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自分でえらんでよかったこと

 あの時こうしてなかったと思ったらぞっとする、というような文句は聞く機会が多い。人生を振り返ってみれば、過去の自分が選び取った何気ない選択が、今の人生を決定付ける要因となることもある。
 いくつかあった人生の岐路で、私は選んでよかったと思える道を辿れたろうか。振り返れば失敗ばかりが目に付くものだが、少なからず点在する選んで良かった道について、振り返ってみようと思う。

 私は20歳で故郷の愛知から上京し、東京都内のアニメ会社に就職した。アニメーターという仕事への憧れだけで飛び込んだもの、次々に出会う傑出した才能に、私はすぐに打ちのめされてしまった。それでも何とか粘って働いたけれど、結局27歳で、私はアニメーターを離職することになった。

 社会に出てからの七年間、私はアニメや映像に関係する仕事ばかりを続けてきた。アニメーターを離職し無職となった私は、自分の人生を空虚に感じたものだった。七年という時間をすっかり捨て去ってしまって、若さだけが無為に消費されたような感じがした。当然この時の私は、かつて道を違えたのかもしれないと思ってもやむない生活を送っていた。

 ――あの時こうしていなかったらと思うとぞっとする。

 この時の私は、それこそ誰かが選ばずに済んだ、「ぞっとする」道を歩んでいるような気がしてならなかった。しばらくは休むと決めて離職したもの、毎日から張り詰めたものが一気に消えてしまい、とにかく私は暇を持て余した。

 長い暇を食いつぶすように、私は本を読んで過ごした。集中力がなく読書が苦手だった私はそれまであまり本を読んでこなかったが、他にすることが無いという状況が、やっと私を活字の世界へ向かわせた。日がな一日、本を広げて過ごす日々は、新鮮でそれなりに面白く感じた。

 その日、私は太宰治の「晩年」を開いていた。今はもうない練馬駅前のミスタードーナッツの二階席。360円で頼んだモーニングセット。流行りの曲が掛かる店内には客も少なく、吸収されない音が反響して聞こえた。
 私が太宰治の本を開くのは、この時が初めてのことだった。
 彼の作品には読者を飽きさせない独特な仕掛けが多く、想像していたよりもずっと読みやすい作家だと感じた。彼の露悪的な部分は、どこか人を安心させる不思議な魅力を孕み、一般的な社会生活から逸脱してしまった私にとって、それはある種の救いになったのも事実だった。

 そして中盤の短編「道化の華」を読んでいた時に、私でも書けるのかもしれない、などと思いついてしまったのだった。どうしてそう思ったのかは、正直今となってもわからない。彼のある種の悪辣さが、小説への高尚な印象をポジティブな意味で打ち砕いたのかもしれない。

 私は携帯電話を開くと、日記をつけはじめた。刺激の無い毎日を送っていた私は日記に書くことがすぐに無くなってしまい、それからは嘘の日記をつけはじめた。そしてある日書いた嘘の日記が存外面白く、日記の続きを小説へ書き直すことに決めた。
 私が初めて書いた小説「練馬」はこうして誕生し、読んだ友人からの評価が思いの外良く、次第に文章や物語を書く楽しさを知っていった。

 あの日、本屋で「晩年」を選び取った理由は、店員にバイトの募集について質問するのに、手ぶらでは気まずいと思ったからだった。私は「道化の華」を読まなければ、自分で筆を執るという考えにすら至らなかったのかもしれない。これはたしかに、好機を呼び寄せる選択だったように思う。
 そして一方で思うのは、では20歳で上京したのは、ほんとうに間違いだったのだろうか、という疑問だった。

 私はアニメーターを離職した際、間違った選択をしたと自身を振り返った。しかし私が物書きを始めるに至るまでには、様々な要因や遠因が絡み合っているに違いはないのだ。少なくとも上京し練馬に済んでなければ、処女作である「練馬」は作られなかった。そしてこの先、物書きをしていて良かったと、もっと思える人生を送る可能性だってまだある。

 選び取らなかった人生を覗き見ることは、私達には叶わない。
 私達はいつも一方の道の結果だけを見て、かつての選択の是非を判じている。そしてそれを判じるのは、常に現在の自分でしかない。答え合わせが出来ないのだから、自己評価で決定する他ない。
 とすれば、私がしてきたあらゆる選択の是非については、まだ明らかになっていないというのが正しいのかもしれない。

 20歳で上京したのは成功だったと、未来の私が思うかもしれない。本屋で「晩年」を手にしたのは失敗だったと、未来の私が思うかもしれない。
 少なくとも、空虚で空っぽだったアニメーター離職後の私と比べれば、今はいくらか上京して良かったとも思えるのだから、人間は都合の良いように過去を振り返るものらしい。

 そして前へ向き直れば、また暗い道の先に分かれ道が現れる。
 この選択もいつかの未来の私に認められますように。

 勇気を振り絞り、道の先へと進んでいく。人生を歩むのはいつも足が竦むけれど、それでも選び進まなければならない。
 選択をし進まなければ、暗く沈んだままの過去の分かれ道に、光が灯る可能性さえなくなってしまうのだから。
  
 
著/がるあん
絵/ヨツベ

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