見出し画像

人はなぜ物を欲しがるのか 私たちを支配する「所有」という概念 Bruce Hood さんの本

23,117文字(とても長いで、お暇なときに...)

著書紹介

二〇二二年十二月三十日 第一版第一刷発行
著者:ブルース・フッド
訳者:小浜 杳
発行者:中村幸慈
発行所:株式会社 白揚社
装幀:大倉真一郎
印刷・製本:中央精版印刷株式会社

全318ページ

はじめに

第1章 本当に所有していますか

見つけた者勝ち/財産とは何か/きみはぼくのもの/親の所有権/
政治的所有権/アイディアの所有は可能か?/概念にすぎない

第2章 動物は占有するが、所有するのは人間だけ

生存競争/ものづくりの精神/相対的価値/傍観してよいのか/コモンズの悲劇

第3章 所有の起源

バンクシーはだれのもの?/アメとムチ/それ、あなたのですか?/
所有できるものは?/だれが、何を所有できるか/テディベアと毛布/単純な占有の先に

第4章 それが公平というものだ

アメリカ人はスウェーデンに住みたがる/独裁者ゲーム/持ちつ持たれつ/正直な偽善者/報復するべきか/一緒に力を合わせよう/ホモ・エコノミクスよ、さらば

第5章 所有と富と幸福

社会的成功の誇示/機械が所有欲を満たしてくれた/クジャクの尾/魅せるファッション/相対性という基本原理/望ましい池の選び方/ブリンブリン・カルチャー/緑の目をした怪物と、背の高いケシ/諸国民の富

第6章 私のものとは私である

拡張自己/商品の物神崇拝/特殊な人々/わがままな私/損失の見通し/未練がましい敗者

第7章 手放すということ

手中の一羽/追い求めるスリル/手放せない人々/心の居場所こそわが家なり/足元から瓦解する/人は所有で幸せになれるのか

終わりに

人生というレース


本書は、なぜ僕が古着を爆買いしてしまうのかついて、「所有」という概念から考えるために購入した本である。

僕にとって節目となる 2024年100冊目の書籍だったのだが、その中でもかなり上位に来る面白い本だったので、整理しようと思う。

ここからはあくまで、自分用の記録としてまとめていくつもりなので、読まれるための背景の文脈や詳細を省略することをお許しいただきたい。

また、著者の言及は可能な限り区切り線と太字で見分けがつくようにするが、僕の方で一部を切り取ったり短く要約したりする部分もあるので悪しからず。

さて、どのようにまとめていこうか。

とりあえず、各章ごとに線を引いたところを中心に抽出してみようと思う。量が膨大なので、こんなことして何の意味があるのかと思われるかもしれないが、少し贅沢な時間の使い方をしてみる。


はじめに

私たちは、人生の大半を絶え間ない所有の追求に捧げ、所有物を他人に奪われまいと汲々としている。

私たちは、所有物をめぐって争い、所有物を囲いこみ、所有物を渇望し、人生の目的とは所有権を主張することだと考える。

死後の世界には何も携えていけないことは誰しも承知しているのだが、多くの人にとってはそれが人生の目標と化してしまう。

人は所有物を通じて、自らの生きた証を残していく。記念品や骨董品が魅力的なのは、そうした品が過去とつながっているからだ。

私たちは、所有物や所有したい物とのあいだに、情緒的なつながりを築いているのである。

私たちは欲しいものが手に入れば幸福になれると考えるが、実際には欲しいものが手に入っても幸福になれないケースは多い。人間はどうやら、モノの獲得がもたらす喜びや満足を正確に予測できないらしい。

執着が強いと、所有物とのあいだに歪んだ関係性が生じることもある。

持てる者と持たざるモノの不平等が所有によって生じるとすれば、例え資本主義の熱烈な支持者であっても、すでに収拾のつかないほど格差が広がっている現実は認めざるを得ないだろう。


本書を一通り読んだ上で、再び「はじめに」に戻ると、ここが重要であることが分かる。かなり割愛したが、この世で生きている間に「所有」という形のない概念に囚われ、所有しさえすれば幸福になれると信じ込み、過度に自分のものを溜め込んでしまうという人間の性(さが)がまず存在してそうである。

そして、私たちは自分と物との間に情緒的なつながりを見出し、肉体を離れた存在にまで自己を延長してしまう。しかし、ここではあくまで過度な所有が否定されるべきであって、所有という概念自体が否定されるべきではないと僕は考える。それは、所有自体を否定してしまうと、情緒的なつながりを見出す人間そのものを否定することにつながりかねないからである。

ここでは省略したが、戦争問題も所有をめぐる争いという側面を抱えているという記述が興味深かった。どうしてか。我々は同じ地球という星に住んでいる人間同士なのである。それにも関わらず、昔からそこに住んでいたからという理由で、土地の所有権を主張し、国境線を引き、領地を作り...というルールを作りだし、それは時に争いに発展するというのは不思議である。しかし、よく考えると、所有とは概念にすぎないのであって、それを保証しているものは法なのであって、それは何だかあるようでないもの、ないようであるものを扱っている気がして、しっくりこない感じがあるのも否めない自分がいる。

僕らは、何かを持っていると思い込んでいるが、実は本当は何も持っていない(=所有していない)のだと理解することが重要なのではないか。言い換えると、人生という少しの時間のあいだだけ、お借りしているくらいの謙虚な姿勢が大事なのではないかと思った。

そのように考えると、我々は自分たちのことしか考えていないが、未来の地球のことであったり、これから生まれてくる人々のために何ができるかを考えないといけないのかもしれない。


第1章 本当に所有していますか

この体は自分のものだとの理解から、自分の体を好きなように扱う権利があると人は考える。タトゥーを入れ、ピアスの穴を開け、整形し...etc。だが、あなたの体は必ずしもあなたが所有しているわけではない。今でもタトゥーが違法行為であり、規制の対象となっている国は少なくない。自分の体の一部であっても売買する行為については、多くの国が法律で禁じている。

自分の体に対する究極の個人的行為が、自殺だ。古代ローマでは自殺は許容され、市民の自殺は高貴な行為とすら見られていたが、奴隷や兵士が自殺するのは違法だった。奴隷は主人の、兵士は国の資産とみなされたため、彼らの自殺は窃盗として扱われたのである。

死亡したあとになって、遺体の所有権が問題になる場合もある。人体組織市場の企業に遺体の所有権はないが、生体組織の回収という遺体の「処理」を行うことで、企業は最大一〇万ドルを稼ぎ出している。こうした取引は、臓器移植などの整体を用いた医療行為には欠かせず、いずれも完全に合法である。アメリカにおける遺体売買の市場規模は年間一〇億ドル以上にのぼるが、遺族にはそのうち一銭も渡ることはない。

