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14 略体歌と和歌の起源

 略体歌とはいわゆる「てにをは」のない和歌である。柿本人麻呂が青年期に残した歌である。

 略体歌の例として柿本人麻呂の春の相聞歌7首をみてみたい。

 まず、助詞を入れて訓み下す前の万葉集掲載の表記でみてみたい。万葉集に書かれている通りのオリジナルな表記である。どのような文学でも翻訳物よりもオリジナルが尊重されるべきであり、日本人であれば、そして日本語で書かれていれば何とか意味を見つけ出すことができるのではなかろうか。皆さんに挑戦していただきたい。皆さんはどのように読み下されるでしょうか。

 これは一種のパズルと言えるもので当時の人でも簡単には読めなかったはずである。読み解くことができなくても、最初のころの日本語表記として眺めるだけでも有意義であると思う。


1890 春日野犬鴬鳴別眷益間思御吾

1891 冬隠春開花手折以千遍限戀渡鴨

1892 春山霧惑在鴬我益物念哉

1893 出見向岡本繁開在花不成不止

1894 霞發春永日戀暮夜深去妹相鴨

1895 春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹

1896 春去為垂柳十緒妹心乗在鴨

私も挑戦してみたが、ほぼ意味不明であった。 

1890 春日野犬鴬鳴別眷益間思御吾

まず眷という漢字の意味が分からない。ネットで調べると「身内/一族/恋い焦がれる/かえりみる/振り返って見る」の意味である。しかしその後の「益間思御」は意味不明である。結局、春日野に犬と鶯がそれぞれ恋焦がれて鳴いている。ますます思っている私

1891 冬隠春開花手折以千遍限戀渡鴨

冬ごもりしていた花が春に咲いた。それを折って千回も限りなく恋焦がれる。

1892 春山霧惑在鴬我益物念哉

惑をネットで調べると「思い悩む」意であるという。春の山に霧が出て思い悩んでいると鶯が鳴いて
私はいっそう物思いにふける

1893 出見向岡本繁開在花不成不止

出見向岡本繁は意味不明であったがネットでカンニングすると、そのまま「出てみる、向いの丘、その下」でいいようである。「繁開在花」の開在花は中国語そのままで意味は咲いた花であり、繁はたくさん咲いていることを示している。

不成不止は今でも使われている中国語そのもので「ならずはやまじ」、意味は「実らせずにはおかない」である。

結局、「出てみる、向いの丘、その下、たくさん咲いた花、実らずにはいないだろう(きっと実るであろう)」という意味合いのようである。もちろん「わが恋」がテーマである。


1894 霞發春永日戀暮夜深去妹相鴨

「霞發春永日戀暮」は「霞が立った、春の長い日、恋暮らし」なのだろうと分かりやすい。「夜深去」は深夜に行くである。現代中国語で「去」は行くである。「妹相鴨」は「彼女に会うかもしれない」で鴨は表音文字として用いている。つまり、意味は捨て去って音のみを利用する広い意味での万葉仮名で、意味は「かもしれない(推量)」である。
結局「霞が立った、春の長い日、恋暮らし、深夜に行けば彼女に会うかもしれない」という意味は分かってくるが、これをどうよめば57577の和歌になるのか見当もつかない。

1895 春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹
意味不明

1896 春去為垂柳十緒妹心乗在鴨
意味不明

 以上のように挑戦したがほとんど意味は分からない。一体何を読んでいるのか、本当の意味を知りたくなるが、現在、確定されている読みかたを掲載しておきたい。

1890 春日野に鳴く鴬の泣き別れ帰ります間も思ほせ吾(あれ)を
      春日野犬鴬鳴別眷益間思御吾

1891 冬こもり春咲く花を手折り持ち千たびの限り恋ひ渡るかも
      冬隠春開花手折以千遍限戀渡鴨

1892 春山の霧に惑へる鴬も吾(あれ)にまさりて物思はめや
      春山霧惑在鴬我益物念哉

1893 出でて見る向ひの岡に本繁く咲ける毛桃のならずはやまじ
      出見向岡本繁開在花不成不止

1894 霞立つ永き春日を恋ひ暮らし夜も更けゆきて妹に逢へるかも
      霞發春永日戀暮夜深去妹相鴨

1895 春さればまづ三枝(さきくさ)の幸(さき)くあらば後にも逢はむな恋ひそ我妹(わぎも)
       春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹

1896 春されば垂(しだ)る柳のとををにも妹に心に乗りにけるかも
       春去為垂柳十緒妹心乗在鴨

 確定した読みかたをみればある程度、そうなのかと思うが、もう少し解説がないと本当には納得できない感じがする。例えば1890の春日野犬鴬鳴別眷益間思御吾であるが、「春日野に鳴く鴬の泣き別れ帰ります間も思ほせ吾(あれ)を」では犬という字はどこに消えたのか不思議である。
      

 さてこのような助詞のない略体歌は、私の推定では680年ごろから686年頃までの間に柿本人麻呂が習作として数多く作ったものである。人麻呂は680年または681年に新羅から日本に来たために最初の数年間は日本語の助詞の使い方に習熟していなかった。略体歌が生まれたのはそのためである。助詞や動詞の活用を表記しない和歌は韓国人でも容易に作れるのである。私も略体歌を作ってみた。

 白鳥不悲空青海碧不染漂 この歌を読み下ししてみてください。

 ところでここからが重要なのであるが、これらの歌に助詞がないのに、時代的にこれらの歌よりも前に歌われている額田王、鏡女王、天智大王、天武大王などの和歌に助詞が入っているのはなぜかという大きな問題があるのである。なぜ時代的に早い歌に助詞が書き込まれているのに、時代的に遅い歌に助詞がないのか。この問題は国文学が避けて通れない重要な問題であるが、これまで誰も説明できた人がいない。

 これは大きな問題であり、この問題を解決するには額田王、鏡女王、天智大王、天武大王などが韓国から渡来したという仮説を受け入れる必要がある。詳細は拙著『古代史の仮説III 天智大王とは誰か』を読んでいただきたい。


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