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ジオラマ

【これは、劇団「かんから館」が、2000年6月に上演した演劇の台本です】

若くして事業を拡大し、大きな成功を手に入れた青年実業家。しかし、彼の私生活は謎に満ちていた。幸福な生活を送っているかに見えた彼だが、その実、女性関係は乱れ、多くの愛人を抱えていた。その愛人たちと過ごすラブホテルのインターネットに、不気味なメッセージが次々と届く。誰かが自分たちを見ている? 疑心暗鬼に陥る女たちをよそに、実業家の享楽の日々は続く。


   〈登場人物〉

    小倉咲子
    江藤さやか
    山岡奈々恵
    橘 裕子
    橘 修司
    梅川正彦
    豊島 隆


    とあるラブホテルの一室。
    下着姿の女(小倉咲子)とバスタオルを腰に巻いた
    裸の男(橘修司)がベッドに座っている。
    修司は、タバコを吸っている。
    小さく音楽が流れている。

修司  じゃ、俺もシャワーあびてくるから。

    修司、タバコを消して、立ち上がろうとする。

咲子  そうそう、カブトムシがいるのよ。
修司  え?
咲子  うちの学校にカブトムシがいるの。
修司  カブトムシ? こんな季節に?
咲子  え‥‥やだ、虫じゃないのよ。人間。
修司  え?
咲子  教師のあだ名。カブトムシっていうの。生徒も教師もみんなカブトムシって呼んでるの。おかしいって思わない?
修司  ‥‥‥。
咲子  なんでカブトムシかって思うでしょ?
修司  ‥‥ああ。
咲子  ほら、カブトムシみたいな車、あるじゃない。外車でさ、ええっと‥‥。
修司   ワーゲン‥‥フォルクス・ワーゲン?
咲子   そうそう、それ。その車に乗ってんだけどさ。
修司   それで、カブトムシなわけ?
咲子  もう! 最後まで聞いてよ。‥‥乗ってるんだけどさ、出てこないのよ。その車から。
修司  え?
咲子  そいつ、毎朝、けっこう早く、そのカブトムシに乗ってやって来るの。でも降りないのよ。
修司  降りない?
咲子  うん。
修司  降りないって‥‥ずっと?
咲子  ずっと。
修司  教師なんだろ、そいつ。
咲子  うん。
修司  授業どうすんの?
咲子  降りないから、できるわけないじゃん。
修司  だって‥‥。どうすんだよ。
咲子  代わりの教師がやるのよ。
修司  ‥‥‥。
咲子  変なやつでしょ?
修司  誰も何も言わないの?
咲子  もう、みんなあきらめてるみたい。
修司  校長とかも?
咲子  うん。
修司  ‥‥いつから?
咲子  もう、一年以上になるかな。
修司  ビョーキ?
咲子  でしょう? でなきゃ、あんなことしないよ。
修司  クビになんないの?
咲子  それがならないのよ。ほら、公務員だからさ。
修司  公務員だから?
咲子  身分が保障されてるでしょ。簡単にクビにはできないのよ。
修司  へぇ‥‥組合とかが守ってるわけ?
咲子  うーん、タテマエはねぇ。‥‥でも、ほんとは困ってるみたい。
修司  ふーん。‥‥けっこうな御身分だな。
咲子  でさ、そのカブトムシがとまってるのがね、クヌギの木の下なの。笑っちゃうでしょ?
修司  ほんとぅ?
咲子  ほんとなのよ。だからさ、クヌギの汁をストローか何かでチューチュー吸ってるんじゃないかって。
修司  マジ?
咲子  バカ、冗談に決まってるでしょ。
修司  ‥‥‥。
咲子  ‥‥あんたのも吸ってあげようか?
修司  え?
咲子  樹液。
修司  ‥‥‥。
咲子  ねぇ。
修司  いいよ。想像したら、何か気分が悪くなってきた。さ、シャワーあびて、帰ろ。
咲子  いいじゃん。ほら、チューチュー。甘い汁出せ。
修司  ばか。淫乱か、お前。
咲子  淫乱でもいいじゃん。

    咲子、修司のバスタオルに手をかけようとする。

修司  やめろよ、ばか!

    修司、バスルームに逃げ込む。

咲子  あはははは。

    咲子、ベッドの上に寝ころぶ。
    小さく流れる音楽。シャワーの音。
    咲子、しばらく天井を見ている。
やがて、部屋の隅のコンピュータに目を止める。
    咲子、ベッドから下り、コンピュータをいじり始めるが、うまく動かせない様子。
    しばらくして、シャワーの音が止まり、修司が戻って来る。

修司  あれ、まだ着替えてないの?
咲子  うん‥‥。

    修司、服を着始める。
    咲子はコンピュータをいじっている。

修司  帰るぞ。何やってんだよ。
咲子  これ、何?
修司  パソコン。
咲子  そんなの、見りゃ分かるわよ。なんで、こんなのがここにあるの?
修司  え、知らないの? インターネットとかするんだよ。
咲子  ホテルで?
修司  ああ。
咲子  どうして?
修司  ほら、インターネット・カフェとかあるだろ? だから、まあ、インターネット・ホテルって言うのかな。最近、けっこう多いんだぜ。
咲子  へぇ。詳しいね。
修司  常識。
咲子  ふーん。‥‥仕事すんの? ここで。
修司  まさか。
咲子  じゃあ?
修司  ほら、ポルノサイトとかたくさんあるから。
咲子  ああ、そっか。‥‥でも、ビデオでいいんじゃない?
修司  そんなの知るかよ。‥‥好きなやつもいるんだろ。
咲子  この「らくがき帳」ってのは?
修司  え? どれ?
咲子  これ。

    咲子、画面を指さす。
    修司、のぞきこむ。

修司  ‥‥らくがき帳‥‥だな。
咲子  答えになってない。
修司  ほら、よくホテルに置いてあるじゃない。ノートが。
咲子  ああ。
修司  あれのパソコン版だろ。
咲子  そっか。‥‥ねぇ、ちょっと見てもいい?
修司  え? ‥‥もう帰るぞ。
咲子  ちょっとだけ。‥‥なんか、おもしろそうじゃん。
修司  もう。

    咲子はマウスをいじり始める。
    修司はタバコに火をつける。

咲子  「今日はトシ君と伊豆をドライブしてきたのだ。天気がよかったから、水平線が見えた。伊豆の踊り子の衣装を着て二人で写真をとったら、二〇〇〇円もした。高すぎるぞ。」
修司  ‥‥‥。

    咲子は、次のページをクリックする。

咲子  「今日は、バックで三発やった。エミのおしりには大きなほくろがある。それを見ながらやり続けたのだ。オレって案外ほくろフェチかも。」何なのよ、これ。
修司  ‥‥バカだろ。