私たちの直感と法とのあいだには、ずれが生じる。こと所有に関しては、人々の見解が割れるのは間違いないようだ。

財産という言葉の意味が、時代によって絶えず変化する。ジョン・ロックの著作に基づく財産の定義では、(中略)つまり労働という形で、あるいは購買による価値の付与という形で、自分が労力をかけたものに関しては、財産所有権を主張できるとしたのである。

財産とは何か、また何を所有できるかについて、双方の合意がなくてはならない。北欧のサーミ族をはじめとする遊牧民は、人が所有できるのは持ち運べるものだけだと考えていた。一方、アメリカの先住民は、人が所有できるのはおのれの魂のみと信じていた。北アメリカの先住民は、土地所有という概念を理解していなかった。

法域によっても、所有の様相は異なる。ニューヨーク市ではハリネズミを所有するのは違法だが、ハドソン川対岸のニュージャージー州では合法である。大半の国は、隣国の法制度を不合理だと考えている。出なければとうに所有に関する同一の国際法ができているはずだが、いまのところその気配はない。普遍的な法は存在しない。

所有してよいものの範囲も、時代によって移り変わってきた。歴史上では比較的最近まで、多くの国で人間を奴隷にすることが合法とされてきた。戦争の目的の一つは、領土と資源を確保することに加え、貴重な労働力となる人間を奴隷化することだった。奴隷は動産であり、動物と同じように「自らの意思で主人の命に背くことはできない」とされた。奴隷の行動はすべて主人の所有に属し、奴隷がなすことについては主人が責任をとったのだ。

現在世界では四〇〇〇万人以上の人々が奴隷状態にある。中国とインドは、現代の奴隷の五八%を生み出している最も問題のある五カ国のうち二カ国である。全世界の労働搾取工場で働く現代奴隷の約四分の一は児童であり、人身売買業者は児童の取引で年間一五〇〇億ドルの違法な利益を得ていると目されている。奴隷の多くは女性だ。現代奴隷の全員が、売買可能な財産であるとみなされている。

何百年ものあいだ従属を強いられてきた主要なグループが、妻である。結婚とは所有権の行使だった。女性は、社会的に受け入れられるためには結婚する必要があった。いざ結婚すると女性が財産の所有権を失い、法廷で自己を弁護する権利すら奪われたのは皮肉である。二〇一六年の世界銀行の報告書によると、世帯主を男性に限っている国がいまだに三〇か国にのぼり、十九か国では夫の決定に従うのが女性の義務とされている。

離婚は心に大きな傷を残すだけでなく、所有の不平等を妻に押し付ける行為でもある。妻の暮らし向きは、離婚によって悪化することが多いからだ。離婚女性の平均年収は離婚後に五分の一以上減少し、その後長く低収入のままである。

親が子の監督責任を負うのは、所有の一形式と言えるだろう(英語の ownership には責任感の意味もある)。法的には、欧米のほとんどの国で両親は子どもを所有しておらず、後見人であり、子どもの利益を最優先した養育を行うことを期待されている。

子も親に責任を負うことはほとんど知られていない。成人した子には、自活が困難になった老親の世話をする法的義務がある。

多くの文化で親は子どもを里子に出し、ときには事実上の人身売買が行われるケースもある。インドでは、娘ばかり何人もいる貧しい家庭は経済的に破綻しかねない。

子ども、とくに娘を売春目的で売り渡す人身売買の問題がある。タイでは、娘を悪名高いバンコクの売春宿で働かせ、家族全員を養わせるということが日常的に行われている。貧困が道徳的判断に勝ってしまうのだ。子どもが何より重要な頼みの綱として、今も商品として取引されているのだ。

現代ではデータファイルをダウンロードするかコピーするだけで、知的財産を盗むことができる。知的財産に法的所有者がいることについてはみな承知しており、他人のアイディアを盗用する者は忌み嫌われる。

たとえ金銭上の利益がない場合でも、だれが第一発見者の権利を主張できるかに異様に神経質になるのが科学者だ。

六歳以上の子どもは、「まねっこする子」を嫌う傾向があるのだ。子どもは、ただの模写よりもオリジナルの絵を描く相手を好ましく思い、払った労力よりもアイディアの独自性を高く評価する。

ゲームに散財する人のなかには、多額の費用を投じてバーチャルな資産を購入することをためらわない人も出てきている。

知的財産に関して近年顕在化した、最も驚くべき事柄と言えば、おそらく個人情報の所有にまつわる問題だろう。(中略)自分の個人情報が抜き取られ、同意のないまま勝手に利用されているから − つまり、所有権が侵害されているからだ。

イギリスの道徳哲学者ジェレミー・ベンサムが以下のように指摘している。「所有を成り立たせている関係を、イメージや絵画、目に見える特徴として表現することはできない。所有は実体のあるものではなく、形而上学的なものなのだ。頭の中にある概念にすぎないのである。」

権利を主張できる対象にも、財産を使ってできることやできないことにも、行ける場所や行けない場所にも、所有の問題がからんでくる。(中略)だからこそ所有は法制度の中核をなし、大多数の人が従う社会的な行動規範の基盤となっているのである。

所有には、法律では定義しきれない側面もある。人間の心の中には、人を所有に駆り立てる、何か深い情動が存在する。これが心理的所有である。所有しているという満足感によって生じる感情体験で、法的な所有権の有無とは必ずしも合致しない。要は、心でどう感じているかだけが問題となるのだ。

法的な所有者ではないが自分のものだと考えているものがいかに多いか、考えてみてほしい。レンタカーに愛着を覚えることはさほどないが、カーリースで借りている車は概ね話が別だ。厳密にはリース車は利用者のものではないが、利用者はつい自分の車であるかのように錯覚し、レンタカーと比べ物にならないほどリース車を大切にする。


第1章では、人体、価値観、アイディア、情報...など色々な所有の例を見てきたが、明らかに個人が所有権を有するかに見えるものでさえ、時代や文明によって多種多様に様相を変えている慣習の一種であることがわかる。

そして、所有が法と密接に関わっていることがわかる。しかし、我々の直感と法にはズレが生じることがある。そして、その法が適用される社会情勢、国、州など所属する領域によってもその解釈は異なっているということがここでは示されている。

また、所有には法では定義できない心理的所有という側面があり、心がどのように感じているかという心の問題も重要であることがわかる。

レンタカーとリース車の例がわかりやすいが、所有には「愛着」が関係している。慣れ親しんだものに、愛が湧き、その愛が着く。その愛が着いた物は、私なのである。だから、所有しているものが奪われたり、傷つけられたり、壊されたりすると深く心が傷つくのである。所有を考えるということは、心を考えることと言っても過言ではないのかもしれない。


