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考える古代史

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古代史のさまざまな問題を考えていきます。
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25.不比等の存在をあぶりだす

25.不比等の存在をあぶりだす

 私が30年以上も前に古代史に関する本を多く読み始めたころ、藤原不比等が日本史の上でそれほど重要な人物であるとは思ってもみなかった。ざっと日本書紀を読んでも、不比等の重要性は容易には気が付かないであろう。

 しかし、不比等は極めて重要な人物である。歴史の背後に隠れている不比等の姿をあぶりだすために私はいくつかの仮説を立てている。いずれも重要な仮説である。

まず同時出現説。これは天皇号、アマテラ

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24.ミチュホル仮説の必要性

24.ミチュホル仮説の必要性

 私は4世紀に百済南方にミチュホルという国が存在していたという説を提唱している。

 なぜその仮説が必要になるかを簡単に説明したい。

 まず必要性であるが倭国の4世紀の主として古墳を中心とする歴史と、広開土王碑に見られる倭国の半島での活動に齟齬がみられることである。4世紀の古墳を見る限り軍事的な国家像は浮かんでこない。武器はほとんどなく、農家の納屋で大切にしているような針や農具などが出てくるだけ

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23.国文学者の先生にお願いです。和歌の始まりのころの歴史について書いてください。

23.国文学者の先生にお願いです。和歌の始まりのころの歴史について書いてください。

国文学者の先生にお願いです。和歌の始まりのころの歴史について書いてください。

国文学者の全集を読んでみた。渡瀬昌忠、阿蘇瑞枝、神野志隆光、稲岡誠二先生など、どの先生もすごい量のむつかしそうな研究をされており、国文学者以外の人にとって何が研究されているのかほとんど分からないいわば雲の上の研究である。私は和歌のはじまりについて知りたいと思ってぱらぱらとページをめくったが、この膨大な著作の中に和歌のは

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22. ムスヒを誤解しているのに、どうして神学がなりたつのか?
本居神学にはエビデンスも何もないのではないのか。

22. ムスヒを誤解しているのに、どうして神学がなりたつのか? 本居神学にはエビデンスも何もないのではないのか。

 アマテラスが皇室の祖先神として祭られる前は国家神としてタカミムスヒが祭られていた。この結論は今後、変わることはないと考えられる。

 二つ重要なことを指摘しておきたい。

 一つはアマテラスを祭り始めた時期(持統期)に、それまでの大王時代とは違う神を新しく国家神としたということである。何かが起こったということである。何が起こったのであろうか。この時代に初めてアマテラスを祭る伊勢神宮ができたことも

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21. 現人神思想と柿本人麻呂

21. 現人神思想と柿本人麻呂

 現人神思想は天皇制を考え出した藤原不比等が生み出した国王イメージである。不比等はそれまでの国王とは違って、君臨すれども統治しない国王、神を祭り、自らが神になる国王イメージを作り出した。最終的には701年選定の大宝律令に明津神(あきつみかみ)として法制化したが、その始まりはいつごろであろうか。

 不比等は持統と相談して、686年、陰謀によって大津皇子を謀反の罪で処刑して権力を奪取したが、その頃に

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20. タカミムスヒと本居宣長

20. タカミムスヒと本居宣長

 保立道彦教授のnoteから引用させていただいた。

 本居宣長はこの二神(タカミムスヒとカミムスヒ)の神名の語尾、産霊=ムスヒを「産巣(ムス)は生(ムス)なり」、「凡て物の霊異(クシビ)なるを比と云う」と説明している。ムスは生成、ヒは霊威を意味するから、ムスヒとは「生成の霊異」であるというのである。こうして本居はタカミムスヒとカミムスヒは「産霊=ムスヒ」の神であって、そのような神として列島の自然

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19. 藤原氏の藤原氏による藤原氏のための天皇

19. 藤原氏の藤原氏による藤原氏のための天皇

 天皇の歴史について知らない人が多すぎる。そういう私自身、鎌倉以降も明治になるまで右大臣、左大臣が連綿と続いていることを知らなかった。というよりもうすうすは感じていたが、今回調べてみて天皇の歴史は藤原氏の歴史であることを痛感した。