    咲子、さらにクリックする。

咲子  あ、これって、絵も描けるんだ。‥‥見て、へたくそな絵。
修司  ‥‥便所のらくがきだな。
咲子  「キャノン砲」だって。ばっかじゃないの。

    と、言いつつ、さらにクリック。

咲子  あ、ポエム。‥‥あるんだよね、こういうの。えーっと、
「見つめてる。見つめてない。思ってる。思ってない。感じてる。感じてない。信じてる。信じてない。ホント? ウソ? いつもどっちつかずの宙ぶらりん。あっちに行ったり、こっちに行ったり。まるで童話のこうもりみたい。バカ‥‥。愛してる。愛してない。‥‥愛してる」
‥‥なんか暗いね、これ。
修司  ‥‥‥。
咲子  もう、ダメなんだろうなあ、この二人。
修司  ん? ‥‥ああ、そうかもな。
咲子  こういうのって、何で書くんだろ。
修司  え?
咲子  だって、男も見るかもしれないし。
修司  ‥‥男は、あんまり見ないんじゃないか、こういうの。
咲子  そっかなあ。‥‥案外、見てほしいのかもね。
修司  おれは見ないな。
咲子  ふーん。

    と、また、クリックする。

修司  まだ、見るの?
咲子  もうちょっと。‥‥なんかおもしろいじゃん。‥‥あ、またポエム‥‥いや、日記かな?
修司  ‥‥‥。
咲子  「あの人の気持ちは、どこにあるのだろう。甘い言葉なんかもういらない。本当のあの人の気持ちがほしい。でも、それは言えない言葉。言葉があふれそうになると、ガムをかむ。味がなくなるまでかんでみる。ゴムみたいになってもかんでいる。クチャクチャになった言葉と一緒に銀紙に包んで捨てる。あの人に見つからないようにこっそりと捨てる」
‥‥‥。
修司  なんだよ、それ。なんか、思いっきり暗いな。
咲子  そうだね。
修司  演歌のうらみ節みたいだ。
咲子  これ、さっきのポエムの子かな?
修司  さあ?
咲子  きっと、男が浮気して苦しんでるんだね。誰かさんみたいに。
修司  ‥‥誰かさんって、俺のことか? ‥‥おいおい、そりゃないだろ? 俺はさっちゃん一筋だよ。
咲子  ほんとぅ?
修司  ほんとに、ほんとだよ。
咲子  ‥‥‥。「甘い言葉なんかもういらない。」
修司  あ‥‥。そういうこと言うのか?
咲子  ‥‥‥。怒った?
修司  ‥‥そりゃ、怒るよ。そこまで言われたら。
咲子  うそ。冗談よ。
修司  もう‥‥。
咲子  ‥‥でも、こういうの書く人って、暗い人多いんだね。
修司  そうだな。‥‥まあ、自己満足っていうか、一種のオタクだな。
咲子  ふーん。‥‥帰ろっか。
修司  もういいのか?
咲子  また、今度見る。
修司  そっか。じゃあ、帰ろ。‥‥俺、精算してくるから、早く着替えろよ。
咲子  うん。

    修司、財布を出して、部屋から出て行く。
    咲子、ディスプレイを眺めたまま、すわっている。

    暗転。


    暗闇のなかで、カタカタと響くキーボードの音。
    明かりがつくと、そこは、とあるラブホテルの一室。
    パジャマを着た女(江藤さやか)が、コンピュータの前にすわって、独り言を言いながら、キーボードを打っている。
    ベッドでは、修司が横になっている。眠っている様子。

さやか えーと、秘密二十六、‥‥社長は、カニが食べられない。それなのにエビは好物だ。似たもの同士なのにおかしいぞ。‥‥秘密二十七。社長はピーマンも苦手だ。まるで子供みたいだ。‥‥なんか、食べ物ばっかだな。えーと、秘密二十八、‥‥そうだ。社長は、よくお腹を下す。それでいつもカバンに正露丸を入れている。だから、社長のキスは、時々正露丸のにおいがする。気持ち悪いぞ。

    修司が、目を覚ます。

修司  ‥‥何してるの?
さやか らくがき帳。
修司  また? ほんと、好きだねぇ。‥‥ああ、すっかり寝込んじゃった。‥‥今何時?
さやか えっとね‥‥(時計を見て)十一時過ぎ。
修司  一時間ぐらいか。
さやか え?
修司  寝てたの。
さやか ああ、そうね。
修司  ‥‥何書いてるの?
さやか 報告書。もうすぐ完成でーす。
修司  何の報告書?
さやか ひみつ。
修司  何だよ?
さやか だから、「社長の秘密」でーす。
修司  え‥‥。
さやか だからね、さやかの知ってる社長の秘密を並べてみたの。今ね、二十八番目。
修司  え‥‥。
さやか 報告しましょうかぁ?
修司  うん‥‥ああ。

    さやか、ページのトップに戻す。

さやか それじゃ、報告しまーす。社長の秘密一。社長は不倫をしている。社長の奥さんは裕子さん。二十七歳。専業主婦。二人の間に子供はいない。奥さんは、まだ不倫に気づいていない様子だ。
修司  おい、いきなりだな。
さやか 社長の秘密二。社長は、いたいけなアルバイトの女子大生をお手つきにしたのだった。ああ、かわいそうな女子大生。でも、それがあたしだったりする。
修司  「お手つき」って、やけに古風な言葉を使うな。
さやか これでも、一応、国文ですから。
修司  でも、それじゃ、まるで俺が悪代官みたいじゃないか。
さやか そうなんどす。偉い代官様には逆らえやしまへんのどす。
修司  何だよ、それ?
さやか 悪代官に手ごめにされる、かわいそうな町人娘。
修司  まるで、水戸黄門か何かだな。‥‥まあ、いいや、次。
さやか 社長の秘密三。社長は、仕事場と称して、会社の近くにワンルームマンションを持っている。そこから会社に通っていて、家にはめったに帰らない。そのマンションにも女を連れ込んでいるようだ。
修司  おい、待てよ。なんでそんなことが分かるんだよ。お前来たことないだろう?
さやか うん、直感。‥‥でも、女の直感は鋭いどすえ。
修司  あそこは仕事場だよ、マジで。女っ気なんかないよ。
さやか ごまかすところが、あやしいどすえ。
修司  ごまかしてなんかないよ。‥‥だって、もしそうなら、わざわざこんなホテルに来なくてもいいじゃない?
さやか ああ‥‥それも、そっか‥‥。まあいいや、似たようなもんだ。
修司  何が似たようなもんなんだよ?
さやか だって、女、いるんでしょ?
修司  ‥‥いないよ。
さやか やっぱり、いるんだ。
修司  いないって!
さやか いいの、別にいたって。‥‥だいたい、お金持っててさ、不倫しててさ、アルバイトの子に手を出すような人がさ、いないほうが不自然だよ。
修司  ‥‥‥。
さやか 図星ぃ! じゃ、次はね‥‥社長の秘密四。
修司  もう、いい。
さやか え?
修司  もういいよ。自分で読むから。

    修司、ベッドから起きあがって来て、ディスプレイを見る。

修司  ‥‥‥。(読んでいる)
さやか どう?
修司  こんなの秘密でも何でもないじゃない?
さやか いいじゃん。あたしは知らなかったんだから。立派な秘密よ。
修司  ‥‥‥。(読んでいる)
さやか ‥‥‥。(見ている)
修司  おい、名前出すなよ。
さやか 「Y西商事」だから、どこかわかんないよ。
修司  わかるよ。
さやか うちの会社じゃないから、いいじゃん。
修司  ‥‥‥。(読んでいる)
さやか ‥‥どう、おもしろい? 力作でしょ?
修司  ‥‥‥。(読んでいる)
さやか ねぇ。
修司  ‥‥‥。(読んでいる)
さやか ‥‥‥。(見ている)

    修司、ディスプレイを見終える。

さやか ねぇ、おもしろいでしょ?
修司  ‥‥消去しとけよ。
さやか え?
修司  誰が読むか分かんないんだよ。全部、消去。
さやか やだ。せっかく苦労して書いたのに。
修司  だめ。
さやか やだ。
修司  だったら、俺が消す。

    修司、マウスをつかんで消去しようとする。

さやか だめー!

