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男はひとつに編んだ黒髪に刃を入れる


 雲が薄っすらかかる鮮明な空に夕日が沈みゆくとき、百姓の娘・藤幸(ふじゆき)が家に帰ると、囲炉裏の周りを囲うように父と母が死んでいた。


「ただいまぁ」

 大きくひと声、滑りの悪い木の扉をガタガタと引きながら藤幸は言った。手に下げている竹カゴには、戦利品がいっぱいに詰まっている。藤幸は夕暮れの少し前から林の中をひとりで歩き、キノコ採りをしていた。今晩の夕食の足しにするためであった。

 藤幸は聞きなれた返事がくると期待した。この時刻、前掛けを身につけた母が駆けより、出迎えてくれるはずであった。父は農作業がひと段落して茶の間でくつろぎ、母に続いて出迎えにくるはずであった。

 17になったばかりの藤幸は本来なら嫁にいくほどの歳であるが、両親は長年、子を授からなかった。その中で身籠った貴重な一人娘。藤の花が咲き、虫を誘う甘美な香りをふりまく5月に生まれた子どもである。苦労が絶えない生活に、ぱぁっと花が咲くような幸せを運んできた。ゆえに「藤幸」と名付けられた。両親はひどく溺愛した。藤幸自身も、両親を独り占めできることに17になっても内心、子どものように喜んだのだった。

 なのに今日は、返事がない。外から聞こえる鳥の声がいやに大きく感じるほど静まり返っていることに、藤幸は不思議に思っていた。お勝手にある鍋には火がかけっぱなしになり、湯がふつふつと沸いていた。キノコを茹でるために母が準備していたのだろうと、藤幸は思った。

「お父ちゃん、お母ちゃん......?」

 廊下を進み、ミシミシと足音をさせながら家中を見まわす。藤幸は柱から顔だけをひょっこり出し、父と母を探した。しかし、どこにも人影がみつからない。

 パチッ......パチッ......。囲炉裏のほうから弾ける音が聞こえた。「もしかしたら、囲炉裏のそばで居眠りをしているのかも」と藤幸は考えた。囲炉裏のある部屋をのぞくと———藤幸は竹籠を落とした。採りたての水々しいキノコが、足元に散らばった。

 藤幸の目にうつったのは、両親の身体から流れでた”血の海”であった。少しばかり黒ずんだ鮮血が、床一面に広がっている。父と母は血の海の上で寄りそい、横たわっている。ただ血を流し、パタリと死んだのではない。血の海の端は四方八方にかすれて伸び、何人分もの足形があり、しずくが至るところに垂れ、壁には手形まである。

 鉄粉を部屋中にふり撒いたように、鉄の匂いが充満している。まだ生温かさが残っている。藤幸は思わず口を塞いだ。父と母の着物は身体のどこから出血しているのかわからないほど赤く染まり、赤黒く変色しはじめている。父と母の顔にも、掠れた血の跡が付着している。這いずり、転げまわったのだと、藤幸は両親が事切れる直前の様子を思い浮かべた。

 囲炉裏はただ黙ってそこにある。父と母の無惨な亡骸が隣にあろうがお構いなしに、なにも言わずにそこにある。鉄瓶は火に燻され続けている。鉄瓶の口から蒸気があがり、シンシンと音を立てていた。


 藤幸は、家を勢いよく飛び出した。家の四方を囲っている林を日が傾き薄暗いなか、あてもなく走った。たとえ力尽きても、息が切れようとも、走り続けなければいけない気がしていた。息はとっくに苦しい。喉の奥から血の味が込みあがってくる。それでも藤幸は草木をかき分け、走る。時折、頬に木の枝や葉があたり鋭い痛みが走ったが、それでも構わずに走り続けた。


『人攫い、物取りが増えているそうやわ。隣村の娘も襲われたって話やで。暗くなる前に帰ってきいや』

『あんたは大切な娘なんやから、なんかあったらお父ちゃん、生きていかれへんわ。絶対に気をつけるねんで』

藤幸は走りながら、心配する父と母を思い出した。

(お父ちゃんとお母ちゃんは、私にあんなに口うるさくいったのに。両肩を掴んで、強く言い聞かせる日もあったのに。それなのに、それなのに、お父ちゃんとお母ちゃんが気をつけなきゃならんかったんや。私がもっと早く帰っていれば、もっと早く帰っていれば......)