第2章 動物は占有するが、所有するのは人間だけ

人間は生来競争を好む。(中略)一人で記録短縮に挑戦するより、他社と競い合っているときのほうが、自転車競技選手のタイムが縮むことに気づいた。(中略)私たちは競争心が強いだけでなく、自分は過小評価されており、他人は自分よりいい思いをしていると思いこみやすいのだ。

他人との比較でわかりやすいのが、所有物を比べることだ。

所有欲が競争心に刺激されていることは明らかだが、所有の起源については二つの学説がある。進化論に基づいた説明では、所有は競争本能の遺産であるとされる。貴重な資源を自分だけが独占できる排他的アクセス権があれば、生存と繁殖をめぐる競争で優位に立てるからだ。(占有)もう一つの学説では、占有とは異なる文化的な概念として所有(オーナーシップ)という概念が提唱され、共同体が定住して政治体制や法制度が発展すると、所有が生じるとされている。

人間の祖先は石器など数々の道具を編み出しただけでなく、作った人工物に価値を見出し、それに愛着を抱くようになった。対照的に、野生動物は通常、食料やなわばり、つがいの相手を除いて、自分が占有したものを持ち続けようとはしない。

物々交換は他の種では通常見られない、人間特有の行為である。相手と交渉するコミュニケーション能力が欠かせないだけでなく、モノの相対的な価値を見定める能力も必要となる。

初期の人類が洞窟に壁画を描き、小像を作ったのは、何らかの象徴的な意味があってのことだろう。何より重要なのは、壁画や小像は長期間持ちこたえるものとして作られたという点である。彼らは現世で、また来世で受け継がれるべきものとして、所有物を創造していたのだ。

人間の所有物は象徴的で、美的なものであり、アイデンティティーの延長線上にあるものとして尊重され、持ち運ばれ、守られ、崇敬され、最終的にはほかの人間の手によって受け継がれていく。こうした譲渡・継承は、所有のルールを理解して初めて成り立つものだ。(中略)人間の社会は、財産の蓄積と富の譲渡を基盤として築かれていったのである。

動物の占有に対し、人間の所有はもっと複雑だ。まずは資源の所有権を主張できるかどうかを判断する認知的機構が必要であり、さらにそのうえ、所有者が不在でも所有権は維持されているという点を理解できなければならない。映画館でアイスクリームを買いに行くとき、座席にコートを置いていくのも同じ理屈だ。

所有権が維持されるためには、最弱者の財産も、一時的に不在な者の財産も、等しく守られるメカニズムが必要だ。潜在的な窃盗犯が強奪を諦めるような警察システム − すなわち、当事者でない者が別の者の財産を保護するという、第三者による懲罰の体系が不可欠だったのである。

所有の力は、所有者がその場にいないときでも、各自がルールに従うという前提に依っているからである。第三者が見て見ぬふりを決め込むと、所有の価値そのものが揺らぎかねない。

心の理論とは、その人の身になって他者の思考やふるまいを理解する、直観力のことだ。(中略)人間の場合はだれもがおよそ三歳から四歳の時期に、他の動物では見られないほど洗練された心の理論を発達させる。

盗みを目撃すれば三歳児でも抗議の声を上げるというのに、なぜ大人は傍観者効果に毒されるのだろうか?傍観者効果は無関心が引き起こすのではなく、不確かさと恐怖が原因であることがわかっている。

もし過剰消費と心休まることのない物質主義がはびこった現在の状況の根本的原因の一つが心理的所有なのだとしたら、私たちは認知の仕方を改める方法を見出さなければならない。


冒頭では、人間が競争を好む類であることが説明された上で、政治体制や法制度を理解できる知的な生物であるがゆえ、所有(オーナーシップ)という概念が生まれるという説が紹介される。

その学説から考えると、何かを所有することで自分のアイデンティティーを拡大しようとするのと同時に、他者との比較競争を意識している気がする。

と考えるのも、僕には思う節があるからである。

冒頭で「なぜ僕が古着を爆買いしてしまうのか」について言及した。そもそも、古着に最初に触れた時は意識していなかったが、一般的な人と比べて異なったファッションをしたいという欲があった気がする。他人との差異(アイデンティティー)をファッションで図りたいと思っていた。

そして、今はどうかと考えると、同じ古着愛好家と比較して、同士よりも差異を生み出したい、価値のあるアイテムを着こなしたい、かっこいいと思われたいという強い承認欲求がある気がする。

ここでは分かりやすいように「古着」と書いているが、厳密には「ヴィンテージ」である。ヴィンテージは希少価値が高い。全く同じ物が手に入ることは珍しい。唯一無二の存在であることに、他人との比較競争が入り混じって、一種のブームや熱狂が生まれる。

では仮に、他者が誰一人としてヴィンテージに興味を見せない状態だったとして、自分がヴィンテージを集めるかと想像すると、僕はそこまでの自信はない。

つまり、ヴィンテージという市場がすでにあり、そこで他者が価値を認めているから、自分も価値があるように思っている部分もあるのではないだろうか。僕が古着に興味のない家族から「また、あんた変な服着て...」と言われるのがその証拠である。価値は共有している者同士の間でしか理解されない。

この仮説が正しいかは分からないが、そう考えると人間というのは「あいだ」の生き物だと思う。東洋哲学的な考えになるが、自分があるようでなく、お互いが影響されあって生きている「空」のような存在なのかもしれない。

一方で、そのような他人に影響されている部分もあるにせよ、ヴィンテージには何か魅力があるのは事実である。それは、過去の所有者に思いを馳せ、その所有者の気を物から感じていることではないかと思う。何十年も前に製造されたアイテムが現存しており、そこには歴代の所有者の使用した痕跡が味として滲み出ている。僕たちは、それを何かしらの形で感じ取っているのであり、だから価値があると思っているのだろう。

第2章でも書かれていたが、初期の人類が壁画を通して、現世で、また来世で受け継がれるべきものとして、所有物を創造していたという記述から、我々はもう少し来世に受け継ぐべきものを考えなければならないと感じる。

僕の場合、このヴィンテージアイテムを後世に受け継ぐ必要がある。僕が死んだら、この洋服たちはどうなるのか。おそらく、リサイクルショップに譲り渡すことが賢明ではないことは容易に想像できるだろう。何十年何百年先に生まれてくるであろう人々に、僕らはこのようなアイテムを着ていたんだと受け継いでいくこと、これが求められるのではないか。そのために、僕らはヴィンテージに愛を持って、長い時間をかけて、死ぬまで大切にしていかなくてはならない。でなければ、未来の人々から価値を見出してはもらえないだろう。服に念を込めていかねばならない。

(そんな肩肘張らなくても、未来の人たちは勝手に楽しんでくれそうだが...)

