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25.不比等の存在をあぶりだす


 私が30年以上も前に古代史に関する本を多く読み始めたころ、藤原不比等が日本史の上でそれほど重要な人物であるとは思ってもみなかった。ざっと日本書紀を読んでも、不比等の重要性は容易には気が付かないであろう。

 しかし、不比等は極めて重要な人物である。歴史の背後に隠れている不比等の姿をあぶりだすために私はいくつかの仮説を立てている。いずれも重要な仮説である。

まず同時出現説。これは天皇号、アマテラス神話、伊勢神宮、大嘗祭、中臣神道の出現、現人神思想がほぼ同じ時期に出現したとする説である。従来、天皇号の出現と伊勢神宮の建造、現人神思想などはそれぞれ別々に考察されてきたと思うが、実際は「天皇制の創造」という大きなプロジェクトの一環であったと考えるべきである。

次に強力な指導者存在説。上記のように天皇制創造がワンプロジェクトとして考えられ、実行されていったのは天皇制について明確なイメージをもった指導者がいたからだと考える。強力な指導者、明確な天皇制イメージのない状態で、上記の一連の事象が出現するはずはないからである。

次に当事者説。古事記は712年、日本書紀は720年に編纂公布されたが、この当時、右大臣として政権トップにいたのは藤原不比等である。当時、国史編纂は国家的事業であり、当然、政権トップの不比等が関与しているはずである。右大臣になったのは708年であるから、それ以後は通説でも不比等の影響は無視できないと考えることもできるである。しかし、実は不比等が権力を握ったのはそれよりもはるかに早い時期であったと考える。

 686年、将来を期待され、持統の子である草壁よりも次期天皇として相応しいと人々に思われていた大津皇子が陰謀で自刃させられるという事件が起こったが、この事件の首謀者が藤原不比等であった可能性が高い。推定の根拠はいくつもあるが、子分格の中臣臣麻呂が事件に関連して逮捕されたにもかかわらず直ちに無罪放免となり、その後は出世街道を登っていることもその一つである。大津事件は持統天皇の陰謀であったとする説は現在、有力であり、すでに通説になっているかもしれない。私は持統は当然、何らかの形で関与していたはずであるが、実行を策定し、実施させたのは藤原不比等であったと推定している。

したがって私見によれば大津皇子を自刃させた686年から自らが薨去する720年までほぼ34年間、不比等は最高権力を握っていたと考えられる。690年に持統が即位するが、この即位の前に権力を握っていない限り、強力な指導者として天皇制を準備し、導入することはできなかったはずである。前述のように天皇号、アマテラス神話、伊勢神宮、大嘗祭、中臣神道の出現、現人神思想がほぼ同じ時期に出現したのは不比等の指導によるものと仮定した場合、不比等は遅くとも686年に権力を握っていたと考えざるをえないのである。

 そうだとすると686年に28歳で権力を奪取した不比等は682年ごろから697年の文武即位までの歴史(日本書紀は持統紀で終わっている)の目撃者であり、当事者であったことになる。当事者として藤原京時代を生きた不比等であるが、その割には藤原京時代の歴史が判然と書かれていない。例えば持統の一人息子である草壁皇子が大津事件の3年後に亡くなるが、その葬儀の記録が全く書かれていないのである。草壁皇子の葬儀が行われていないはずはないのに書かれていないのは不都合な真実を隠したかったからではなかろうか。

 また682年に天変地異が起こり、その中で三足雀が発見されたという奇怪な記事があり、九州大宰府からその三足雀をわざわざ皇居に持ってきた多治比嶋という人物が持統帝の最初の右大臣に就任するといった意味不明の記事もある。また不比等自身の経歴については、701年に大宝律令を編纂したという功績が認められ、大納言に昇進したと書かれているが、それまでの記録は689年(持統3年)2月に判事となったという記事があるのみでその他の記事は全くない。

