見出し画像

挑戦だけを手放しで礼賛する危険性について

挑戦している君へ」というコンテストが開始されたので、これを機に「ある意味で挑戦を礼賛する記事」と「ある意味で挑戦を否定する記事」の2つを書こうと思う。前者は下記で、後者は本記事である。

まず、世の中で格言とか教訓と言われるものは、人や状況によって真逆の教えが有効となる。例えば、『七転び八起き』という格言を考えた時、これが肯定的に適用されるのは「すぐ諦める人」に対してであり、むやみやたらと頑張る人には否定的に適用されなければならない。だから大抵の格言には真逆の格言が存在し、この場合は『諦めは心の養生』とかになるだろう。

世間には挑戦を礼賛する格言や論調が溢れているが、上記の話に照らせば、それは常に肯定的に適用されるべきではない。挑戦したいと思っている人がいて、失敗するかどうか分からない(かつ失敗時のダメージが許容範囲内にある)状況であれば応援されて然るべきだと思うが、挑戦したくないと思っている人を無理やり動かす空気を作るために格言が利用されるのであれば、それは否定されるべきである。そして「挑戦の否定」は世間に溢れていない。
だから私はポール・ラッシュの挑戦に心動かされる一方で、慎重論も十分に考えなければならないと思う。

慎重論の準備のための具体例 - ポールの挑戦は成功か失敗か?

ポール・ラッシュの記事において、再び彼の伝記を読んだのは使命感について気になることがあったからだと書いたが、それは次の記事との整合性に関することである。つまりその結論部では「純粋な利他行動」(自己の利益に一切結びつかない、他人のために行う行動)をある意味で否定しているのだが、ポール・ラッシュの使命感は純粋な利他行動のパワーを証明しているのではないか?という疑問があった。

私は上の記事で次のように書いている。

私は、自分の子供が「与え続けることでしか満たされない聖地」に行くよりも、子供が自分自身のことを考え続けた結果、純度の高い利他行動ができるようになることを望みます。だってそうじゃないと不幸になりますから。

ポールの人生はまるで、「与え続けることでしか満たされない聖地」で行われているかのようである。彼は元々信仰心が篤かったわけではなく、自分自身のことを考えた結果選択した道ではあろうが、では日本人が誰かポールを幸せにしてくれたのかというと私には分からない。

彼は日本で生きることを決めた時、アメリカに置いてきた婚約者と事実上別れることになった。もちろん親もそうだろう。そして終生、日本語を話さなかったというから驚きだ。彼の人脈は極めて広く、日本人の知人は英語を話す人が多かったのだとは思うが、伝記を読めば分かる通り重要人物は次々に亡くなっていった。孤独感は当然あっただろう。

私は、彼がもうほんの僅かでも自分のために生きてくれたら良かったのにと思った。ポールの記事では彼に対して否定的なことは何一つ書いていないが、唯一あるとしたらそのことだ。信仰心が彼の使命感をドライブした結果、ブレーキが利かなくなったのだとしたらそれが信仰というものの負の側面かもしれない。
しかし伝記によれば彼は募金のために使える演説手法を様々な本から習得していたというから、穿った見方をすれば信仰心も伝道のための1手法だった(つまりキリストの目的と利害が一致した)と見ることができる。もしそうなら、彼は信仰心がなくても同じことをしたのだろう。その場合彼は彼自身のしたいことをしただけだ。

彼は孤独だったかもしれないが、通常の人間は出会えないほどの様々な感謝を受けたことは確かであり、天性のオーガナイザーと呼ばれた彼の能力をフルに活用することもできている。そして目的としても自分がしたいことをしたのなら、満足感が低かろうはずはない。だからポールは「与え続けることでしか満たされない」のではなく、与えられるものも当然あった。勿論、彼が本当に満足していたならの話だが。

ポール・ラッシュの使命感は純粋な利他行動のパワーを証明しているのではないか?という疑問について一旦答えよう。まず、ポールが本当に満足な人生を送ったのなら、定義上その利他行動は純粋ではない(自己の利益や満足に結びつかないのが純粋な利他行動の条件であるから)。
次に、孤独感が強すぎる等で本当は満足していなかったのだとしたら、信仰の負の側面が出た(キリスト教に熱せられ過ぎた)ということであるから、彼の利他行動がパワフルであることは認めるとしても、その使命感は眉唾ものである。使命感がそれを持つ当人を幸せにしないなら意味がない。

というわけで2つの記事の整合性についてはクリアになった。肯定されるべきは純粋な利他行動ではなく利己と利他が一致するような行動であり、ポールの使命感も(彼が満足しているという前提を採るとして)同様である。

正当な慎重さに裏打ちされた挑戦を

ここまで見たところで、次は挑戦一般の話を考えてみよう。

ポールが満足していようがいまいが、彼は業績を残せたからまだいい。そういう意味では彼の挑戦は成功したと言える。何事かに挑戦して成功を勝ち得た人は注目を集めるが、再起不能なダメージを負った人は注目されることはない。つまり、基本的に社会には成功談しか生き残らないことになる。ポールの伝記はそのような成功談の1つである。

多くの失敗談は最終的な成功談とセットでしか出て来ず(NHK の「逆転人生」を見れば分かるだろう)、ただ失敗しただけの話は封印される。仮に後世の社会によって分析されたとしても、チャレンジャーは自分が同じ失敗をするなどとは夢にも思わないので分析結果を参照しない。参照されるのは成功談のみである。

そういう意味で、極論として社会には成功談しかない。だから挑戦は安全ということになっており、事前のシミュレーションに時間を使って挑戦を遅らせる人々の慎重論は一笑に付される。果断さがない単なる迷いのようなものを「不当な慎重さ」と呼ぶ時、その対義語としての「正当な慎重さ」がないのは向こう見ずとも言えるが、世間はこれら2つの慎重さを区別しない。

正当な慎重さを伴わない挑戦が成功したら実力と認め、失敗したらバカだなぁと嘲笑うか、急激に興味をなくすのが世間というものだ。要するに挑戦を後押しするのに何の責任感も愛情も伴っていない。会社の上役が部下を後押しするケースを考えてみれば、何でもいいから挑戦しろと言っておきながら失敗の責任は自分が負うと言わないのは無責任であり、親が子を後押しするケースでは、その子なりの能力不足を考慮せず危険なことをさせるのは愛情がないといえる。

このことを、子供の能力評価を抜きにして安全な場所に閉じ込める「過保護」と混同してはならないと思う。仕事においても同じことが言えるはずだ。挑戦を応援するには挑戦者と挑戦の内容、彼を取り巻く状況を知る必要がある。その上で何かリスクがあると感じたら指摘してあげるべきだし、時には全力で止めなければならない。やらせる責任を負った上で、推移をちゃんと見守る必要がある時もあるだろう。

いずれにしても、挑戦いいじゃんと言いっぱなしではダメだし、言いっぱなす連中にそそのかされて自分の頭でまともに考えることなく行動してはダメだ。私が挑戦者に言いたいことは、このことと、挑戦には利他が不足してもダメだし利己が不足してもダメだということ。自分自身と、家族と、社会の持続可能性と幸福を念頭に置いて、失敗しても致命傷にならず、次の挑戦に向けた学習になるようにしてほしいし、私自身もそのように考えたいと思う。

ではでは。


ちょび丸(1歳)の応援をよろしくお願い致します~😉