 藤原氏の藤原氏による藤原氏のための天皇と言ってもいい状況である。

 諸氏族が国王を支えていくというのがいかなる国においても常態であると考えられるが、日本においては

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18. 専門家の皆さん、答えてください「なぜ仁徳陵と応神陵はあれほど大きいのか」

18. 専門家の皆さん、答えてください「なぜ仁徳陵と応神陵はあれほど大きいのか」

 仁徳陵と応神陵は5世紀の歴史の証拠物件である。なぜあれほど大きいのか。 

 私はいつも専門家の先生になぜ仁徳陵と応神陵はあれほど大きいのかを説明して欲しいと思っていた。

 なぜあれほど大きいかが説明できないかぎり5世紀の歴史を解いたことにはならない。早く解明していただきたいものである。

 実は私は5世紀の歴史について一定の史観をもっており、私の『古代史の仮説I そらみちゅやまと』の中で説明

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17. 舒明系譜(中大兄系譜)の危うさ

17. 舒明系譜(中大兄系譜)の危うさ

 私は天皇号は持統天皇から始まったと考えており、私の著作では天武より前の国王は大王と表記している。しかし、話を分かりやすくするために、ところどころ王女とすべきところを皇女と表記している。この点はご容赦ねがいたい。

 皇極(斉明)帝の即位ほど不思議な即位はない。彼女は皇女ではない唯一の天皇である。つまり、推古、持統、元明、元正、孝謙(称徳)などの女帝はすべて天皇の娘であるが皇極(斉明)帝は敏達大王

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16. 百済王子翹岐について

16. 百済王子翹岐について

 日本書紀には百済王子翹岐の名前が12回でてくる。まず11回は次に示すように一塊の記事として現れる。

641年、舒明大王が百済宮で崩御したが、その翌年からの記事である(訳文は宇治橋孟 講談社)。

皇極元年(642年)春1月15目、皇后は天皇に即位された。蘇我臣蝦夷をそれまでどおり大臣とされた。大臣の子入鹿またの名鞍作が自ら国政を執り、勢いは父よりも強かった。このため盗賊も恐れをなし、道の落し物

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15. 藤原不比等は詐欺師か

15. 藤原不比等は詐欺師か

 藤原不比等は日本書紀に、事実でないことを故意に書き込んだと断言していいと思う。もうそろそろそれに気が付かないといけない思う。いつまでも古代人に騙されたままでいいのか。藤原不比等は故意に事実でないことを書き込んだという嫌疑を前提にして日本書紀を読み解くべきときがきたと思う。 

 これまでの歴史家はあまりにも不比等を信用しすぎている。まさか国史に積極的に嘘を書くことはないと考えてきた。しかし、

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14 略体歌と和歌の起源

14 略体歌と和歌の起源

 略体歌とはいわゆる「てにをは」のない和歌である。柿本人麻呂が青年期に残した歌である。

 略体歌の例として柿本人麻呂の春の相聞歌7首をみてみたい。

 まず、助詞を入れて訓み下す前の万葉集掲載の表記でみてみたい。万葉集に書かれている通りのオリジナルな表記である。どのような文学でも翻訳物よりもオリジナルが尊重されるべきであり、日本人であれば、そして日本語で書かれていれば何とか意味を見つけ出すことが

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13. 中臣氏について考えるべきこと

13. 中臣氏について考えるべきこと

 日本書紀では中臣氏は4世紀ごろからすでに倭国にいた古くからの氏族として描かれている。それどころか高天原から天皇の側近として地上に降りてくる皇室に最も近い、最も重要な氏族である。天皇側近であるはずの大伴氏は、地上でそれをお迎えしたというのであるからとにかく凄い氏族であるが「天皇の側近として地上に降りてきた」のは明らかな作り話である(誰が何のために作った作り話か、皆さんに考えていただきたい)。

 

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12. 孝徳と中大兄の確執

12. 孝徳と中大兄の確執

 乙巳の変(大化改新)は軽王子(後の孝徳)の支援で行われた。周囲の勢力も孝徳の方が多かった。なぜなら乙巳の変が起こるおそらく10年ほど前から、軽王子(後の孝徳)は難波一帯に自分の勢力を広げていたからである(遠山美都男『大化改新』に詳しい)。したがって乙巳の変も中大兄主導ではなく、策の多くは軽王子(後の孝徳)と中臣鎌足との間で打合せされた可能性があるのである。

 したがってそのような状況の中で孝徳

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