つまり、買うことには責任が伴うのである。購入したならば、もうこれまでかと使えなくなるまで使う。現代ではまだ使えるのに、新しいものを欲しがるから、消費が止まらない。もう少し一人一人がこの現実に向き合う必要があるのではないか。


第3章 所有の起源

所有の前には占有があった。占有は単に、持つ、運ぶ、座るなどして、震源を思いどおりに物理的に利用できる状態を指す。(中略)五歳の子供から五〇代の成人までの被験者に聞き取り調査をした結果、第一に、「占有とは何かを好きなようにコントロールできることだ」という点に全員が同意した。第二に、「占有とは自分のアイデンティティーの一部になりうる」という点に全員が同意した。

知能の発達に関する理論の中で、このコントロールしたいという欲求を動機づけ因子として挙げている。

コントロールする力は随伴性にも左右される。幼児は随伴性がある経験、つまり、「あることをすると、それに伴って何かが起こる(相手が何かを起こしてくれる)」という経験や、自分自身の動きとタイミングを合わせてもらった経験にとくに惹かれる傾向がある。(中略)「脳による運動の指令と、視覚および運動感覚のフィードバックとがほぼ完璧な相関を見せる『対象物』は、自己となる。一方、そうした相関のない『対象物』は、世界となる」

乳児が(中略)ものを持ってくるというのは、注目を集め、状況をコントロールする一般的な方法である。

低年齢の幼児は、ほかの子に人気のあるおもちゃを好む。(中略)ステータスシンボルなど知りもしない幼児の頃にすでに、他人が欲しがるものを手に入れることの価値に気づいているのである。

子どもは社会的な立場を確立する方法として、まずは力による所有権の行使を身につけ、次に協調による所有権の行使を知り、最後に評判による所有権の行使[評判が傷つくのを嫌って所有に関する利己的な行動を控える態度]を学ぶのである。

所有物になったのかどうかを示す指標の一つが、意図的な尽力の有無だ。(中略)芸術の価値を決めるのは技巧の良し悪しではなく、意図なのだ。(中略)所有物をめぐる争いを裁定する場合、意図、目的、そして傾注された努力が、いずれも所有者の判定を左右する重要な要素となる。

幼いこどもが共有を嫌がり、必死に手もとにとどめておこうとするのが、愛着の対象となる愛玩物だ。(中略)慣れ親しんだ人や物に執着するというのは、私たちの大多数が持つ基本的欲求であるに違いない。(中略)安心毛布などの愛着の対象を「移行対象」と名付けた。乳児は母親とのあいだに非常に強い絆を形成するために、母親の不在で喪失感を味わう。その心の空隙を埋めるため、母親との情緒的な結びつきをモノへと移し変えるのである。

愛着対象物の複製を作ろうとすると、子どもはとたんにオリジナルの返還を求めた。絵画の原画と同じように、例え見分けがつかないほどそっくりでも、複製はいやなのである。(中略)子どもたちは愛玩物を人間であるかのように扱っている。

所有とはむしろ、個人のアイデンティティーや、ルールを守るという行為と深く関わる概念なのである。

所有のルールは永劫不変のものではなく、時代や文化によって変化するものなのだ。

所有をめぐる係争における所有者の認定は、つまるところ、だれの主張が最も当を得ているかを決定する行為にほかならない。だが、主張の正当性の是非は、その社会が何に最も重きをおくかによって変わってくる。

身につけなければならない価値観のなかで最も大切とも言えるのが、「分かち合うこと」である。


この章では、まず人間がコントロールしたいという欲求を知的発達の段階で獲得していくことが説明されている。

また、占有(のちの所有)が何かを好きなようにコントロールし、自身のアイデンティティーの一部としていくこととして、被験者の同意で確認されている。

アイデンティティーの例では、幼い子どもが愛玩物を作り、それに母親との情緒的なつながりを移行させ、母親が不在時の喪失感を埋める役割を示していると述べられている。

そして、重要なのは、幼い子供が愛玩物を人間であるかのように扱っていることであり、そっくりな複製コピーではなくオリジナルでないと嫌がるという点である。

ここでは、あくまで幼い子ども限定の話のように語られているが、僕は大人の所有物にも同じような一面がある気がしている。古着であれば、同じ年代の同じ生産国で同じメーカーの洋服はあるにはあるが、自分が何度も時間を共にし着用したというオリジナルの古着に愛着があるのである。

物を大事にするということは、このようなことと関わっているのかもしれない。


第4章 それが公平というものだ

だれもが公平な社会に住みたいと望んでいる。ただしそこには、自分たちが最上位層に所属できるならば、という条件がつくのだ。

人は必ずしも自分にとって一番ためになる行動をとるわけではなく、むしろ原則や主義に基づいた意思決定をするものだということだ。(中略)多くの人を豊にしうる資源を排他的にコントロールすることが所有であるならば、そこには社会として許容できる所有の不平等はどの程度かという重要な道徳的問題が生じる。個人が正当な対価として富を得た場合、不平等が生じてもそれは許容範囲だろう。だが所有は、本質的に不公平な物である。だれもが平等な条件下で生きているわけではないからだ。

だが一方で所有は、持たざる者と資源を分かち合う力を個人に与えもする。所有によって生じた不均衡を、他者にもっと気前よくすべきだと説く倫理観によって、是正することが可能なのだ。

人は見返りがない場合でも、よく他人に資金や物資を贈る。困っている人がいたら分かち合う。

ナミチスイコウモリは少なくとも四八時間に一度は他の生物の血を吸わないと餓死するが、なかには吸血に出かけても、獲物にありつけずに帰巣するコウモリもいる。すると同じ群れの他のコウモリが吸った血を吐き戻し、血を分けてやるのである。(中略)このような利他行動は一見すると事前行為のようだが、実際には恩を売るという戦略にほかならない。ナミチスイコウモリは過去に自分を助けてくれた個体を覚えておき、彼らが空腹になった際に優先的に血を分け与えるのである。(中略)進化の過程で獲得された戦略なのである。

だれしも公平な人間に見られたいが、ばれないと踏んだ場合にはズルをするのだ。(中略)見られていると思うと、人は概して行いを正すのだ。

不満や怒りを他者に表明できる機会を持つだけでも、応答者は提案を受け入れやすくなる。自分がおとなしく言いなりになるような人間ではないということを周囲に知ってもらうだけで満足なのだ。(中略)自分が世の中を動かしているというコントロール幻想と、自分には立派な意見があるという感覚を取り戻すことができるからだ。

二歳から三歳までのあいだに、幼児は自分が間違った行為をしたと気づくと、その違反行為と結びついた負の感情を抱くようになる。

人間はだれしも幼児期には両親から認められることに心を砕き、その後成長して青年期に入ると友人の意見に一喜一憂し、以後は他者に認可されよう、自分の人生を形作った価値観を広めようと努めながら成人期を送る。そうした価値観の中に、モノをどのように手に入れるか、そして入手したモノをどうするかも含まれている。