    さやか、修司の手をつかんで止める。

修司  離せよ。
さやか 消しちゃ、やだ。
修司  ほんとにまずいよ。これ。
さやか だめ!
修司  子供みたいなこと言わないの。
さやか だめ! だめだったら!

    さやか、泣き出す。
    修司、マウスから手を離す。

修司  ‥‥‥。

    さやか、泣き続ける。

修司  ‥‥‥。消すよ。いいね。

    さやか、首を振る。

修司  ‥‥ほんとに、まずいんだよ。

    さやか、泣いている。

さやか ‥‥社長を驚かそうって‥‥笑ってもらえるって‥‥そう思って‥‥さやか‥‥がんばって‥‥がんばって‥‥書いたのに‥‥。

修司  ‥‥‥。

    さやか、泣き続ける。

修司  ‥‥わかったよ。‥‥消さないよ。
さやか ‥‥‥。ほんとぅ?
修司  ‥‥ああ。‥‥そのかわり、名前だけは変えてくれよ。
さやか ‥‥うん。
修司  まいったなあ‥‥。
さやか 好き。
修司  え?
さやか だから、さやか、社長、大好き。

    さやか、修司の頬にキスをする。

修司  ‥‥‥。
さやか ‥‥社長、やさしいね。
修司  ‥‥どうでもいいけどさ、その、社長っての、やめてくれない?
さやか どうして?
修司  いつも言ってるだろ。気持ち悪いんだよ。
さやか でも、社長は、社長じゃない?
修司  そうだけどさ‥‥プライベートなんだからさ。
さやか じゃあ、何て呼べばいいんですか?
修司  だからさ、橘さんでも、修司さんでもいいよ。
さやか じゃ、橘社長。修司社長。
修司  よけいに悪いよ。
さやか だったら、やっぱり社長のままでいいじゃない。ね、社長?
修司  もう‥‥。勝手にしたら‥‥。さやかちゃんには負けるよ。
さやか はい、勝手にしまーす。社長。

    修司、ベッドにすわってタバコに火をつける。
    さやか、隣にすわる。

さやか あたしにもちょうだい。
修司  ああ。

    修司、さやかにタバコを渡す。
    さやか、火をつける。

さやか ねぇ。
修司  うん?
さやか 社長は、子供つくらないの?
修司  え?
さやか 子供嫌いなの?
修司  ‥‥別に、そんなこと、ないけどさ。
さやか 何年? 結婚して。
修司  えっとね‥‥もうすぐ五年かな。
さやか だったらさ。
修司  何?
さやか そろそろいいんじゃない?
修司  まだ、いいよ。
さやか まだ、遊びたい年頃ってこと?
修司  人をガキみたいに言うなよ。
さやか だって、遊んでるじゃん。‥‥大人の遊び。
修司  ‥‥‥。
さやか 別れようって思ってるの?
修司  え?
さやか 奥さん。
修司  ‥‥‥。
さやか それで、子供つくらないの?
修司  別に‥‥。そういうわけでもないよ。
さやか ふーん。
修司  何で?
さやか え?
修司  何でそんなこときくの?
さやか べっつに‥‥。それよりさ、何で結婚したの? 奥さんと。
修司  ‥‥まあ、いろいろあってさ。
さやか 愛してないんでしょ?
修司  ‥‥‥。
さやか 家にも帰ってないじゃん。
修司  まあ、いろいろあんだよ。
さやか 平気なの?
修司  え、何が?
さやか 奥さん。
修司  おい、どうしたんだよ。‥‥今日は変だぞ。
さやか そうかな?
修司  何でそんなことばっかきくんだよ?
さやか うーん‥‥まあ、いろいろと参考までにね。
修司  参考って、さっきの「社長の秘密」か?
さやか ‥‥それもあるかな?
修司  ちょっと悪趣味だぞ。人のプライバシーには干渉しない。
さやか ‥‥プライバシーじゃないの?
修司  え?
さやか あたしと社長の関係。
修司  そうだけどさ。それと、これとはちょっと話が違う。
さやか どう違うの?
修司  ‥‥‥。
さやか まぁ、いいや。
修司  ‥‥‥。
さやか 社長、困った顔もかわいいね。
修司  おい、からかうなよ。
さやか やーめた。
修司  へ?
さやか 社長いじめ。‥‥いじめはやめましょう、ですね。‥‥さてと、さやかもシャワーあびてくる。
修司  ああ。

    さやか、立ち上がる。

さやか 消しちゃだめだよ。「社長の秘密」。
修司  ああ。
さやか 泣くよ。
修司  消さないってば。
さやか じゃあ、行ってきまーす。

    さやか、部屋を出る。
    修司、タバコを吸いながら、ぼんやりディスプレイを見ている。

    暗転。


    とあるラブホテルの一室。
    パジャマを着た女(山岡奈々恵)が、コンピュータのディスプレイを見ている。
    そこへ、パジャマを着た修司が歯ブラシをくわえて入ってくる。

修司  何見てんの?
奈々恵 らくがき帳。
修司  ふーん。(歯ブラシをくわえる)
奈々恵 ‥‥‥。(ディスプレイを見ている)
修司  (歯ブラシをくわえたまま)ふきあえぇ。うぉんあのお わおーうーの。
奈々恵 え? 何?
修司  (歯ブラシを出して)好きだねぇ、女の子はそういうの、って言ったの。
奈々恵 そういうのって?
修司  だから、らくがき帳とか。
奈々恵 ‥‥誰か、女の子が見てたの?
修司  じゃなくってさ。お前、よく見てるじゃん。
奈々恵 ‥‥‥。
修司  それに、ほら、喫茶店とかにもあったりするじゃん、そういうの。‥‥読んでたり、書いてたりすんの、たいてい女の子だろ。
奈々恵 ああ‥‥そうかな。
修司  (歯ブラシをくわえて)ほうらよ。

    修司、部屋から出て行く。
    奈々恵、ディスプレイを見る。
    修司のうがいの音。
    しばらくして、修司が戻ってくる。
    修司、ベッドに入って、タバコに火をつける。

