その時考えすぎたことも、いつか忘れてしまうから大丈夫だ。

どうしたって考えてしまう性格の私。

その時その時思ったことを、全部大切にしたいと思えるまで、だいぶ時間がかかった。

日記を書くのことが、昔から好きだった。

でもいつか、誰かに見られてしまうかもしれないと、本当の気持ちは書いてこなかった。

10年くらい前に、鍵のつけれるつぶやき風SNSがあった。確かデクーというツイッターではなく、その時はやった、デコログというブログサービスのおまけに、みんな貼り付けて使うような、そんなものが。

そこで、初めて自分の気持ちを吐き出すようになったけれど、自分だけしか見れないようなものもたくさん綴った。

結局、サービスが終了してしまえば、綴りに綴った私の気持ちも無かったことになってしまう。

だから、いつか本を出したいなとか、記録として自分自身が見返せるようにと思ったのだ。

それから10年経った今も、その気持ちは変わらないけれど、ずっと残しておきたい「自分の考え」は、あまりないことに気づく。

どちらかというと、体験談に基づく考えばかりを残したがっているのだと思った。

辛い体験をしたとか、幸せを探して毎日過ごしているだとか、そんな誰でも考えてしまうような、ありふれたようなことに全力を注いで考えてしまうのかを。


○△□

私はここ数年、SNSのアカウントを使い分けている。フォローする対象もバラバラだ。例えばツイッターだと、自分だけ閲覧できるアカウントは、欲しいものをまとめたURLを投げたり、悲しかったりムカムカした気持ちを書き込む用に。知り合いだけしか見ることのできないアカウントは、上手く撮れたななんて思う自撮りを時々あげたり、身内話を書き込んだり。そして、趣味用のアカウントは、ゲームが好きな人たちや創作を楽しむ人たちを。

そして、SNS毎でも違っている。 Instagramのストーリーは、24時間しか見ることができないから、その一瞬一瞬思ったことを書いている。24時間以内に見た人は、私のドス黒い部分が見えているのではないかと思うけれど、あんまり気にしないようになった。結構本音で書いている。

もちろん、その時の考えだけじゃなくて、どこへ行ったかとか、実はタピ活といったタピオカを飲んだという記録にも使っている。多分、ずっとは残したくないけれど、ちょっと誰かに見て欲しいことを書き込める場所として、大切にしている。


○△□

また、誰かの投稿をササっと見るのも楽しい。

誰かの日常を覗いているような、知らない人なのになんか知っているような。不思議な感覚。

あれこれ想像を膨らませて考える。内容によってはポジティブに、たまにネガティブに。自分に置き換えたりして、ウンウンと考える。こういうことを考えるのも無駄なのにと思っていたけれど、最近の私は好きだったりする。

きっと、何度も更新を諦めようとしたnoteを続けていられるのも、誰かの期待に応えたいからなのかと思ったけれど、毎日何処かで頑張っている誰かの日常が見たいからなのかもしれない。

おそらく、今の私は「自分の考え」を否定せずに少しずつ向き合えるようになっていると思うし、それなりに心も成長しているのだろう。もっともっと、自分に否定的にならずに過ごしたい。そしたら、下がった自己肯定力も戻るのではないだろうかと期待を込めている。

いいなと思ったら応援しよう!

[星野 カナタ]
お仕事中のドリンク代にさせていただきます。ちょっといい紅茶を買いたいです。