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「関係を絶ちます」と宣言するということ

人と人の関係というのは、「関係を絶ちます」の一言で片付けられるものなのだろうか。

「関係を絶ちます」とは、何なんだろうか?

あらゆるものが影響し合っているこの世界に生きていて、関係を完全に絶つことなどできるのだろうか。

見たくないものを見ずに、見たいものだけを見て生きます、と宣言しているということなのだろうか。

ましてや電話やらテキストメッセージで「関係を絶ちます」と宣言する人は、相手をモノか何かだと思っているのだろうか。

まるでゲームの選択肢に「関係を続行する」「関係を絶つ」の2つがあって、「関係を絶つ」を押すような感覚で、人を簡単に遮断するのだろうか。人の心を破壊するのだろうか。

そうした恐怖に怯えながら生きてきた子どもたちが、今、この国に、どれほどいるか分かるだろうか。

親同士が「関係を絶ちます」と言いそうだったり、親が子に対して「関係を絶ちます」と言いそうだったり、親が別の誰かに「関係を絶ちます」と言っているのを見たり、友だちや好きになった人に「関係を絶ちます」と言われたり、子どものいきものとしての安心は一体どこに行けばいいんだろう。

それを繰り返して、自分は特別に愛されてるんだ、この人の特別なんだって思いたい子どもがどれだけ増えているか、そして結局苦しくなったら「関係を絶ちます」と言って知らないところで人を殺していく人になるという循環が、どれだけ奥底まで続いてるか見に行ったことはあるだろうか。

勿論本当に早めに「関係を絶ちます」と言っておかないと、発展して自分が殺されてしまったり、そうなるくらいに全く話が通じなくなる人もいるかもしれない。ただしその場合は専門家の力か施設や警察の力が必要だ。だがそんなことは実は稀にしかない。

ましてや家族もいて、お金もあって、友人もいて、経験もある人たちが、まだ何も無いそこで命かけて戦ってた若い子たちに「関係を絶ちます」と言う恐ろしさが一体どれほどのものか、どれほどの地獄で、どれほどの殺傷能力を持っているか、もう忘れて分からないのだろうか。彼らはどこに行けばいいのだ。そう、結局同じことをする人間になるしかないのだ。

「価値観が違うから」「苦しいから」「むかつくから」「気持ちが切れたから」「義理を欠いたから」「このままだと自分が死んでしまうと思ったから」色んな理由があるだろうけど、「関係を絶ちます」って宣言する人たちは、それを言われた人がどこかで死んだとしても、「あぁそういう人だったんだね」「それは残念だ」「自分の責任です」なんて心を痛めながらテキトーに言って、また見たいものを見てニヤニヤして生きていくんだろうか。生命を絶たなかったとしても、心が殺されることの方が、僕らにとってどれだけ恐ろしいことか分かっているのだろうか。

その相手がほんとに命をかけてあなたに向き合おうとしていたことなんて、もうどうでもいいんだろうか。「重たい」の一言で終わらせて納得するのだろうか。「あなたが勝手に命かけただけでこっちはそんなの知りません」と言うのだろうか。

都合のいい人とだけ付き合って、見たくないものは見ないで、幸福になることは簡単だ。幸福なんて簡単だ。

そんな生き様でも、幸福になって、幸福を与えて、満足し続けて生きて、そして満足して死ぬことはできるだろう。もしくは、もう同じことはしないと言って、一回の失敗で学びました、とか言って改めるのだろうか。

そんな繰り返しが、社会の営みなんだよ!と身をもって教えてくれるおじいちゃんやおばあちゃん、おじさんやおばさんは、無意識うちに「諦め」の中を生きて、幸福に死ぬのだろう。すでに幸福の中にいる者たちは、もうそこから抜け出すことも出来ないから、幸福を壊してきそうな外敵には、「関係を絶ちます」という殺戮スプレーを食らわせる。

今、この瞬間も、この国のどこかで人が死んでいる。まさか自分と同じ生き様の人が、その人を殺したかもしれないとは思わず、今日も辛くなったら簡単に「関係を絶ちます」と言っている光景が、この国中に広がっている。

ぼくは、自己満足にしか見えないかもしれないけど、出会う人の「大丈夫」でいたいと、それでもまだ儚く思ってる。

「大丈夫」のある、ぬくもりを、もっていたいと、祈ってしまう。

これまで関わってきた人はどんな人でも、いや、関わったことがない人でも、いつだって行くところがなくなって死にそうになったら僕のところに来てほしいって本気で思っている。

ゲームを生きてる人たちは、勝手に関係を絶つのかもしれないけれど、ゲームの外側で生きてる人たちには、そんな概念は存在しない。

僕らにそんな力はない。そうなったと思い込むだけだ。

ぼくらはいきてるんだ。いきてるんだ。

まず、行くんだ、会うんだ、一緒に一生懸命に汗を流して、そして話すんだ。

思い込みで、人を殺して、それが自分のしたいことなのか、その答えなんて相手の手を強く握れば分かる。抱きしめたら分かる。

大丈夫.