修司  いつまで見てんだよ。こっちこいよ。
奈々恵 変なのよねぇ。
修司  何が?
奈々恵 私たちのこと、誰か見てるんじゃない?
修司  え? どういうこと?
奈々恵 まるで、見てるみたいに書いてあるのよ。
修司  ‥‥そこにか?
奈々恵 うん。
修司  どんな風に?
奈々恵 読んでみようか?
修司  ああ。
奈々恵 たとえばねぇ‥‥ほら、ここ。
「一週間は金曜日の夜のためにだけある。日曜日はブルー。時間だけを持て余す。月曜日、新しい週。金曜日まであと四日。火曜日、金曜日まであと三日。水曜日、あさってが金曜日。木曜日、ちょっとウキウキ、ドキドキ。そして、金曜日の夜が来る。金曜日の夜が、永遠に続けばいいと思う。でも、朝が来る。土曜の朝はお別れ。でも、余韻の中に一日ひたっている。」
修司  ふーん。でも、そんなの、別によくある話じゃない? 週末にしか会えないカップルは、他にもいるだろ?
奈々恵 これだけじゃないのよ。ええっとね‥‥あ、これ、これ。
「後ろめたいとかは思わない。だって、彼とは私の方がずっと長いつきあい。でも『妻』という言葉には、少しひるんでしまう。たかが言葉なのに。たかが一枚の紙切れの上に書かれた言葉なのに。その紙切れが、まとわりついて、妙に重たく思える時があるのだ。彼を信じてない訳じゃないけれど。ビリビリと破ってしまえたら、軽くなれるのにって、思うときがある。絶対嫉妬じゃない。でも、ただ、軽くなりたい。」
修司  なるほどねぇ‥‥。でも、不倫してるやつも多いんじゃない? 考えすぎだよ。
奈々恵 でも「彼とは私の方が長いつきあい」って書いてあるじゃない?
修司  そういうのも、他にもいるだろ?
奈々恵 まだまだあるのよ。ええっとね‥‥。
修司  もう、いいよ。こっちこいよ。
奈々恵 でも‥‥。
修司  気のせいだよ。‥‥気にしたら、何でもそう思えてくるの。ほら、幽霊の正体見たり枯れ尾花って。‥‥ほら、もう消して、こっちこいよ。
奈々恵 ‥‥うん。

    奈々恵、コンピュータを切って、ベッドに入る。

修司  (奈々恵の頭をなでて)何、ナーバスになってんだよ?
奈々恵 ‥‥‥。
修司  「妻」って言葉は、重たいか?
奈々恵 別に‥‥そういうわけじゃないけど。
修司  今さら言ってもしょうがないじゃん。
奈々恵 ‥‥そうだけど。
修司  さっきのやつにも書いてあったじゃん。ただの紙切れだよ。
奈々恵 ‥‥うん。
修司  もう、どうしたんだよ? うん?
奈々恵 なんかねぇ‥‥。
修司  なんか?
奈々恵 ううん、なんでもない。
修司  何だよ? 途中でやめんなよ。気になるじゃない。
奈々恵 もう、いいの。
修司  思ってることがあるんなら、言えよ。うん? 何?
奈々恵 なんかねぇ‥‥。
修司  うん。
奈々恵 ‥‥ちょっと、こわいの。
修司  こわいって‥‥さっきの、らくがき帳か?
奈々恵 ううん。じゃなくって‥‥。
修司  じゃなくって、何?
奈々恵 ‥‥修司がどこか行っちゃうんじゃないかって。
修司  え‥‥俺がか?
奈々恵 ‥‥うん。
修司  ここにいるじゃないか?
奈々恵 ‥‥そうだけど。
修司  何言ってんだよ。大丈夫だよ。ずっと奈々恵のそばにいるよ。
奈々恵 ‥‥ほんとぅ?
修司  ほんと。
奈々恵 ‥‥‥。
修司  ばっかだなあ。何おびえてんの?

    修司、奈々恵を抱きしめて、キスをする。
    しばらく抱き合う二人。

修司  ‥‥安心した?
奈々恵 うん、ちょっと。
修司  なんだ? ちょっとか?
奈々恵 ううん。
修司  ‥‥ほんと、女ってのは、いつまでたっても、安心できないんだな。
奈々恵 ‥‥‥。
修司  何年だっけ?
奈々恵 え?
修司  俺たち‥‥つきあって。
奈々恵 私が入社した年だから、八年。
修司  ‥‥だろ? 裕子とは、まだ五年にもならないぜ。
奈々恵 うん。
修司  その間、ずっとそばにいたろ? 結婚しても、ずっと。
奈々恵 うん。
修司  それでも、心配か?
奈々恵 ‥‥じゃないけど。
修司  ‥‥じゃないけど‥‥か。

    修司、タバコに火をつける。
    携帯電話が鳴る。
    修司ベッドから下りて、電話を取る。

修司  はい。‥‥ああ‥‥それで? ‥‥そんなことで、いちいち電話すんなよ。自分で判断しろ! 何年営業やってんだ? ‥‥ああ‥‥うん、うん‥‥わかった。プレゼンの準備の方は大丈夫だろな‥‥ああ‥‥ああ‥‥わかった。はい、ごくろうさん。

    電話を切る。

修司  ‥‥ったく、そのくらい自分でやれよな。
奈々恵 ‥‥‥。

    修司、ベッドに戻ってくる。

修司  ほら、山西の営業二課に高橋っていたろ? あいつだよ。‥‥金曜の夜は電話すんなって言ってんのに。
奈々恵 元気にしてるの?
修司  相変わらずだよ。去年の春に結婚してさ、それからブクブク太っちゃったけどね。ほら、幸せ太りってやつ? だいたい緊張感が足りないんだよな、あいつ。
奈々恵 今、何してんの?
修司  一応、営業課長。もうちょっと切れるやつがいたらいいんだけどね。‥‥山西にいない? うちに来たいやつ。
奈々恵 あんまり引き抜いたら、岡田専務ににらまれるわよ。
修司  平気、平気。俺、これでも専務にはいい婿で通ってるから。
奈々恵 奥さん、あれだけ放っておいて?
修司  時々親父にグチも言ってるみたいだけどね。あのおっさん、仕事人間だから「女が男の仕事を理解しなくてどうするんだ」って、逆にガツーンとやられてるみたいよ。
奈々恵 ‥‥かわいそう。
修司  誰が? 裕子がか?
奈々恵 うん。
修司  ‥‥じゃ、家庭の方を大事にしろってか?
奈々恵 そういう意味じゃなくって‥‥。
修司  それじゃあ、愛妻家になろうかなぁ。
奈々恵 うーん‥‥いじわる。
修司  ハハハ‥‥。のど渇いたな。ビールでも飲もうか? 飲む?
奈々恵 うん。
修司  じゃ、取ってくる。