この章で新たに登場したキーワードは、原則、主義、道徳的問題、倫理観、価値観、承認といったところだろうか。これらは共通して、自分と他者を行ったり来たりしながら、成人になるにつれて形成されていくが、固定化しやすい反面もある。

したがって、これらの概念を再び自分と他者のあいだで行き来させ、常に疑いながら更新していく必要があるのではないかと感じた。


第5章 所有と富と幸福

金持ちが自分の富を自慢するのは、富のおかげで世間の関心が自ずと自分に集まると考えるからであり、......反対に、貧しい人は貧困を恥じる。貧乏のせいで世間から無視されていると感づいている、仮に世間が自分の存在に気づいても、自分を苦しめているこの惨めな困窮ぶりを思いやってくれることはまずないだろうともわかっている。 アダム・スミス『道徳感情論』(村井章子・北川知子訳、日経BP社)

消費者は、周りと比べて自分がいかに裕福かを誇示したくて、贅沢品に大金を費やすのである。

私たちは何かと感銘を受けやすく、表面的な証拠に基づいて判断を下しがちだが、ときには高級品を身につけることで自信が高まり、心身がより健やかになる場合もある。デザイナーズブランドの服を着ることで自分自身に満足し、それが自己強化につながるのだ。(中略)ここで重要なのは、実際に高級品かどうかではなく、高級品だと信じているかどうかだ。

私たちは優先すべきでないものを優先し、そこに心をとらわれている。所有物や富を絶え間なく追い求めるのではなく、いま自分が手にしているものをじっくりと時間をかけて顧みるべきだ。

一連の同じシグナルが何度も入ってくると、ニューロンのネットワークがやがて順応し、発火の閾値が上がる。言い換えれば、学習するのである。(中略)このように、同じ出来事を何度もくり返し経験すると、やがて、慣れや飽きが生じ、人は新たに好奇心をそそられる目新しいモノを自然と選好するようになる。つまり私たちがありとあらゆる新しい体験を探し求めようとするのは、脳が退屈しているからなのだ。

欲しいものが手に入ると、また別の一番いいものはないかと辺りを見回し始め、こうして終わりなき悪循環にはまる。これを「快楽順応」と言う。最高に刺激的な体験すら、退屈なものになりうる。

複雑な行動におけるあらゆる局面には順応が生じる。景色、音、味、匂いなどの感覚の体験は、つねに相対的なものだ。判断は全て比較に基づいて下される。

人間の経済的意思決定はステータスによって誘導されているが、ステータスとは実のところ相対的な尺度であると論じている。

大きな池に棲む大きな魚でいるよりは、小さな池に棲む大きな魚でいるほうが気持ちがいいものなのだ。

私たちがステータスシンボルに弱いのは、承認されたいという強い欲求があるからだが、これは自衛の手段でもある。(中略)気づいてもらうためには、シグナルを発さなければならない。(中略)見せびらかしの消費が大多数の人にとって極めて強力なシグナルである理由の一端は、そこにある。(中略)社会的に排斥されやすい恵まれない人々のいる、はしごの最下段を避けるためでもある。

私たちは絶えず自分の所有物を他人の所有物と比較するが、相手はだれでもいいわけではない。(中略)最も関係の深い比較対象である隣人や同僚と比べることで、自己を評価する。

人間はモノを欲し、人を妬む。だが妬みからは、他者の優位性と感じられるものに恨みや執着心を抱くと言う、負の感情が生じかねない。(中略)私たちは身近な他者を妬むが、彼らの幸運が自分にも容易につかめそうなものである場合には、より嫉妬心が湧きやすくなる。

スウェーデン語で「多すぎず少なすぎず、ちょうどよい」を意味する「ラーゴム」という言葉も、過度の消費やこれ見よがしな行為を避け難る北欧の人々の好みをよく言い表している。

こと経済的不平等に関しては、互いの富の状態は知らぬが仏と言えそうである。

「持つこと」ではなく、「生きること」に金をかけるのだ。(中略)旅行、コンサート、外食といったコト消費から得られる恩恵は、ブランド服や宝石、家電製品といった高級品を所持するモノ消費の恩恵よりも、長続きする傾向がある。コト消費では、体験前の段階だけでなく、事後の回想時にも満足感が得られるのだ。(中略)私たちは最近買ったモノのことより、体験したことについて話したがる。

モノ消費であれコト消費であれ、自分は人とは違うと言うことを必死に示そうとしていることに変わりがない。どちらの消費も、自らのステータスをシグナルとして発信し、自分が何者かを伝えようとする行為にほかならないのだ。


この章は非常に重要である。少しずつ自分の考えを整理してみる。

まず、アダム・スミスが述べているように、私たちは注目してほしい生き物であるということである。他者から承認して欲しいと強く思っている。だから、裕福を誇示するために消費を繰り返す。なぜ、裕福の誇示が必要なのだろうか。それは、シグナルを発しないと他者から気づいてもらえないためである。そのシグナルには、自分が社会的に排斥された最下層に属さないための自衛という逆説的な側面も孕んでいる。

また、この章では脳のニューロンという観点から人間の消費行動を解説している。消費を繰り返すうちに、ニューロンの興奮に必要な電位閾値が上昇し、目新しいものがないと退屈を感じてしまうという脳の基本構造がある。だから、欲しいものが手に入ると、また別の一番いいものはないかと探し始め、快楽順応という終わりなき悪循環にはまってしまう。

そして、もう一つ大切なのが、相対的比較である。この世の基本原理は全て相対となっている。ここがポイントである。過去に体験したアレコレと比較して、身近な人と比較して、消費を繰り返す。この相対という概念を頭の片隅に置いておくだけでも、今後の行動が変わってきそうである。

これらの対策として、いくつか書かれてあったことを抽出した。一つ目は、「所有物や富を絶え間なく追い求めるのではなく、いま自分が手にしているものをじっくりと時間をかけて顧みるべきだ。」ということ。自分にないものではなく、あるものに注目する。

二つ目は、スウェーデン語で「多すぎず少なすぎず、ちょうどよい」を意味する「ラーゴム」である。行き過ぎた消費を控える。かといって、少な過ぎてもダメである。丁度よさを知ることが必要である。

三つ目は、「持つこと」ではなく、「生きること」にお金をかけることである。これもバランスの問題であると思われる。持つことも大切であって、あくまで行き過ぎがよくないのである。注意しないといけないのは「持つこと」も「生きること(体験、経験)」も他者比較の視点でステータスシンボルのために利用しないことである。

