17. 舒明系譜(中大兄系譜)の危うさ
私は天皇号は持統天皇から始まったと考えており、私の著作では天武より前の国王は大王と表記している。しかし、話を分かりやすくするために、ところどころ王女とすべきところを皇女と表記している。この点はご容赦ねがいたい。
皇極(斉明)帝の即位ほど不思議な即位はない。彼女は皇女ではない唯一の天皇である。つまり、推古、持統、元明、元正、孝謙(称徳)などの女帝はすべて天皇の娘であるが皇極(斉明)帝は敏達大王の曾孫(ひまご)である。したがって皇極帝がなぜ大王になれたかも大きな研究テーマである。
しかし、ここでのテーマは皇極帝についてではなく、夫の舒明大王の系譜である。それは非常に疑問点の多い系譜であることをスケッチ的に示したい
まず舒明の父は押坂彦人大兄というが、大兄とは皇太子制度ができる前の皇位継承者という意味である。ただし中大兄の時代、その兄は古人大兄であり、また山背大兄もおり、なぜ3人の承継者がいるのかという問題はある。
押坂彦人大兄は 敏達天皇と広姫との間に生まれた。この広姫は息長氏出身であり、皇女ではないにも関わらず皇后になっている。後の律令制度では皇妃は皇族出身者に限られ、したがって皇后も当然に皇族でなければならないが、敏達天皇の時代はそのような規則はなかったという主張もある。しかし、広姫は1年もしないうちに薨去し、その数カ月後には実に皇女である額田部(後の推古天皇)が皇后になるのである。ここにはいくつかの問題点がある。
1 皇女である額田部(後の推古天皇)がいるのに、その皇女(父も天皇、母も天皇)をさしおいて、なぜ皇女ではない広姫が皇后になっているのか。
2 前の皇后が薨去して数カ月で次の皇后が選ばれているが、あまりにも早すぎるのではないか。
3 皇后であった期間は1年未満である広姫所生の押坂彦人がなぜ大兄になっているか。
4 押坂彦人はいつ大兄になったのであろうか。平安時代に1歳に満たないで皇太子になった例があるが、平安時代は摂政関白を狙った藤原氏の権力争いの結果として多くの幼児が天皇位についたが、敏達天皇時代に幼児の皇太子はあり得ない。
5 そうだとすると押坂彦人が大兄になったのは額田部皇女が皇后であった時代ということになるが、それでは現皇后の子ではなく、前の皇后の子を皇太子にしたことになり、不自然である。
6 広姫は息長真手王の娘であるが、この真手王には継体大王(531年崩御)の妃となった麻績娘子という娘がいる。広姫は575年に亡くなっており、その時点で20歳とすると姉との年齢差は50歳以上も離れている可能性がある。
こうしたことから、私は広姫の記事は捏造されている可能性が高いと考えている。舒明の系譜を作りあげるためである。
広姫の存在には疑問点が多いが大兄となった押坂彦人自身にも多くの謎がある。まずいつ頃、生まれて、いつ頃、なくなったが全く不明である。
587年の蘇我物部戦争には蘇我方に厩戸、泊瀬部、竹田、難波、春日王子が参戦したことになっているが、この重要な戦争に大兄である押坂彦人の姿が全く見えないのである。押坂彦人の生まれた時期は特定できないが、仮に母が皇后であった時期であるとすると575年が考えられ、574年生まれとされる厩戸とほぼ同年代であり、厩戸との関わりに関する記事があってもおかしくはない。ところがそうした記事は全くない。
息子の舒明は593年頃に生まれたことになっているので、当然、593年ごろには生きていたはずである。つまり574年ごろに生まれて、593年まで生きているはずなのに20年間も全く姿を見せないのである。そしてそれ以後も亡くなったという記事はない。いわばゼロ回答である。
また押坂彦人の子、したがって舒明と兄弟になる中津王、多良王についても記録は皆無である。舒明と兄弟ということになると王位承継資格があり、消息は記載されるべきものである。舒明皇后の宝姫(後の皇極帝)が大王になるよりも中津王や多良王が大王になる方が可能性としては高いはずである。
以上より、私は押坂彦人大兄は舒明の系譜を作りあげるために捏造されたと推定している。
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