそうだ。そして,特筆すべきは18~29歳の女性の正答率である。なんと正しく答えられたのはたったの47%であり,「わからない」を選択したのは実に27%に上った。

このような有様では,情報発信したとて理解してもらえるかこちらの力量に関係なく怪しいし,何より女性がひどい結果だったのが非常にショックだった。

私が仲間だと思っていた人々はなんだったのか。

女性は不当に評価されていて,差別されているから社会で活躍しづらいのではなかったのか?

同年代の女性の大半のレベルがこれなら,いくら私が頑張って道を開いても意味が無いではないか。

最近,絶望が積み重なり,「弱きを助け,強きを挫く」という価値観が揺らいでいる。

弱者は本当にこちらの命を削ってでも助けるべき存在なのか?弱者に搾取されているのではないか?

能力の低い人々に対する差別的な思想や,「いなくなってくれないかな」という思いが首をもたげるたびに,優生思想はいけないという,生物学徒としての最後の安全装置が働いて正気を保っている。

どうか誰かそんなことはないと,言って欲しい。
死ぬほど頑張った先には,報われる未来があると,詭弁でもいいから示して欲しい。

これじゃあもう頑張れそうにない。

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