藤幸の目から、大粒の涙がわらわらと湧きあがる。激しく息を切らしながら、泣き叫ぶ。さまざまな感情が乱れ、雄叫びのような声をあげながら走った。腕が千切れそうになるくらい大きく降って、足がもつれそうなくらい踏み出して。藤幸が流した涙は頬を伝わず、風に流され後ろへと消えていった。



 三つ編みをした腰まである黒髪がほどけ、汗で髪が顔にへばりつき、着物がはだけきった頃。日はすっかり落ち、藤幸の周りには闇の密林が広がっていた。頼りなのは月明かりだけである。生い茂る木木は、怪しげ照らされている。風に流された葉が擦れあい、乾いた音が聞こえる。どこからともなく、何かがうごめく音もする。疲れた身体で、藤幸ははるか上をゆく木の間を歩く。歩を進める足には、たくさんの土や葉がまとわりつき、真っ黒になっているだろう。暗闇ではっきりとは見えないが、足にまとわりついている土や葉のざらざらした感触を、不快に思っていた。

 しばらく歩いていると、藤幸は遠くのほうに、橙色の光が点々とあるのに気がついた。何者かが、松明を掲げている。いや、何者かどころではない。後ろが見えないほどの人間たちが、山道に連なっているようだった。藤幸は橙色の光が歩調にあわせてゆらゆらと上下しているのを、木の影に隠れ、遠くの方から眺めていた。

 藤幸は虫が光に吸い寄せられるように、近寄った。連なっている人間たちから気がつかれない程度の場所にある大きな木に隠れ、右目だけを出し、こっそりと覗いた。"動物の面"を被った、大行列であった。木の面の上に、本物の動物の皮をかぶせているようだった。猿、熊、鹿、猪———。

 行列の先頭には、狐の面をつけた人物がひとりだけいる。先端に鈴のついた、男の背丈ほどある長い棒を鳴らし、念仏を唱えながら歩いている。松明を掲げている者や、何も持たずに歩いている者もいる。ずらずらと、藤幸の前を行列が通りすぎていく。

『動物の面を被った連中をみたら、近寄ったらあかんで。あいつらは血の通っていない奴らなんや』

 藤幸は、ふと母の言葉を思い出した。そして両親を殺した人物も、この大行列にいる誰かなのだ......と悟った。子どもが生まれて初めて何かを目にした時のような好奇心と、恐怖が混ざった眼差しで、通りすぎていく動物の面をみていた。

 すると、猿の面がひとり、こちらを向いた。藤幸はすばやく身体を縮こませ、身を隠した。視線をさげると、わら草履をはいた人々の足元だけがみえる。大きくゴツゴツした足。すね毛の濃い足ばかりが通りすぎ、藤は「男の大行列だ」と考えた。

「ちょっとあんた」

 どこからともなく男の声がした直後、藤幸はぐいっと腕を引かれ、茂みの奥に追いやられた。思わず声をあげそうになると、男はあわてて藤幸の口を手のひらで塞いだ。

「しっ。ここにいたら危ない。女は食べられるぞ」

 男は余っているほうの手で人差し指を立て、ボソリと言った。藤幸は男の言う「食べられる」が理解できずにいると「犯されるってことだ」と男は言った。

 藤幸の腕を引いたこの男は、木綿の着物をさらりと身につけ、胸はいくらかはだけている。左頬を覆い尽くすほど長く、大きな古傷があった。傷口は平坦になり、時間が経っていることが伺えた。黒い前髪は汗で光り、その髪は目にわずかにかかっている。雲に覆われていた月が、出た。髪の間からのぞく2つの目玉は、暗闇の中でもぎらぎらと輝いていた。

 男は藤幸の両腕を掴みながら、片膝をついた。

「いいか、動物の仮面をつけた連中は残虐非道なやつらだ。物を盗み、人を殺す。女、子どもはいくつだろうとかまわず食べる。血も涙もないやつらさ。ここにいちゃ危ない。女だとわかる格好をしているのも危険だ」

 我が子に言い聞かせる、真剣な眼差しであった。藤幸は父と母を重ねた。

「近くに小屋がある。そこで着替えた方がいい」
藤幸はうなずき、男に手を引かれ、林の中をふたたび走った。

 


