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15. 藤原不比等は詐欺師か

   藤原不比等は日本書紀に、事実でないことを故意に書き込んだと断言していいと思う。もうそろそろそれに気が付かないといけない思う。いつまでも古代人に騙されたままでいいのか。藤原不比等は故意に事実でないことを書き込んだという嫌疑を前提にして日本書紀を読み解くべきときがきたと思う。  

 これまでの歴史家はあまりにも不比等を信用しすぎている。まさか国史に積極的に嘘を書くことはないと考えてきた。しかし、嘘ばっかりの安倍長期政権をみていると国が編纂したから真実であるということなどあり得ないことがよく分かる。  

 その書かれた嘘にだまされている限り、真実は明らかにならない。おそらく不比等の嘘に、うっすらと気がついた歴史家は何人もいたであろう。しかし正面から嘘だとは指摘できなかった。  

 これまで私は『古代史の仮説ⅡおよびⅣ(Kindle出版)』で不比等について書いてきたが、「まさか国史に積極的に嘘を書くことはない」という意識がまだ残っていた。人を詐欺師よばわりすることはできるだけ避けねばならないという意識があった。  

 しかし、それでは物事を明確にすることはできないので、これからは敢て「藤原不比等は人々を騙す意思を明確に持っていた」というコンセプトで考えていく。  

 そのような眼で見ると、古事記は稗田阿礼が口述するものを太安万侶が筆記したとか、日本書紀は舎人親王のもとで完成され、公表されたとか、天武が史書の編纂を命じたなどなどの記事もかなり怪しいカモフラージュ記事である可能性があり、はなから無視して論じた方がいいのではないかと思われる。まったく無視するのもどうかということであれば、軽く触れる程度でいいと思う。  

 これまでの歴史研究者が稗田阿礼についてどれほど研究したであろうか。詳細は知らないが相当の研究がなされたと推測する。しかし、結局これだという人物像は見つけることができていないのである。 稗田阿礼にこだわる限り、価値のない探求に時間がとられてしまう。

 これを上記の立場から言えば、詐欺師が騙そうと思っていろいろ仕掛けてくる材料にいちいちこだわって解明しようとする態度は徒労そのものということになる。  

 相手の手の内に取り込まれて何が得られるのか。相手の詐欺師性を見破って、相手の材料を軽くあしらいながら本質を追求していくべきである。 かって梅原猛氏は稗田阿礼を藤原不比等のペンネームであると言われた。それでいいと思う。 

 不比等がしかけた罠に引っかからないようにするために私が考えた大きな枠組みを提示しておきたい。  

 ここに提起したキーコンセプトは藤原京時代をみていく際に、重要なコンセプトであるが、従来、ほとんど論じられたことがないコンセプトである。  

 第一は改名権力説である。藤原宮は不比等の藤原という氏族名にもとづくものであり、不比等の藤原という氏族名と藤原宮という宮名が偶然に一致しているはずがない。中臣大嶋は藤原大嶋に改名したあと、藤原宮遷宮の直前に葛原大嶋に改名させられている。藤原宮で藤原となのる人物は藤原不比等のみである。この事実は藤原不比等が権力をもった王族であったことを示すものである。単なる偶然に一致だったならば改名権力をもつ朝廷は不比等に改名をせまったはずである。そうしていない意味を考えるべきである。  

 第二は「藤原京の前に天皇制なく、藤原京の後に天皇制あり」という藤原京時代認識である。略して天皇制藤原京出現説である。即位式、大嘗祭、伊勢神宮の創設、人麻呂の和歌に表れた現人神思想、アマテラス神話、日本書紀のもとになっている資料がこの時代に一気に出現している。  

 これまで歴史家は不比等に騙され続けていたためにこの時代認識に容易に到達できなかった。これからの人々はこの正しい時代認識をもってくれることであろう。藤原京時代について正しい認識がなければ古代史の研究は前進しない。  