再び古着の話に戻すと、僕が古着初心者の時は、価格帯が1着6800円〜15800円程度のものを購入していた。この時のレギュラー古着はもうほとんど持っておらず、手放してしまった。なぜ、手放したかというと、こんまりさん風に言えば「ときめかなくなった」からである。これは僕自身の目がだんだんと良くなっていったということもあるし、僕の好みも変わっていったことにも起因していると思う。

今はというと、当時の価格帯を大きく上回る価格帯のヴィンテージにも手を出し始め、同時に手放すということもあまりなくなった。これは「ときめき」が継続しているということでもあり、満足しているということなのかもしれない。要は、自分の価値基準の範囲における最高のものを手に入れてしまったと言い換えることもできる。だから、僕はよっぽどのことがないともう古着は買わないのかもしれない。逆にこれ以上買うことは、今持っている古着たちへの愛着が薄まる可能性もあり、出動出番も減ることにつながるからである。そんなカッコよさげなことを言って悦に浸っている面もあるのだろうが、これからも人生は続くので、僕自身がどんどん変わっていき、いつか「ときめかなくなってしまう」時もあると思われるので、多少の入れ替えはあるにせよ、その消費の節度は守っていかねばならないのではないかと感じたのであった。

そのように考えると、いかに暇と退屈を凌ぐかということが人生では肝であるという話になってきそうである。極論、「暇だな〜退屈だな〜」を受け入れて、静かに過ごすのがいいのかもしれない。でも、多分みんなそれはできない。そもそも、一人一人がもっと消費を抑えるというのが構造的に止められない気がする。それは周りは消費しているのに、自分だけ消費を抑えるのは損した気分になるからというのが一つあるからだ。ここにも他人との相対比較が入っている。いずれ数十億年先には地球もなくなるんだから、こういうことすら考えるのも小さなことに過ぎない気もするが、未だ生まれていない世代が理想的な環境で過ごせる地球を残すためには、どうすべきか考える必要はありそうな気がする。

みんなが「もう買いたいものがない」という状態になることは、精神的には豊かになってそうだが、経済的には良くないのだろうか。そもそも、世界中でお金には価値があると思われていることが不思議である。逆に、紙幣を破り捨てる人を見たことがない。デフォルトした国だと、そういう光景も見られるのだろうけど。お金の本についても色々読んだが、いつも本質を掴めそうで掴めていない気がする。その本質を掴むには、一旦お金という価値が目の前で無価値になる瞬間が必要なのではないかと理由もなく想像している。


第6章 私のものとは私である

なぜ私たちはモノをなかなか手放せず、たいして価値のない持ち物をトランクルームをいっぱいにしてまで所有しようとするのか。(中略)そのわけは、「私のもの」が「私」だからである。

ジャン=ポール・サルトルは、人間が所有したがる唯一の理由は自己意識を強化するためであり、人間は − あたかも、所有物を通して自己を外在化せずにはいられない存在であるかのように − 自分の所有物を観察するという方法によってのみ、自分が何者かを知りうるのだとした。

iPhone は多くのユーザーにとっての「ディパーチャー・グッズ」だ。「アップル社の製品は自分のアイデンティティーを反映している。ならば他のアップル製品も買ったほうがよい」という新たなプレッシャーが、iPhone を出発点(ディパーチャー)に生じるからである。

コレクターは自らのコレクションに、感情的にのめりこんでいる。単にコレクションの金銭的価値が高いからというよりは、収集に多大な努力を費やし、望みのものを一心に探し求めた過程がそうさせるのだ。

ベルクは拡張自己の出現における四つの発達段階を提案した。第一段階で、乳幼児は自己を環境と区別する。第二段階で、子どもは自己を他者と区別する。第三段階で、青年と成人は所有物に助けられながらアイデンティティーを維持し、第四段階で、老人は所有物の手を借りて自己の連続性の感覚を手に入れ、死に備える。歳をとるにつれ、人は形見の品、家宝、写真といった、家族や友人との長年の関係を思い出すよすがとなる所有物を高く評価するようになる。

新たなテクノロジーの発達により、いまや多くの物的所有物はデジタル形式に取って代わられ、私たちと所有物との物理的なつながりは消え失せようとしている。(中略)面白いことに、数年前には近々消滅するだろうと予測されていたアナログレコードと紙の本は、実際に手に触れられる味わいを愛するファンにより、人気が復調傾向にある。(中略)このような回帰現象が起きているのは、一つには非物質的な所有物に情緒的愛着を覚えるのが難しいからである。触れていたいと思う欲求は、一種のフェティシズムだ。

私たちがモノに見出す価値は、人々がそのモノに支払ってもよいと思う金額に基づいている。たとえ機能的な価値がないモノでも、私たちが価値を見出せば、それがモノに移行して固有の特性となる。人類史の大半を通じて金と銀が珍重されてきたのは、金銀に元から高い価値が備わっていたからではない。そうではなく、採掘量が少なく、貨幣として使いやすかったことで、金銀に高い価値が付与されるようになったのである。

純金のノーベル賞のメダルがむき出しで飾ってあるのを見ると、その場にいた見学者全員がメダルに手を触れたがった。また、紙製の銀行券そのものに価値はないとわかっている現代の私たちでも、札束を手にしたときには特別な感慨を覚えるものだ。

人が自己の一部であるとみな所有物は、魔法めいた魅力を宿すとみなされる対象物である場合が多い。たとえば、香水、宝石、衣服、食べ物、自宅、乗り物、ペット、ドラッグ、贈り物、家宝、アンティーク、写真、土産、コレクションなどである。

人々はソーシャルメディアという新たなテクノロジーを用いて、オンラインでの自己観を他者にアピールしたいものへと作り変えている。SNS の重大な懸念の一つは、人々が不正確なプロフィールを創作し、ネット上に広めようとする点だ。(中略)こうしたネット上の自己宣伝は、自分以外のだれもが皆幸せな成功者なのという非現実的な憶測を生み、傷つきやすい人々が自己不全感を抱く原因となるからである。

自己観が個人主義的か集団主義的かによって、世界を見るレンズも、部分的か全体的かに分かれるのである。被験者が個人的主義文化の出身か集団的主義文化の出身かによって、さまざまな課題をこなす際の脳活動にも差が出ることがわかった。(中略)人間の脳は、つねに周囲の微細な文化的コンテクストに反応し、それに合わせて変化している。

子どもも大人も、人に見られていない時は慈善団体へ寄付する金額が減るが、そのことは、人間が内心では自己中心的な動機を保ち続けていることを示している。

アメリカ、イギリス、フランスなどが該当する垂直的な個人主義文化では、人々は競争、成果、権力などを通じて他から抜きん出ようとし、「勝つことがすべてだ」(中略)といった意見を支持する傾向がある。