    修司、ベッドから下りて部屋を出る。
    奈々恵、コンピュータを見ている。

    暗転。


    オフィスの一室。
    女(江藤さやか)が、コンピュータに向かって仕事をしている。
    そこへ、スーツを着た男(豊島隆)がやって来る。

隆   おっはよー。
さやか おはよう。
隆   元気?
さやか 不元気。
隆   え、どうしたの?
さやか きのうのゼミコンでさぁ。ねむくって。
隆   何時に帰ったの?
さやか 四時前かな?
隆   どこで?
さやか 高田馬場から新宿経由で渋谷。
隆   そんなに回ったの? 途中で適当に逃げればいいのに。
さやか そうもいかなかったのよ。教授が行こうって言うから。
隆   え、教授も一緒だったの? 最後まで?
さやか うん。最後は沈没しちゃってさ、結局、先輩が送って行ったの。
隆   その教授、いくつ?
さやか もう、六十に近いんじゃない?
隆   ばっかだねぇ、無理しちゃって。
さやか 若いつもりなのよ。本人は。
隆   お前も休めばいいのに。
さやか そうもいかないのよ、明日の書類がまだだから。
隆   そんなの、バイトだからいいじゃん。
さやか 社長に頼まれてるのよ。
隆   またかよ。‥‥ひょっとして、お前、社長に気に入られてんじゃないか?
さやか そんなんじゃないわよ。頼みやすいからでしょ? ほら、佐々木さんとか、けっこうきついから。
隆   なるほどね。‥‥でも、ちょっと気をつけた方がいいぜ。
さやか 何を?
隆   あの人、女癖悪いらしいから。
さやか 社長?
隆   うん。
さやか そうなの?
隆   マンションに女連れ込んでるってうわさだぜ。
さやか ほんとぅ?
隆   それも、一人じゃなくて、いろいろいるんだって。
さやか 何が?
隆   愛人にきまってるだろ。家にもめったに帰らないらしいよ。
さやか 奥さんは平気なの?
隆   知らないんじゃないかな? 仕事のためにマンション買ったってことになってるらしいし。
さやか ふーん。そうなの。‥‥そんな話、誰に聞いたの?
隆   山西商事じゃ、有名な話だぜ。女殺しの橘修司って。
さやか でも、社長の奥さんって、山西商事の専務の娘なんでしょ?
隆   ああ、社長が山西にいた時に、結婚したって。
さやか じゃあ、政略結婚?
隆   そういうことになるかな。あの人だったらやりそうだよ。
さやか ‥‥隆、社長、嫌いなの?
隆   ‥‥そりゃ、仕事じゃ尊敬してるよ。あの歳で、この会社作ったんだから。
さやか 人間的には尊敬できない?
隆   尊敬できないとか、そういうんじゃなくって‥‥まあ、典型的な野心家だからね。俺とはタイプが違うな。
さやか ふーん。‥‥奥さん、平気なのかな?
隆   だから、知らないんだよ、きっと。
さやか じゃなくってさ、見え見えの政略結婚なわけでしょ? 家にも寄りつかないんじゃ。‥‥それに、父親の専務だって知ってるんだったら‥‥。
隆   それがさ、山西の中じゃ、その岡田専務だけにはトップ・シークレットらしいよ。だから、かやの外なんだよ。
さやか でも、うわさぐらい伝わるでしょ? そんなに有名なんだったら。
隆   伝わっても、気にしないんじゃないかな。岡田専務、うちの社長がお気に入りだから。‥‥山西の仕事、ほとんど岡田専務ルートなんだぜ。
さやか そうなんだ。
隆   とにかく、用心するにこしたことはないから。
さやか 何が?
隆   だから‥‥

    修司がやって来る。

修司  おはよう。
隆・さやか おはようございます。
修司  朝から密談かい? 仲がいいんだねぇ。
隆   いや、そんなんじゃないっすよ。
修司  ごまかすところが、あやしいぞ、っと。
隆   ほんとに、そんなんじゃないですよ。ねぇ(さやかに相づちを求める)。
さやか ‥‥‥。
修司  豊島、見積もりの方はできてるか?
隆   はい、できてます。
修司  じゃあ、そうだな、課長の決裁をもらっておいてくれ。
隆   はい。
修司  江藤さん、明日の書類は?
さやか あと、ちょっとです。
修司  できたら、俺んとこ持ってきて。
さやか はい。
修司  じゃ、二人とも、がんばって。

    修司、去る。

隆   ‥‥何、がんばれってんだろな?
さやか 仕事でしょ。
隆   それだけかな?
さやか じゃ、何よ?
隆   ‥‥社長、気づいてんじゃないか? 俺たちのこと。
さやか 考え過ぎよ。
隆   そうかな。
さやか そうよ。‥‥それに、別にいいじゃない。気づいてたとしても。
隆   ‥‥そうだけど。
さやか もっと自信持ちなさいよ。男でしょ?
隆   何に?
さやか いろいろ‥‥ぜーんぶ。
隆   何だよ。俺、そんなに頼りないか?
さやか 頼りない。
隆   あ‥‥はっきり言うな、こいつ。
さやか へへ‥‥。
隆   ‥‥それにしても、お前の書類は、いつも社長室直行だな。やっぱり、気をつけた方がいいぞ。
さやか そういうところがだめなのよ。
隆   何?
さやか もっと自信を持ちなさい。‥‥何なら、社長にモーションでもかけましょうか?
隆   何言ってんだよ。性格悪いぞ。
さやか 生まれつきでーす。‥‥さ、書類仕上げないと。女殺しの橘修司がお待ちかねだ。
隆   こいつぅ。
さやか さ、あんたも油売ってないで、仕事、仕事。
隆   くそ、おぼえてろよ。
さやか 忘れました。

    隆、去る。
    さやか、キーボードを打ち始める。

    暗転。


    喫茶店。
    女(橘裕子)と男(梅川正彦)が向き合ってすわっている。
    裕子がファイルの書類に目を通している。

裕子  この、江藤って子が、新しく分かった子ですね。
正彦  そうです。
裕子  (ファイルを読む)江藤さやか、二十一歳、日本女子大学文学部三年、独身。‥‥アルバイトなのね。
正彦  そうです。四月から入っています。
裕子  週に何日ぐらい?
正彦  ちょっとお待ち下さい。(と、自分のファイルを開ける)えっとですね‥‥だいたい週に四日ですね。
裕子  四日‥‥。学生なんでしょ? 学校には行ってないんですか?
正彦  (ファイルを見ながら)‥‥三回生で、週に四コマあるだけです。それも、火曜と水曜の二日間にまとめていますね。残りの日は、フルタイムでバイトに入っています。
裕子  そうなの。
正彦  ええ。
裕子  サークルとかはやってないんですか?
正彦  (ファイルを見る)‥‥二回生までは、テニスサークルに入っていたようですが、現在はやめていますね。
裕子  住所は所沢になっていますけど、一人暮らし?
正彦  いいえ、自宅です。
裕子  じゃ、親と一緒?
正彦  そうです。
裕子  両親は知らないのかしら?
正彦  最近は、どこの親でも、娘の行動なんて知りませんよ。
裕子  でも‥‥仕事の終わった後でつきあっているんだったら、夜遅く帰ったり、朝帰りなんかもするんじゃないんですか?
正彦  そうですが‥‥でも、たとえばゼミのコンパだと言えば、それ以上は追及しないでしょう。
裕子  そんなもんですかね。‥‥私の時は、朝帰りなんかできなかったですよ。
正彦  それは、奥さんの御両親がしっかりなさっていたんですよ。‥‥奥さんのお友達とかでは、そういう方もいらっしゃったんじゃないですか?
裕子  ‥‥そう言われれば、そうね。
正彦  でしょう?
裕子  ‥‥でも、そういう子だったら、いろいろとボーイフレンドとかもいるんじゃないんですか? 橘だけってことはないでしょう?
正彦  おっしゃる通りです。他にも男がいるようです。
裕子  同級生?
正彦  女子大ですよ。
裕子  ああ、そうよね。‥‥じゃあ?
正彦  全てを把握しているわけではありませんが、「タチバナ・コーポレーション」の営業部の男性と関係があるようですね。‥‥(ファイルを見る)ええっとですね‥‥豊島隆、二十四歳、独身です。
裕子  え、それじゃ、灯台もと暗しじゃないの。
正彦  はい、そういうことになりますね。
裕子  橘は知ってるのかしら?
正彦  それははっきりしません。今後調査してみます。
裕子  お願いしますわ。
正彦  はい。

