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26.現人神思想はどこからやってきたか。

 天皇は生きた人間のまま神であるという思想はいつごろできたものであろうか。とにかく古くから天皇制があったと思っている人がほとんどなので、現人神という思想もとにかく古くからあったと思っている人も多いであろう。

 しかし、天皇制の歴史は比較的新しく、藤原京の持統天皇のころである可能性が高い。持統即位は690年であるから、大体、現人神思想が生まれたのもそのころである。現人神思想の一番の手掛かりは養老律令、およびその前身の大宝律令の中にある。ちなみに大宝律令が制定されたのは701年である。大宝律令は古代の唯一の立法機関であった不比等が政権責任者として自由に内容を定めることができたものである。不比等の意向に沿って内容が決められていったと考えられる。

 701年に不比等が定めた大宝律令は正文が残っていないが、ほぼ内容は同じと考えられている養老律令をみてみたい。養老律令の中の行政命令を定めた規定が公式令であるが、その第一の規定が天皇の命令である詔書に関する規定である。次のように書かれている。

公式令第一 詔書式條:詔書式/明神御宇日本天皇詔旨云云。咸聞。/明神御宇天皇詔旨云云。咸聞。/明神御大八州天皇詔旨云云。咸聞。/天皇詔旨云云。咸聞。/詔旨云云。咸聞。

 つまり天皇が出す詔書には明神御宇日本天皇とか、明神御大八州天皇とかを書き込むことになっている。「明神(あきつみかみ)である天皇」という称号で命令を出すのである。天皇は明神(あきつみかみ)であるというのである。藤原不比等が日本国王である天皇は明神(あきつみかみ)であることを法制上規定したのである。この規定をもつ養老律令は718年、不比等によって編纂され、757年(天平宝治元年)施行されたが、実に明治にいたるまで効力を持ち続けた法律である。

 国家の基本法に天皇は明神(あきつみかみ)=現人神と定めたのは不比等であるが、彼はなぜこの明神(あきつみかみ)=現人神を明文化したのか。それは彼が自ら生み出した思想だったからである。それまで大王を神とした思想はない。国王を畏怖し、奉ったことはあったであろうが、神と考える例はなかった。

 万葉和歌の中に天皇を神格化した歌がいくつか残っているが、2首を除いて他は全て柿本人麻呂の歌であり、しかも歌われた時期は持統が即位した690年から藤原京に遷都した694年ごろに集中している。それは不比等の影響下にあった人麻呂が出来たばかりの天皇制のプロパガンダとして天皇を神とする歌を歌ったからである。

 私は天皇制は藤原不比等が権力を奪取した686年の前後に考え付いたものであると推定している。690年の持統即位にはじまリ、持統の伊勢への行幸、伊勢神宮の造営、大嘗祭の制定、中臣祝詞の出現、人麻呂の天皇制のプロパガンダとしての長歌、および天皇号の出現(人麻呂の和歌にのみ2首)が目白押しに出現しているのは当時、権力と中国の文献を読むことができた知性を併せ持つ不比等の指導によるものであると思う。

 若干補足しておきたいが、大嘗祭の例は天武期にも書かれているが、天皇即位に際して一度だけ行われるといった形で整備されたのは持統期が最初であると考えられる。中臣氏の祝詞も近江朝で表れているが、事実かどうか疑わしい。というのは日本語表記の歴史を考えるからである。最初の公式日本語表記である第一宣命は697年に初めて現れている。和歌が表記されたのは稲岡東大名誉教授の説では人麻呂が最初であるとされており、680年以降ということになる(私は和歌の最初の表記は655年前後と考えている)。したがって持統即位の690年に中臣氏が出した天神寿詞はできたてほやほやの日本語表記になる。それよりも20年以上も前の近江朝での中臣祝詞は少なくとも日本語らしい日本語であったかどうか疑わしい。

 伊勢神宮やアマテラス神話なども日本書紀では4世紀ごろには存在していたかのように書き込んでいるが、日本書紀における不比等の詐欺性に注意しておかなければならない。古事記、日本書紀編纂時に長期政権(34年間)のトップであった不比等は日本書紀のあちらこちらに粉飾を施して天皇制がとにかく古くからあったように見せかけているからである。詐欺師に騙されないためには詐欺の手口をしっかりと見極める必要がある。

 天皇制は持統とか天武が進めたものではない。また何となく時代の趨勢で天皇制ができるはずもない。明確な天皇制のイメージをもった強力な指導者がいない限り、これほど短時間に天皇制が整うはずがない。

 不比等は大宝律令、養老律令を作ったが、686年にできた飛鳥浄御原令の作成にも関わっていたと考えられる。そのためにそれ以前から中国の唐の文献を多く読み、研究していたはずである。その研究の中で唐の皇帝制度を参考に日本の天皇制を考えていたであろう。この当時、中国の唐の文献を読むことができたということは大きな力であった。伊勢神宮を作ることを考えたのも中国、朝鮮の王朝に祖廟が存在していることから考え付いたものであろう。

 王族であり、持統の天皇即位に貢献した功績があり、比類ない中国文献解読力という力をもった不比等に敵はいなかった。藤原京時代の前半、形の上では不比等以外に多治比嶋、大伴御幸、阿倍御主人、石上麻呂という4人の政治家がいたが不比等に対抗できる政治権力をもっていたものはいなかったと私は推測している。したがって天皇制のデザインは不比等の独断でできたであろう。

 日本の天皇は中国の皇帝と比べると政治権力は格段に制限されている。これについては別に論じるが、中国で皇帝の権限とされている多くの権限が日本の律令では右大臣、左大臣などの太政官の権限とされている。比ゆ的に分かりやすく言えば天皇は「君臨すれども統治せずの状態に近い」のである。中国や韓国のドラマでは皇帝や国王が自ら多くの政治的課題を重臣らを集めて決済している様子が描かれている。日々の政治を国王が自ら行っているのである。しかし日本では日々の政治決済は太政官が行い、天皇には報告だけするという制度になっている。

 このような制度が4世紀や5世紀からあったわけではない。大宝律令によって決められたのであり、大宝律令は不比等が制定したものである(歴史教科書では文武天皇が制定ということになるが)。不比等の思うままの制度設計がなされているのである。天皇を神にして藤原氏が事実上の王として政治を牛耳るというのが結果的かもしれないが不比等が考えたことであろうか。

 結果的かもしれないが不比等の予想以上に藤原氏は繁栄し、藤原氏の藤原氏による藤原氏のための天皇制が平安時代(ほぼ390年間)を通じて完成された。おごれる平氏は久しからずであったがおごれる藤原氏は久しすぎる。平安時代以後も天皇制と藤原氏は完全に癒着して、これを切離することは不可能な異常事態になっていた。本来、いろいろの氏族が国王をささえて国政を行うのが常態のはずであるが、日本では天皇制と藤原氏の完全癒着が明治にいたるまで続くのである。

 


 

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