 このように藤原京時代の当事者であったにもかかわらず藤原京の歴史をあいまいに書かせているのはなぜであろうか。私は自分が権力を行使していた事実を隠す意図があったからだと思う。天皇制創設に果たした自分の姿を隠したのである。そうしてこそ天皇制が古くからあったと人々に思い込ませることができるからである。これを当事者説(当事者であるのに曖昧な記述をさせている)となづけたい。

 次に改名権力説。通説によれば藤原不比等は官僚であり、701年に大宝律令を編纂した頃から頭角を現し、最高権力者になっていったことになっている。しかし、私は不比等は天武大王(もしくは天皇)の落胤であり王族であったと推定している。根拠の一つが藤原宮という命名である。現在、藤原京という言葉が使われているが、もともとは新益(あらます)京と呼ばれていた。その皇居を藤原宮という。問題はこの藤原宮で藤原となのることができる人物は藤原不比等ただ一人であったということである。

 一族である中臣大嶋は一時期、藤原大嶋と名乗っていたが、藤原京への遷都直前に葛原大嶋と改名させられている。皇居の名称が一氏族の名称と同じであるのは都合が悪いからである。ところが藤原不比等は改名させられていない。朝廷には氏族名を改名させる権力があるので本来ならば不比等は改名させられて当然であるが、それがなされていないのである。

この事実は不比等が単なる官僚でないことを示していると思う。それどころか、藤原不比等の姓が藤原であるからこそ藤原宮と名付けた可能性がある。それは持統が、不比等が王族であることを認め、権力を持っていることを認め、大津皇子を自刃させるなど持統天皇制に大きな貢献をしたことを認めたからであろう。天皇制創設者としての不比等の功績を記念して命名した可能性がある。ちなみに持統即位は690年、藤原京遷都は694年である。この時期にすでに権力者であったことを示すものである。逆算すると686年に権力を握っていないかぎり、このようなことは起こりえないはずである。

 不比等の王族説に関しては古くは平安時代から天智大王落胤説がある(『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』)。不比等の権力を考えると王族説は根拠があり、不比等の母の鏡女王はもと天智妃であったが藤原鎌足に与えられたという女性である。したがって不比等が天智の子であるという推測も一応考えてみるべきであるが、天智には王子がほとんどいなかった事実に注目する必要がある。天智の子は娘が多く、王子はわずかで、しかもその母の身分が低い。天智が後継者として選んだ大友王子(後の弘文天皇)の母も身分が低かったことが近江朝が崩壊した原因の一つとされているほどである。母が鏡女王という王族であった不比等が天智の子であったとすれば当然、次期大王は大友ではなく、不比等になったはずである。そのようになっていないことからみて不比等は天智の子ではない。

 不比等は天武の落胤であったという証拠は万葉集の和歌の中に存在する。不比等の母の鏡女王が藤原鎌足にあててよんだ歌と、鎌足が鏡女王にあててよんだ歌を韓国語で解読するとその事実が分かってくる。詳しくは拙著『古代史の仮説Ⅲ 藤原京の帝王』(Kindle電子書籍)をご覧ください。

 最後に不比等詐欺師説。非常に残念な説であるが、避けて通れないので指摘しておきたい。国史である日本書紀は真実を伝えることを第一義として編纂されたと信じたいが、どうもそうではないらしい。明らかに人々を騙そうとする意図がみられるのである。例えば天皇制の歴史、伊勢神宮の歴史、藤原氏の祖先の中臣氏の歴史などにその傾向が顕著である。藤原氏の祖先の中臣氏の祖先のアメノコヤネが天皇をお守りして天上から降臨するという作り話などは明らかに不比等の策略である。こうした多くの詐欺的な記事は日本書紀の総責任者、不比等が指導した可能性が高い。直接的な指導はなくても基礎資料は不比等権力下の藤原京で創造、創作された可能性が高い。これを不比等詐欺師説となづけたい。

 不比等が詐欺師ということになれば、日本書紀中の記事の中で詐欺師的にあちらこちらに粉飾された記事を比較的容易に見出すことができると思う。騙そうと思って仕掛けがなされていることを頭において日本書紀を読む必要がある。日本書紀をざっと読んでも不比等がさして大した権力者に見えないのも彼の詐術の一つであろう。

 


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