 第三は明確な天皇制イメージをもった指導者の存在説である。略して「指導者存在説」である。  

 天皇制は天武、持統が主導したとか、なんとなく時代の趨勢でできたような記述しかしていない歴史家が多い。しかし、持統時代に天皇制が形を整えてきたということと、持統が指導者であったということは全く別のことがらである。本気で時代のリーダーを探してほしいと思う。専門家の本を読んでいて、アマテラスは天武の頭のなかに現れたとか、持統が天皇制を推し進めたかのように書かれているが、何の根拠もない。中国の文献を解読できたリーダーは不比等以外に考えられない。

  第四は古事記、日本書紀は藤原史観を採用していることである。

 藤原氏の先祖のアメノコヤネが天皇のお供をして天から下ったというお話は、官僚が不比等に忖度したということも一応は考える必要はあるが、忖度だけではかたづけられないレベルの問題である。自ら編集に関与していた可能性が考えられる。また古事記や日本書紀の基礎資料、特にアマテラス関連の神話は藤原京で大量に作成されたと考えられる。そのようなことをさせた指導者は不比等をおいて外には考えられない。  

 第五は不比等は持統朝時代の当事者であるということである。

 権力を奪取した六八六年の大津王子事件のとき、不比等は二十八歳であったが、それより四年前の六八二年夏の天変地異時代から、七二〇年に右大臣として薨去するまでの三十九年間は当事者として権力周辺の歴史はよく知っていたはずである。  

 七二〇年に日本書紀が公表されるが、そのときまで八年間、右大臣であった不比等は実は、権力の中枢にいて、天武崩御以来の本当の日本史をすべて知っていた人物であったということができる。不比等は時代の生き証人でもあったのである。  

 通説でも八年間、右大臣として日本の歴史についての多くの情報を見ることができたはずである。私の不比等帝王説ではほぼ三十五年間、倭国の政治のトップにいたのである。  

 つまり、六八二年から七二〇年までの日本書紀の記載は本当は、事実を知っている不比等が、ある場合には脚色し、ある場合にはあいまいな記述にしてしまった可能性が高いと考えられるのである(不比等はこの時代の当事者であることを意識して考えるべきであり、これを「当事者説」となづける)。特に不比等自身の官位の記事が少ないことに注目すべきである。当事者説に立てば持統期の記録をあいまいにした不比等の意図が読み取れるであろう。

  第六は天皇制と、アマテラスと、伊勢神宮は一体的に出現したという認識である。これを「同時出現説」と名づける。  

 天皇制の起源と、アマテラスの創出と、伊勢神宮の造営は十年以内のほぼ同時期に出現したと考えるべきである。天皇制の定義がやや問題であるが、国王が天皇と呼ばれ、現人神として即位し、大嘗祭などの神事を行う制度と定義しておく。  私はこの天皇制の出現とアマテラスの出現と伊勢神宮の出現はほぼ同時期であると考えるべきだと思う。互いに連動する事象であるととらえるのが極めて合理的な考え方であると思う。  

 アマテラスの出現は四世紀ごろであるのに、伊勢神宮ができるのは七世紀も終わりごろの持統、文武期であったと考えるのはむしろ不自然な考え方である。それまで宮中で祭られていたという主張は間違いのようである。持統、文武期にアマテラスが出現する以前に宮中で祭られていたのはタカミムスヒという神であったことが分かっているからである。  

 天皇制はあったがアマテラスは出現していなかったという主張も考えられるが、タカミムスヒのことを考えると、それも不自然な考え方である。タカミムスヒを祭っていた天皇制が古くから続いた後、あるとき突然に、実は皇室の祖先はアマテラスであった言い出すであろうか。十分にストレンジと言わなければならない。  

 このように現人神天皇制とアマテラスと伊勢神宮はいずれが先でも、不自然な事態となり、不合理な結果となるのである。理屈の上でもこの三者はほぼ同時(十年以内)に出現したと考えられるが、個別の歴史を探ってみるとその主張を裏付けるエビダンスが見つかるのである。  この同時出現説をしっかりと考えないから四世紀ごろからアマテラスが出現していたなどという攪乱記事に騙されるのである。  

 従来の史学にはこれらのコンセプトがなかったので、真の藤原京時代を見出すことができていなかったのである。私はこれらのコンセプトを中心にして藤原京時代をみていきたいと思う。    

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