    正彦、ノートを出してメモをとる。
    裕子、コーヒーを飲みながら、ファイルを見ている。

裕子  ‥‥山岡奈々恵、二十八歳、山西商事営業部勤務、独身。小倉咲子、二十五歳、森の岡小学校教諭、独身。江藤さやか、二十一歳、日本女子大学文学部三年、独身。‥‥この三人ですね?
正彦  はい。
裕子  そう。‥‥これ以外は?
正彦  今のところありません。
裕子  間違いないんでしょうね。
正彦  間違いはありません。少なくとも、この半年で、関係が確認できたのは、この三名だけです。
裕子  それで‥‥その、何て言うのかしら、この中に、いわゆる本命とかはいるんですか?
正彦  その点なんですが‥‥率直に申し上げて、よく分からないのです。交際の度合いなどから見ると、この三人に大きな差は見られません。と言うより、まるで計ったように、ほぼ週に一回ずつ会っているんです。もちろん、交際期間の長さには差がありますが。
裕子  一番長いのが、この山岡って女ね。
正彦  そうです。彼女が山西商事に入社した年からですから、ご主人の独身時代からの交際ということになりますね。
裕子  それじゃ、これが本命ではないんですか?
正彦  必ずしもそうは言えないでしょう。つき合いが長いということは、それだけマンネリになってしまう部分もあるわけですから。
裕子  マンネリねぇ‥‥。何か、そうおっしゃる根拠でもあるんですか?
正彦  はあ、まあ、ないことはないんですが‥‥。
裕子  何なんですか?
正彦  あまり露骨なことを申しますと‥‥御気分を害されるかもしれませんが‥‥。
裕子  いいわ。何でも言って下さい。
正彦  そうですか。それでは申しますが‥‥肉体的関係、つまりセックスの回数が一番少ないんです。
裕子  え、そんなことまで分かるんですか?
正彦  まあ、具体的には申し上げられませんが、様々な手段で調査しておりますので‥‥。その結果、そのように判断しているわけです。
裕子  ‥‥そうですか、それじゃ、つきあいが長い分だけ、逆に飽きが来ているとも言えるわけですね。
正彦  その可能性は十分ありますね。
裕子  ‥‥なるほどねえ。

    裕子、コーヒーを飲む。

裕子  ‥‥ああ、そうだわ。
正彦  はい?
裕子  先月お願いしていた件は、どうなりました?
正彦  はぁ? ‥‥ああ、小倉咲子の件ですか。
裕子  分かりました?
正彦  それが、調査することはしてみたんですが‥‥。
裕子  分からないの?
正彦  どうも接点が出てこないんですよ。小学校教師と会社経営者では、余りに世界が違いますからねえ。
裕子  ‥‥‥。
正彦  いや、経歴は、しっかりつかんでるんですよ。‥‥ちょっとお待ち下さい。(カバンからファイルを出す)ええっとですね‥‥そうそう‥‥富山県出身で、上越教育大学を卒業しております。教員採用試験は地元は受験せず、東京都だけを受験しています。都会志向と言うんですか、派手好きなところがありまして、服装や装飾品の好みも、ブランド指向でして‥‥少なくとも模範的な教師とは言えないようですね。‥‥それから、東京に出てからも、過去に男性関係がありますね。
裕子  ‥‥それで?
正彦  ‥‥ですから、今のところは、これだけです。
裕子  それじゃ、どういう知り合いなのか、まだ分からないんですね。
正彦  申し訳ありません。今後共、調査を続けてみます。
裕子  お願いしますわ。
正彦  はい。
裕子  ‥‥‥。

    間。

正彦  ‥‥調査結果は以上ですが、今後、どうなさいます? そろそろ訴訟の手続きに移られますか? 弁護士の手配なども、考えておきませんと‥‥。
裕子  裁判はしません。
正彦  え? ‥‥とおっしゃいますと?
裕子  だから、離婚の裁判はしません。
正彦  しかし、これだけ証拠がそろっていれば、勝訴は確実ですよ。相当な慰謝料も取れますよ。
裕子  だから、裁判はしないんです。
正彦  ‥‥はあ。
裕子  私が欲しいのはお金なんかじゃないんです。
正彦  ‥‥‥。
裕子  たとえ橘を破産させても、私には意味がないんです。
正彦  はあ‥‥。
裕子  こんなことを言うと笑われるかもしれませんが‥‥。
正彦  何でも、おっしゃってください。
裕子  つまり、何というか、私の青春を返してほしいんです。
正彦  ‥‥‥。
裕子  そんなことが無理なのは分かっています。分かっているから、だから、私が失ったのと同じだけ、いや、それ以上のものを失わせたいんです。
正彦  ‥‥まさか。
裕子  心配なさらないで下さい。あの人を殺してくれなんて言いませんよ。
正彦  はあ‥‥。
裕子  でもね、憎んでも憎みきれない、って言葉があるでしょう? 何だか、分かるような気がするんです。
正彦  ‥‥‥。
裕子  だから、どうか、私に力を貸して下さいね。
正彦  はあ‥‥。

    裕子、正彦の手を握る。

裕子  梅川さん。あなただけが頼りなんです。
正彦  はあ‥‥。

    暗転。


    とあるラブホテルの一室。
    咲子と修司がベッドに座ってタバコを吸っている。

咲子  あたしさぁ‥‥。
修司  うん?
咲子  やめちゃおうかなあ‥‥って思うんだよね。
修司  何を。
咲子  仕事。
修司  教師か?
咲子  うん。
修司  どうして?
咲子  どうしてってこともないんだけどさあ‥‥。
修司  ‥‥‥。
咲子  あきちゃったのかな‥‥。
修司  ‥‥‥。
咲子  ガキ相手にすんのも、けっこう、疲れるしぃ‥‥。
修司  そんなトシでもないだろ?
咲子  カタイのよねぇ‥‥なんだ、かんだ言ってもさぁ‥‥。
修司  ふーん。
咲子  あたし、そんな優等生じゃないじゃん?
修司  そうか?
咲子  いい子ぶるってのか‥‥なんか、笑っちゃうのよねぇ。
修司  何が?
咲子  家庭訪問とか行ってさ、いっぱし説教みたいなのをするわけよ。‥‥年上の親とかにさ。‥‥ちょっと甘やかしすぎじゃないですか‥‥とか。‥‥それをさ、神妙な顔で聞くわけじゃん、親がさ。‥‥どこまで本気で聞いてんのかかわかんないけどね。‥‥それでも、笑っちゃうじゃない?
修司  ‥‥‥。
咲子  他人のガキなんか、どうでもいいわけよ。ほんと言っちゃえばさ。‥‥‥それでも、一応、言うわけよ。‥‥仕事だから。
修司  ふーん。
咲子  こないだも家庭訪問行ったんだけどね。そこで、トイレ借りたのよ。‥‥‥で、笑っちゃった。
修司  え、何が?
咲子  鏡見て、化粧なおそうかって思ってたら、教師の顔した女がいるのよ。
修司  え?
咲子  いっぱしの教師面してんのよねぇ。あたしなんかが‥‥。それで、もう最悪って感じがしたの。
修司  そりゃ、教師なんだから、しょうがないじゃない?
咲子  いやよ。このまま、顔だけじゃなくってさ、身も心も、人間全部が教師になっていくんだって思ったらさ‥‥。たった一度の人生なのにさ。
修司  ‥‥考えすぎだよ。
咲子  違うのよ。そういうのって、染みついていくのよ。
修司  ‥‥‥。
咲子  うまく使い分けてたつもりだったんだけどなあ‥‥。ビジネスの顔とプライベートの顔と‥‥。
修司  ふーん。
咲子  ねぇ、臭わない?
修司  え、何が?
咲子  教師の臭いよ。
修司  臭わないよ。
咲子  臭うのよ。チョークの臭い、教科書の臭い、子供の臭い‥‥ああ、やだ、やだ、やだ!