だが、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、オーストラリアなどが該当する水平的な個人主義文化では、人々は自分を他者と対等な立場にある自立した存在と見ており、「他人よりは自分自身を頼みにしたい」「他者から独立した私個人のアイデンティティーが、私にとっては非常に重要だ」といった意見を支持する割合が高い。

対照的に、日本、インド、韓国などが該当する垂直的な集団主義文化では、人々は個人的な目標達成を犠牲にしてでも権威に従おうとし、排他的な内集団の団結とステータス向上に力を傾注する。人々は、「たとえ自分の望みを諦めてでも、家族の面倒を見ることが私の義務だ」「所属する集団が決めたことを尊重するのが、私にとっては重要だ」といった発言をしやすい。

ブラジルをはじめとする南米諸国が該当する水平的な集団主義文化は、社交性と、一応の平等を実現する平等主義的な取り決めが特徴的だ。ここでは、「私にとって、ほかの人と一緒に過ごすのは楽しみだ」「同僚の幸せは私にとって重要だ」といった意見が支持されやすい。

生まれてきたときには人間の脳は互いに似通っているが、(中略)やがて文化的な自己観が、脳の活性化の違いという形で表れてくる。そうした違いは、歴史的、政治的、あるいは哲学的見地の違いを反映している。つまり、人間の脳は進化で組み上がった固定されたものではなく、発達の過程で生物文化的な影響によって徐々に形作られるものなのだ。

カーネマンは(中略)人間の頭は意思決定の際、二つの経路をたどってはたらくと論じた。情緒的な「勘」に頼ることの多い、速くて直感的な思考経路が「システム1」、論理的思考と推論によって時間をかけて意思決定に至る、遅くてまだるっこしい思考経路が「システム2」である。人間は双方の経路を用いてものを考えているが、解決策に関しては両者が異なる結論を導き出すことも多い。

(中略)欲しがることは、必要とすることとは違う。欲しがることはむしろ、「所有する可能性があるもの」を通して心理的充足感を得ようとする行為である。だが意思決定においては、どうやら「失う可能性があるもの」が最大の影響力を発揮するらしい。そして「すでに所有しているもの」となると、損失はさらに強大な影響力を及ぼす。所有物は所有者の人となりを物語るものであるからだ。


この章の冒頭にてサルトルによれば「人間は、自分の所有物を観察するという方法によってのみ、自分が何者かを知りうるのだ」ということらしい。所有物で自分が何者かを探求し、表現している。これには、何か思い当たる節がある。

古着、ナバホラグ、レコード、本、絵画、家具、雑貨で僕は自分の好きな部屋を演出している。僕は、無意識的に部屋を通して、自分は何者かを表現しようとしていたのかもしれない。

次に、価値についての言及があったので、興味深く思い抽出した。
「価値」も私たちの頭の中にある概念にすぎない。価値とは何なのか。ずっと疑問に思っていた。

著者によると、「モノに見出す価値は、人々がそのモノに支払ってもよいと思う金額に基づいている。たとえ機能的な価値がないモノでも、私たちが価値を見出せば、それがモノに移行して固有の特性となる。」とある。その例として、金銀という鉱物資源を挙げているが、金銀自身に価値があるわけではなく、採掘量の少なさや貨幣として使用しやすかったことが価値となったわけで、価値は「付与」されるものということが学びだった。そのモノの値段と付与された価値が見合っていれば、売買が成立するわけである。

一方で、価値は付与されるわけであり、人々に見出されるものでもあるため、その価値が見えやすい場合もあるが、見えにくい場合もあるはずである。つまり、売り手が見出した価値が買い手に見出してもらえないこともあるだろうと推測される。その場合、残念ながら売買不成立となる。

価値とは概念であるため、人々の間で価値観のズレが生じる。そうであるならば、売り手は、買い手に対して共感と納得を持ってもらえるように促す必要があるのかもしれない。かもしれないとやや可能性の含意で記述したのは、買い手の方もその価値を見出す能力の底上げが必要な気がするからである。売り手の価値の押し付けはよくない気がして、そこがビジネスの難しいラインだと感じている。(ビジネスをやったことはないが...)

章後半の国や地域差による垂直的/水平的な個人主義文化/集団主義文化的な自己観が、脳の活性化の違いとして表れてくるという記述は、頭の中に入れておくといいかもしれない。僕たちの思考は、無意識的にこれまで住んできた地域の慣習に依っている可能性が高く、自分の思考を疑う材料となりそうである。


第7章 手放すということ

人々が自分の所有物に付ける価値は、他人が支払ってもよいと思う金額を大幅に上回っている。

意思決定においても、人間の脳にはバイアスが生じるのである。第一の法則は、状況の変化に対する評価は、ある特定の時点と比較した相対的なものになるということだ。(中略)飲み物の甘さから、同じ芝居を何度となく観るつまらなさに至るまで、私たちの経験は過去の出来事によって形作られる。

第二の法則は、どの変化も、現在の価値との比較になるという点だ。(中略)空腹で死にそうな人は、たとえ過去にどれほど裕福だったとしても、どのような施しも喜んで受け取るだろう。

最後に、最も重要な第三の法則は、損失の見通しは、利得の見通しよりも心に重くのしかかるという点だ。手中の一羽を手放すためには、人は藪の中に少なくとも二羽の鳥がいることを望む。

(中略)所有物に意識を向けさせられると、採用の学生はその所有物の価値をより高く評価したが、東洋の学生は比較的低めに評価したのである。授かり効果はだれにでも必ず生じるものではなく、自己観を反映した、所有物に対する各人の考え方によって変化するものなのだ。そしてその考え方は、個人主義的か集団主義的かという文化的規範によって形作られるのである。

筋金入りの買い物好きの多くが証言するように、抗いたい魅力があるのは購買そのものではなく、購買の期待なのだ。(中略)脳内では、モノを所有しているか、あるいはモノの所有を欲しているかによって、異なるメカニズムがはたらく。(中略)私たちは楽しむことより、楽しみを追い求めることにはるかに長い時間を費やしている。楽しい体験に共通しているのは、新奇性だ。

(中略)獲得しようという動機づけがなされると、目標ができたことでやる気が生じる。目標が達成できな場合には失望感や挫折感を味わう可能性があるが、じつは目標が達成できた場合にも、私たちは不満を感じる。獲得が成功したからといって、期待したほどの喜びを味わえることは稀だからだ。

ためこむ人は、ためこんでいるモノには価値または潜在的価値があり、再利用できるはずだとか、自分のアイデンティティーの一部だと主張して、ためこむ行為を正当化する場合が多い。ためこむ行為は、癒しや親しみの感覚を与えてくれるようだ。

