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大丈夫を生きよう.
大丈夫を生きよう. 大丈夫を生きよう.
大丈夫を、生きていよう. しし
さぁ、どうやって生き延びようか
とんでもないことを人にされて、とち狂わない方がおかしいレベルの、無茶苦茶な状況にあって、さぁ、どう生き延びようか、
これまでたくさんそういう手段を見つけてきた。
のんのんびよりとか、音の採掘とか、さくらさんとか、はるかさんとか。
さぁ今回はちょっとイッちゃってるレベルでまずいぞ。
どないしようか。
なかやまきんに君はどうだろうか。
ぱわー!
ぱわぱわぱわっぱわぱわー!
ハッ
それ
「関係を絶ちます」と宣言するということ
人と人の関係というのは、「関係を絶ちます」の一言で片付けられるものなのだろうか。
「関係を絶ちます」とは、何なんだろうか?
あらゆるものが影響し合っているこの世界に生きていて、関係を完全に絶つことなどできるのだろうか。
見たくないものを見ずに、見たいものだけを見て生きます、と宣言しているということなのだろうか。
ましてや電話やらテキストメッセージで「関係を絶ちます」と宣言する人は、相手をモ
とんでもない嘘つきたちと2〜3年向き合い続けてきたので、そろそろ仁義の話に入っていきたい.
仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌などの千年以上日本の土壌を作ってきた教えが全て消え去って早数十年経った.(認識変換圧縮された類はもはやそれとは考えない.)
今やもう都市近辺では反社的組織以外では消え去ったのではないかというほど日常の中で触れることが少なくなった. 恩も仁もクソもないような若者たちがうじゃうじゃ溢れた街中では,もう気持ちの悪いニヤニヤしか漂っていない.
個人的にここ数年は日本的父性
今後は「(カッコ付の)諦め」と諦めを区別して使おう. 「諦め」∋ 諦め , 即是 , 諦めの気化.
常に思うのはこれ.
風景をそのまま話し合える人には通じるが、ほとんどの人には「え?どっちなの?」といふことになる。
ここにおける諦めは、2つの全く逆の意味を持つ。
その区別をしてから書き直すならこうだ。
カッコ付きの「諦め」は、言い変えるとこうだ。
そして、カッコの無い諦めは、通常一般でよく用いられている、近代の延長を生きる人々が使う諦めという言葉そのままである。
3D平面世界を生きて
振り返る気力ももう何も無い。人を殺す悪夢を生み出し、ニヤニヤするのが他人じゃないなら、お前はどう生きる。お前は、どう生きる。まだそれを問い続ける時間が続く。
あまりにも何も無い年の瀬である。
地獄のような一年がようやく終わり、また次の一年を否が応でも意識させられる年の瀬が来た。苦痛である。
この世界の片隅で、どんな人にも伝わることの無い果てないいのちの、大切な人のいのちの灯が消えかかる日々に向き合い続け、槍が降っても、墨に溺れても、真っ白に消え去っても、それでも手を伸ばし続けていた。
風が吹きかけては消え、その気配さえ見せない日々にもまた、
鉄コン筋クリートの風景
『鉄コン筋クリート』といふ作品を読んで、どこかで今日もイタチを待ち、君の街に浮かんでいる君に届くように、また唄いたくなった。
🌱
白い広野に何か灯があるとするのなら、
信じるという彩も貴方のおともだちになって、
ただ、そうであるように、そうであるように、
ふわふわと浮かび
どれほど時間がかかっても
いつか必ず
いのちの芽が
貴方にも咲く.
ただ、そうであるように
ありのまま
脳裏に墨汁が落ち続ける日々に。
地獄さん地獄さんにゃんぱす〜。
今日も目を覚まし、地獄にふざけた挨拶をして一日が始まる。
耳の鼓膜がバクバクしているような感覚は、墨で真っ黒にした心臓の内部に入っていって、爆音の鼓動に包まれているような、そんな感覚に似ている。
脳裏には、ポタッポタッと、大粒の墨の滴が落ちて、そこにだけは当たって欲しくない最も大切なところに当たり続け、ゆるゆると真っ黒に埋め尽くしてゆく。
あと、ほん
客体に愛される喜びは、ある一定ラインで停止し、朦々に続く。
客体に愛される喜びは、逆説的にある種自慰行為的である。
より分かりやすく、欲望が満ちる感覚に繋がりやすい。煌めきは、甘ったるいグミを食べているような癖を孕み、辞められない止まらないかっぱえびせん状態になる。
彼らは客体を愛することを「利他」といふ名で呼び始め、またキラキラした正義感に逆らえない自慰的欲求基づいて、意思的に人やペットを愛してゆく。
添加物を食べたり、農薬の過剰利用をする
罪?背負う?なにそれ。もうやめようよ、、、そういふの。
「罪を背負って生きます。」
といふ言葉を、加害者が発することがある。
罪?背負う?
なんの話なのだろう。
君一人で、罪を背負って、一体その先に、何があるのだろう。どんな希望があるのだろう。
そんなことを言う人に限って、あまりにも優しく、あまりにもつまらない世界で生きている。
キリストは何故、原罪を説いたのだろう。
アダムとイヴが犯した罪の正体は、本当は何だったのだろう。
君の罪を、
どうして、いのちは、一つなのか。
どうして、いのちは、一つなのか。
という問をあなたが僕にするのなら、
僕はこう答えるだろう。
あぁ、さぁ、見てごらん。
貴方の前に咲いた、一輪の花を。
貴方の傍にいる、葉のゆらめきを。
貴方の手のひら、その温もりを。
耳をすませてごらん。虫の悦びを。
蝉の愛の音を。
空を見てごらん。
鳥は飛んでゆく。
ほらね、
いのちは、ひとつ。
ほんとふは、そこで、いきている。
夢や希望はありますか、と聞かれたところで、「死」以外の答えなど浮かばないのですが、深掘りされるのも困るので黙るしかないのです。
ニヒリズムの悩みでもなければ、躁鬱から意味に縋り生き延びるためのそういった道具でもないし、もっと想像のできない広さと大きさと深さと、全の話。
だからこそ、困る。
「んー自分は何もない。あるゆるものに興味もあるし感動もするけど、あらゆるものに興味が無く感動もしない。」と言う人は増殖の一途を辿っているが、そうした本来層化した世界でとんでもなく輝ける人間に、3D平面世界で意味を投げて「救った」「救わ