    咲子、ベッドの上でバタつく。

修司  ‥‥‥。
咲子  ‥‥あーあ、やめたいなぁ‥‥。やめたい。
修司  やめて‥‥どうするんだよ。
咲子  ‥‥光太郎とこで働くの。
修司  え?
咲子  ねぇ、ダメ?
修司  ‥‥‥。
咲子  あたし、絵の勉強するからさぁ‥‥バイヤーとか何でもするからさぁ‥‥。
修司  ‥‥‥。
咲子  ダメ?
修司  ‥‥それ、本気で言ってるの?
咲子  (起き上がって)あたしね、前から画廊の仕事って、やってみたかったのよ。思いつきじゃないのよ。
修司  ‥‥‥。
咲子  あたしが、画廊の方をやってさ、そしたら、光太郎、もっと絵の方に打ち込めるじゃん。‥‥ね、いいアイデアでしょ?
修司  ‥‥悪いけど、うち、そんな余裕ないんだ。
咲子  給料なんか、ちょっとでいいからさぁ‥‥。
修司  あのね、さっちゃん。
咲子  え?
修司  たしか、相互不干渉‥‥だったよね。
咲子  ‥‥‥。
修司  それは、約束違反だよ。
咲子  ‥‥‥。
修司  ‥‥今までの二人でいようよ。
咲子  ‥‥‥。

    長い沈黙。

咲子  ‥‥あのさ、
修司  うん?
咲子  ‥‥結婚って‥‥大大約束違反だよね。
修司  え?
咲子  あっ! びっくりしてる!
修司  え?
咲子  ひっかかったな。光太郎!
修司  え?
咲子  さてと、今日も落書きするか。
修司  ‥‥‥。

    咲子、ベッドから下りて、コンピュータに向かう。
    キーボードの音。
    暗転。


    とあるラブホテルの一室。
    奈々恵がパソコンの画面を眺めている。

奈々恵の声  女の長い旅は、いつ終わるともなく続いていた。どこから来たのだろうか。どこへ行くのだろうか。知っていたはずのことが、行くはずの場所が、望んでいたはずの夢が、全てが分からなくなりはじめていた。途方にくれた女の前に、平らな大地が果てしなく続いていた。そこは砂漠らしかった。あるいは、枯れ果てたサバンナのようでもあった。太陽が照りつけ、女は乾いていた。水たまりがあった。そこには褐色に濁ったわずかばかりの水があった。女はその水を眺めていた。泥にまみれ、ボウフラのわいた、その水を口にすれば、あと三日は生きられるだろう。だが、ひょっとしたら明日終わるかもしれない旅の後で、その水のせいで死んでしまうかもしれない。女は、水たまりをじっと見つめていた。太陽はギラギラと照りつけ、刻一刻と水は乾いて減っていく。今、飲んで生きるのか。旅を終えて死ぬのか。女は見つめていた。そして、考えていた。いや、考えることをやめようとしていた。もう、どちらでもいいような気がしていた。水は、濁った水は、鈍く輝いていた。‥‥‥そう、もう、どちらでもいいのだ。

    修司が部屋に入ってくる。
    とっさに奈々恵は画面を切り替える。

修司  また見てたのか?
奈々恵 ‥‥‥。
修司  そんなにおもしろいか? それ。
奈々恵 ‥‥やっばり、誰か見てるのよ。
修司  ‥‥またかよ。
奈々恵 見てるわ。間違いないわ。
修司  何度言ったらわかるんだ。気のせいだよ。
奈々恵 ううん、違うわ。気のせいなんかじゃない。
修司  どうして?
奈々恵 だって‥‥これ、私の日記だもん。
修司  え? ‥‥どういうこと?
奈々恵 ていうか、私が書いたみたいなのよ。
修司  え? どこが?

    修司、コンピュータに近寄る。
    奈々恵、隠す。

奈々恵 いい。
修司  見せてみろよ。
奈々恵 いいから。
修司  見なきゃ、わかんないだろ。
奈々恵 見ても、わかんない。‥‥だいたい、人の日記なんか、見るもんじゃないでしょ!
修司  何、ムキになってんだよ。‥‥だって‥‥お前、見てるじゃん、人の日記。
奈々恵 そうだけど‥‥。でも、とにかく私の日記なのよ、これ。
修司  わけわかんないこと言うなよ。なんだよ、それ?
奈々恵 ‥‥‥。
修司  ‥‥‥。

    修司、ベッドに座って、タバコに火をつける。
    奈々恵、修司の肩にもたれつく。

修司  見るなって言ったり、しがみついたり‥‥変なやつだな。
奈々恵 ‥‥恐いの。
修司  何が? 日記か?
奈々恵 ‥‥うん。
修司  そこまで言うなら、調べてやるよ。‥‥隠しカメラか?盗聴マイクか?

    修司、立ち上がって調べだす。
    何も見つからない。

修司  ないぜ、何にも。‥‥どうしてもって言うんなら、一応フロントに電話して、文句言っとこうか? ‥‥でもなあ、誰がいったい何のためにそんなことするんだ?