 四半時あまり(15分)ゆくと、小屋にたどり着いた。しばらく誰も立ち入っていない、一才の手入れがされていないように見えた。小屋は蔦(つた)に食われているように覆われ、いくらか傾いている。

 男が、入り口を蹴破る。藤幸は男のあとに続いて入ると、ホコリとカビが混ざった臭いが鼻を刺激した。蔦の間から差しこむ月明かりを頼りに、男は小屋にあるガラクタの中から燭台(しょくだい)に刺さったままの、溶けて小さくなったロウソク。火打ち道具一式をみつけ、慣れた手つきで火をつけはじめた。暗闇に、火の粉がまった。

 藤幸は男の様子を小屋の隅で眺めながら、ガラクタに目をやる。欠けた皿、書物、使い古した鍋。どれもホコリがかぶり、まるで灰を撒いたようになっていた。誰かが住んでいたのだろうと、藤幸は思った。

 男がロウソクに火をつける。薄暗く、ホコリとカビが混ざった臭いのするこの空間に、柔らかい光が灯された。夏の夜、川沿いにふわふわと舞う「蛍の光」のようであった。その光は、男の顔を照らした。両肩が規則正しく上下し、先ほどまで走っていた余韻がまだ残っている。男の額には、じんわりと汗が出ていた。ホコリがついた手で汗を拭ったせいなのだろう。古傷に被るように、頬には黒い汚れがついていた。

「俺は候(こう)ってんだ。あんたは」
候と名乗る男は、小屋の隅にいた藤幸にぶっきらぼうに投げかける。

「———藤幸」
「いくつだ」
「17」
「あんなところで何してたんだ」
「............」
「黙ってちゃ、わからんだろう」
「お父ちゃんと、お母ちゃんが死んで」
「死んだ?」
「だから走ってきた。動物の仮面を被った奴らにやられたんだと思う」
「............そうか」

 候は藤幸の髪をぐしゃぐしゃと、乱暴になでた。候はなにか言いたげだったが、あえて黙っているように見えた。藤幸は両親の亡骸を思い出し、しばらく黙っていた。宛もなく走り続け、体力の限界が近い。口をひらく気力もなくなっていた。2人の間にはロウソクの灯りと、ホコリとカビの臭いと、灰を被ったようなガラクタだけがある。

「俺の家族も、あいつらに殺された。家に帰ったら皆んな、死んでた」

 沈黙を破ったのは、候のほうであった。そして懐かしむように「ちょうどお前くらいの歳だったかな」と重ねた。

 候は、隅で縮こまっている藤幸を手招きしてそばに座らせると、手ぐして藤幸の乱れた黒髪を上から下へと撫でた。時折、絡んで引っかかる。その部分は、両手で器用にほぐした。藤幸は、自分の両親が死んだことを宥めているのだと感じとっていた。候はひとしきり藤幸の髪を整えると、今度は丁寧に編みはじめた。迷いのない、慣れた手つきだった。

「昔、妹がいてな」

 候は思い出したかのように言った。藤幸は「いた」という言葉が胸に引っかかったが、あえて黙っていた。

「あんたは髪が長いから、女だと気がつかれやすい。大切にしてきただろうけど、いいか?」

候は懐から鞘のついた短刀を取りだし、見せながら言った。藤幸は黙ったまま、短くうなずいた。

 藤幸は今よりもっと幼い頃、母に湯上がりの髪をといてもらった記憶を思い出した。大切そうに藤幸の髪にふれ、木櫛で上から下まで丁寧にとかす。それは頭を丁寧に撫でられているようでもあり、藤幸はこの時間が好きであった。

じわり。藤幸の目の端からあたたかい涙が滲んだ。鼻をすする音を聞いた候は、藤幸の顔を心配そうに見つめている。滲みでた涙を人差し指でぬぐい、赤くなった鼻先を一度だけ、やさしく触れた。

「もういいの」

 藤幸は小さく答えた。

候は藤幸のひとつに編んだ黒髪をつかみ、刃を入れた。左右に刃を動かす。絹のように艶があり、しっとりと水分を含んだ黒髪は簡単には切れない。はらり、はらり。少しずつ、黒髪が床に散る。

候はロウソクの光に照らされて輝く黒髪いっぽんいっぽんに、目を行き渡らせていた。


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