岡崎康民

京都大学理学部卒 翻訳業 『最後の渡来氏族中臣氏はどこから来たか』『天智大王とは誰か』…

岡崎康民

京都大学理学部卒 翻訳業 『最後の渡来氏族中臣氏はどこから来たか』『天智大王とは誰か』『藤原京の帝王・藤原不比等』『真実を求めて 王権交代と広開土王体制』『倭王珍の妄想・タカミムスヒの神』『邪馬台国と初期ヤマト王権(騎馬民族征服王朝説修正説)』をアマゾンより出版

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『倭王珍の妄想』韓国語版3

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      安羅加耶の古墳など

      安羅加耶 ワッソ 古代の日韓交流などがよくわかる

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        武寧王陵の内部

        聖王の父である武寧王陵 隅田八幡宮の銅鏡は武寧王が作らせたものである。武寧王の棺は倭国の高野槙製であった。

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          全羅道 羅州の墳墓から出土した人骨は百済人ではない。

          全羅道が五世紀末から六世紀ごろに百済領になったことを示す考古学的証拠

        『倭王珍の妄想』韓国語版3

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        • 韓国語で韓国史学の論文を読んでみる
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          『倭王珍の妄想』韓国語版2

          『倭王珍の妄想』韓国語版2

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          『倭王珍の妄想』韓国語版1

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          26.現人神思想はどこからやってきたか。

           天皇は生きた人間のまま神であるという思想はいつごろできたものであろうか。とにかく古くから天皇制があったと思っている人がほとんどなので、現人神という思想もとにかく古くからあったと思っている人も多いであろう。  しかし、天皇制の歴史は比較的新しく、藤原京の持統天皇のころである可能性が高い。持統即位は690年であるから、大体、現人神思想が生まれたのもそのころである。現人神思想の一番の手掛かりは養老律令、およびその前身の大宝律令の中にある。ちなみに大宝律令が制定されたのは701年

          26.現人神思想はどこからやってきたか。

          韓国語で韓国史学の論文を読んでみる-10-

          다만 현재로서는 후연이 「광개토왕릉비」 에서 전면에 등장하지 않고 있다는 것이 중론이다. ただし現在のところ後燕が「広開土王陵碑」で前面に登場していないというのが大半の意見(衆論)である。 설령 등장한다고 하더라도,395년의 패려 정벌이 사실은후연을 공격한 것이었는데,패려를 공격한 것으로 바뀌어 등장한다고 보거나,고구려가 획득한 만여 벌의 개갑을 제작할 역량을 지닌 국가는 당대에 후연뿐이었다는 분석 정도이다. たとえ登場したとしても、

          韓国語で韓国史学の論文を読んでみる-10-

          25.不比等の存在をあぶりだす

           私が30年以上も前に古代史に関する本を多く読み始めたころ、藤原不比等が日本史の上でそれほど重要な人物であるとは思ってもみなかった。ざっと日本書紀を読んでも、不比等の重要性は容易には気が付かないであろう。  しかし、不比等は極めて重要な人物である。歴史の背後に隠れている不比等の姿をあぶりだすために私はいくつかの仮説を立てている。いずれも重要な仮説である。 まず同時出現説。これは天皇号、アマテラス神話、伊勢神宮、大嘗祭、中臣神道の出現、現人神思想がほぼ同じ時期に出現したとす

          25.不比等の存在をあぶりだす

          24.ミチュホル仮説の必要性

           私は4世紀に百済南方にミチュホルという国が存在していたという説を提唱している。  なぜその仮説が必要になるかを簡単に説明したい。  まず必要性であるが倭国の4世紀の主として古墳を中心とする歴史と、広開土王碑に見られる倭国の半島での活動に齟齬がみられることである。4世紀の古墳を見る限り軍事的な国家像は浮かんでこない。武器はほとんどなく、農家の納屋で大切にしているような針や農具などが出てくるだけである。一方、広開土王碑に見られる倭国は半島に進出した軍事国家である。この齟齬を

          24.ミチュホル仮説の必要性

          広開土王碑文

          【第一面】  惟昔始祖鄒牟王之創基也。出自北夫餘、天帝之子母河伯女郎剖卵降出生子有。聖□□□□□□命駕巡車南下路由夫餘。奄利大水王臨津言曰、我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王為。我連葭浮龜應聲即為。連葭浮龜然後造渡於沸流谷忽本西城山上而建都焉。永樂世位因遣黃龍來下迎王。王於忽本東岡黃龍負昇天顧命世子儒留王以道興治。大朱留王紹承基業□至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚號為。永樂太王恩澤洽于皇天威武振被四海掃除□□庶寧、其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九晏駕棄國。以甲寅年九月廿

          広開土王碑文

          韓国語で韓国史学の論文を読んでみる-9-

          「광개토왕릉비」에서 획득한 성들의 이름을 세세히 기록한 것을 보아 396년 전투의 성과가 왕의 업적 중에서도 특별하게 여겨진 것 같다. 「広開土王陵碑」で獲得した城の名前を細かく記録した事を見れば396年の戦いの成果が王の業績の中でも特別であると思われる。 「광개토왕풍비」에서는 58성을 획득한 순서대로 기록하였는데,이 성들은 상당히 넓은 지역에 분포하였다고 한다. 「広開土王陵碑」では58城を獲得した順に記録したが、これらの城はかなり広い地域に分

          韓国語で韓国史学の論文を読んでみる-9-

          14 略体歌と和歌の起源

           略体歌とはいわゆる「てにをは」のない和歌である。柿本人麻呂が青年期に残した歌である。  略体歌の例として柿本人麻呂の春の相聞歌7首をみてみたい。  まず、助詞を入れて訓み下す前の万葉集掲載の表記でみてみたい。万葉集に書かれている通りのオリジナルな表記である。どのような文学でも翻訳物よりもオリジナルが尊重されるべきであり、日本人であれば、そして日本語で書かれていれば何とか意味を見つけ出すことができるのではなかろうか。皆さんに挑戦していただきたい。皆さんはどのように読み下さ

          14 略体歌と和歌の起源

          23.国文学者の先生にお願いです。和歌の始まりのころの歴史について書いてください。

          国文学者の先生にお願いです。和歌の始まりのころの歴史について書いてください。 国文学者の全集を読んでみた。渡瀬昌忠、阿蘇瑞枝、神野志隆光、稲岡誠二先生など、どの先生もすごい量のむつかしそうな研究をされており、国文学者以外の人にとって何が研究されているのかほとんど分からないいわば雲の上の研究である。私は和歌のはじまりについて知りたいと思ってぱらぱらとページをめくったが、この膨大な著作の中に和歌のはじまりについての研究がないのである。 どうして和歌の始まりについての研究がない

          23.国文学者の先生にお願いです。和歌の始まりのころの歴史について書いてください。

          韓国語で韓国史学の論文を読んでみる-8-

          가-7. 4년 가을 8월, 왕이 水 위에서 백제와 싸워 크게 패퇴시켰다. が-7。4年秋8月、王は浿水上で百済と戦い、大きく敗退させた。 노획한 포로가 8천 급이었다. 生け捕りにした捕虜は8千人もいた。 가-8. 가을 8월, 왕이 좌장? 진무 둥에께 명하여 고구려를 치게 했다. が-8。秋8月、王は左将真武等に命じて、高句麗を打たせた。 고구려 황 담덕이 몸소 7천여 병사를 이끌고 漢水에 진을 치고 방어했다. 高句麗王談徳が自ら7000余の

          韓国語で韓国史学の論文を読んでみる-8-