大多数の人にとって、自宅はおそらく明白な自己の延長だろう。アイデンティティーは、ほとんどの時間を過ごす場所と分かちがたく結びついているからである。(中略)私たちはまるで家が命ある存在だと思っているかのように、ぬくもりのある家といった言い方をする。人は家に関連したモノに強い愛着を覚える場合があり、だからこそ自宅を所有し続ける権利を是が非でも守ろうとするのである。

(中略)何世代にもわたって一つの所に住み、生き死にを重ねるうちに、人は自分たちのアイデンティティーがその土地に染みこんで行くように感じる。(中略)多くの部外者には不毛の砂漠としか見えないイスラエルの国土を巡ってこれほどの紛争が生じているわけも、この観点を考慮に入れなくては理解できない。

(中略)中東の戦争は宗教の違いが原因のように見えるかもしれないが、じつはそれは管理権をめぐる問題でもある。だが宗教や聖なる価値という枠組みで紛争が語られるために、どちらの側もより深い所有者意識を刺激されてしまうのだ。(中略)安易に金銭的な補償や代替地への移住を提唱するのは考えものだ。人々が土地に対して抱く情緒的な結びつきをないがしろにしているからである。それどころか、補償の額にかかわらず、かけがえのないものに値段を付ける行為は神への冒涜とみなされるだろう。

所有物を失うとつらいのは、それが価値あるモノだからではなく、自分が何者かを如実に表すものだからだ。所有物とのつながりは人によっても文化によっても異なるが、人言は程度の差こそあれ、みな所有を通じて自己意識を構築する。

人間が非合理的な行動をとるのは、所有物とみなすものをほぼ自己と同一視してしまうためだ。だがそこには、避けがたい矛盾が内在している。人は自らの所有物を過大評価し、自己の表れである所有物を手放すまいとする。だが同時に、人は大半の所有物にすぐに慣れてしまい、さらに多くのモノの獲得に乗り出していく。それは自己をよく見せようとする終わりなき、そして最終的には満たされない探究の旅である。成功者であるという実感は得られるかもしれないが、そこにはモノを蓄えるほどに満足感が減っていくというパラドックスが生じる。


最終章では、ここまでの繰り返しに近い内容も多かったが、家や土地に焦点が置かれている箇所が目立った。

僕がここで感じたことは、値段がつくということは、お金で売買できるということである。ということは裏を返せば、お金を出せば買えるモノがある一方で、値段がつけられないものがあるということである。

この章では、イスラエルの土地について書かれていたが、身近なニュースだと裁判の被害者への補償金であったりと、お金を支払えばそれで全てが解決かと言われれば、きっとそうではないだろうということに気づく。

我々はすぐにお金で解決しようとしてしまうが、お金の先にある「人々の思い」を感じなければならないのではないか。


おわりに
人生というレース

私たちはもっとシンプルで、モノに取り巻かれておらず、他人と競い合わない人生を送るべきなのだ。(中略)とはいえ、所有が人間社会を支える基盤である以上、所有と無縁の生活を送ることもまた不可能だ。

(中略)協力と分かち合いは他の動物でも見られるものの、所有は人間だけに特有の社会契約である。所有には、心の理論、意思疎通のための詳細なコミュニケーション、未来の予測、過去の記憶、互恵性・慣習・相続・法・正義などの概念を理解する力といった、さまざまな能力を備えた脳が必要になるからだ。

(中略)ヒト以外の社会では、世代交代ごとに優位性をめぐる争いが起きるため、集団の中での順位はつねに流動的である。だが人間社会では、所有によって、限られた資源を世代から世代へと比較的継続的に分配するメカニズムが生まれた。(中略)端的に言えば、人類の文明が秩序ある社会体制へと変わりえたのは、所有のおかげなのである。だがそこに問題が潜んでいる。確立された秩序は変化を嫌うため、所有で生じた不平等がそのまま固定化されやすいのだ。

哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーは一八五一年に、「他人の意見をありがたがる人はみな、他者に敬意を払いすぎている」と警告している。

作家ゴア・ヴィダルの警句を引けば、「友人が成功するたびに私は少し死ぬ」のである。

(中略)理由は、社会に生じた不平等を私たちが正当化しているからだ。私たちは成功者を称え、自分もそうなりたいと熱望し、たいていの場合、これだけ努力したのだから、成功した暁には自分もいい思いをするのが当然だと考える。

どんな体験にも慣れが生じるため、いい時と悪い時を区別するためには、日々の生活に浮き沈みがなくてはならない。(中略)ずっと幸福でいなければならないという考え方にも、どこか根本的に間違っているところがある。

つねに幸福でいたいといった非現実的な期待に、自分は正しく評価されることがないという思いこみがが加わると、本当の意味で心が満たされることはなくなる。(中略)明らかに問題は、どうしたらもっと獲得できるかではなく、どうしたら今手にしているもので幸せになれるかなのである。

科学の進歩は、テクノロジー失業を生み出すおそれがある。将来、全員に行き渡るだけの仕事がなくなった場合、私たちはどうやって時を過ごせばいいのだろうか。(中略)人間の仕事を代行できる機械を作ったとしても、年老いて衰弱した人は、依然として人とのふれあいや人間の援助を必要とするからだ。(中略)人間の本質を備えた正真正銘の人間だけが、ほかの「人」とつながりたいという私たちの基本的な感情的欲求を満たせるのである。


ようやくクライマックスである。ここでは、「人間の本質を備えた正真正銘の人間だけが、ほかの『人』とつながりたいという私たちの基本的な感情的欲求を満たせるのである。」という箇所が最も重要だと感じた。

僕は、この本を読みながら古着の所有について考えてきたわけだが、古着やヴィンテージを通じて自己を延長しようとしていたことがまず一つある。そして、古着やヴィンテージを触媒として、人々と触れ合いの機会を作ろうとしていたというのが二つである。

モノというものが目的でもあるのだが、その先にある人との触れ合いが我々の感情的欲求としてあることを自覚することが大切ではないかと感じる。

最後に、この本の訳者あとがきにて、小浜杳さんはこのように述べている。


原著『Possessed : Why We Want More Than We Need』は二〇一九年に刊行された。原題「Possessed」 には、「所有する」を意味する動詞「Possess」の受動態であるという以外に、「(悪魔や悪霊などに)取り憑かれた」という意味もある。ダブルミーニングを活かして訳せば、「所有という悪魔 − なぜ人は必要以上に欲しがるのか」というどころだろうか。


訳者あとがきを読むことは滅多にないのだが、小浜さんの日本語文が綺麗で心地よく思わず唸ってしまった。小浜杳さんには注目だ。すごい優秀な方ということが、文字から伝わるなんて凄い。

FIN.

もしよければサポート宜しくお願いします!いただいたサポートは、大切に活動費に使わせていただきます。