    修司、考える。やがて、何か思いついたような顔つき。

奈々恵 ‥‥そんなんじゃない‥‥と思う。
修司  え?
奈々恵 確かに見てるのよ。‥‥でも、それは、私の心の中なの。
修司  え? どういう意味だよ?
奈々恵 ‥‥‥。修司、抱きしめて。お願い。
修司  ‥‥‥。

    修司、奈々恵を抱きしめる。

奈々恵 もっと強く。
修司  こうか?
奈々恵 もっと。

    黙って抱き合う二人。
    暗転。


    闇の中に響く女の声。
    それは裕子の声である。

裕子の声 たとえば今日の「さようなら」。少し乾いて響いたような気がした。彼の唇、彼の目、彼のしぐさ、彼の影、どんな小さなものにさえ、一つ一つにメッセージを読みとろうとする私。ちっぽけな私。馬鹿な女。笑い飛ばしてやりたいのに、その笑い声にさえ飛ばされてしまいそうで、後ろ姿にしがみついている私。それなのに、後ろ姿におびえている私。いつの間に、こんなに弱くなったのだろう。いつの間にこんなに小さくなったんだろう。「行かないで」そんな言葉は大嫌いなはずなのに、彼に会っている間中、口元でじっとこらえている。彼に会えない時間中、頭の中でつぶやき続けている。‥‥行かないで。まるで安っぽいメロドラマの中の安っぽいヒロイン。道端に転がっている石ころのような、ありふれたお涙ちょうだいの三文芝居。でも、もう、幕は上がってしまったのだ。たとえお客はいなくても、踊り続けるしかないのだ。クルクルと回り続けるコマのように。ただクルクルとクルクルと、力尽き、倒れるその日まで。

    コンピュータに向かう裕子。
    無心にキーボードをたたいている。
    チャイムの音。
    裕子、席を立ち、玄関に出る。
    ややあって、正彦と共に部屋に入ってくる。

裕子  もう、少しでできるから、待っていて下さいね。
正彦  はあ。
裕子  何か、お飲みになる? コーヒー? お紅茶?
正彦  じゃ、コーヒーを。
裕子  ちょっとお待ちになってね。

    裕子去る。
    正彦、椅子に座って手持ちぶさたにしているが、やがて、コンピュータのディスプレイをのぞき込む。
    裕子がコーヒーを持って、戻ってくる。
    正彦、あわてて椅子に座る。

裕子  あら、のぞき見はいけませんよ。
正彦  すみません。
裕子  お砂糖は、三つでしたわね?
正彦  はい。‥‥どうも。

    裕子、コーヒーを渡す。
    裕子、一人で笑う。

正彦  あの、何か?
裕子  いえ、お砂糖三つも入れて、甘くないかしらって。
正彦  そうですか? 入れないと苦くって‥‥。
裕子  ‥‥子供みたい。(笑う)
正彦  そうですか?
裕子  ごめんなさいね。‥‥でも、探偵をなさってるのに、お砂糖三つだから‥‥。
正彦  おかしいですか?
裕子  いえ、いいんですよ。でも、探偵って、シャーロック・ホームズとか、そういうイメージがあったから‥‥。
正彦  よく、そう言われます。
裕子  でしょう?
正彦  あんなにかっこよくありませんよ。

    正彦、コーヒーを飲む。
    裕子も、コーヒーを飲む。

裕子  雑誌とか持ってきましょうか?
正彦  いえ、お気遣いなく。‥‥どうぞ、続けて下さい。
裕子  そうですか。それじゃ、音楽でもかけましょうか?

    裕子、ラジカセをかける。
    静かなバロック音楽が流れる。
    裕子、コンピュータの前に座る。
    カタカタというキーボードの音。
    コーヒーを飲む正彦。

裕子  はい、できました。

    裕子、フロッピーを取り出し、正彦に渡す。

裕子  今日は水曜だから、小倉咲子ね。
正彦  そうですね。
裕子  これって、直接送れないの? いちいち面倒でしょ? ほら、インターネットとか‥‥。
正彦  詳しいことはよくわからないんですが、何か特殊な方法で侵入しているようですので。
裕子  そう。‥‥お宅で直接送っているのじゃないんですの?
正彦  あの‥‥ハッカーっていうのは、お聞きになったことがあるでしょう?
裕子  ええ、まあ。
正彦  その手のグループに委託して、プログラムに入り込んでいる形になっておりますので。
裕子  ‥‥下請けですか?
正彦  まあ、そういうことになりますね。
裕子  その人たちは、あの‥‥中身とかは見ているの?
正彦  実際の作業については、正直なところ、詳しいことはよくわかりません。ですが、秘密の保持は万全ですから、ご心配なく。この仕事は、わが梅川探偵事務所の責任で行っておりますから。
裕子  そうですか。

    裕子、コーヒーを飲む。

裕子  本当に見ているのかしら?
正彦  ですから、秘密の保持は‥‥
裕子  じゃなくって、その「らくがき帳」ですよ。
正彦  ああ、それですか。それは、見てると思いますよ。
裕子  思います‥‥ですか。
正彦  逐一、確認しているわけではありませんので‥‥。
裕子  私も見てみたいわ。
正彦  え?
裕子  その「らくがき帳」。
正彦  はあ‥‥。
裕子  その‥‥ハッカーの人にお願いして、見ることはできないのかしら?
正彦  それは‥‥。難しいでしょう。彼らにも、彼らなりのモラルみたいなものがあるらしくって、部外者には作業を見せたがらないんですよ。‥‥正直言って、私も見たことがありません。
裕子  ハッカーのモラルねえ(笑う)。
正彦  ええ(笑う)。
裕子  それは、残念ね。
正彦  ‥‥あの。
裕子  え?
正彦  どうしてもっておっしゃるのなら、簡単な方法がありますよ。
裕子  え、どうするんですの?
正彦  奥様がいらっしゃるんですよ。そのホテルに。
裕子  ああ‥‥そうだわね。そうよ。そうだわ。
正彦  ええ。
裕子  でも‥‥ああいうところは、一人では入れないんでしょう?
正彦  ‥‥そうですね。
裕子  誰と行けばいいのかしら? ‥‥まさか、橘と行くわけにもいかないでしょう?
正彦  ええ。
裕子  いえ、やっぱり、橘と行こうかしら? ‥‥どんな顔するかしら、あの人。
正彦  奥様‥‥それは‥‥。
裕子  冗談に決まってるでしょう?
正彦  はあ‥‥。
裕子  ‥‥相手が男なら、いいんですよね?
正彦  はあ‥‥そうですが‥‥。
裕子  そうよ。あなた、付き合って下さらない?
正彦  え?
裕子  そうよ、それがいいわ。一緒に行きましょう?
正彦  それは‥‥ご冗談でしょう?
裕子  いいえ、本気よ。
正彦  それは‥‥困ります。
裕子  いいじゃないですか。これも、お仕事よ。
正彦  勘弁して下さい。‥‥誰か、適当な者を手配しますから。
裕子  いいえ、梅川さんじゃなくっちゃダメ。
正彦  だから、それは‥‥。
裕子  それとも、私が相手じゃ、お嫌?
正彦  そういうわけでは‥‥。
裕子  じゃ、決まりね。
正彦  奥さん‥‥。

    コーヒーを飲む裕子。
    暗転。


    オフィスの一室。
    さやかがすわっている。
    隆が入ってくる。

隆   ごめん、ごめん、待たせちゃって。
さやか ‥‥もう、誰もいない?
隆   ああ、みんなでメシ食いに出かけたからさ。課長がさ、「何でお前は行かないんだ」って、しつこくってさ、ごまかすのに苦労したんだぜ。
さやか そう。ごめん。
隆   話だったら、サ店でいいじゃん?
さやか 近所の店じゃ、誰がいるかわかんないもん。
隆   じゃ、会社ひけてからでも‥‥。
さやか 早く話したかったの。
隆   そんなに急ぐ話なのか?
さやか 別に急ぐってこともないけど‥‥。
隆   おい、急ぐって言うから、無理して来たんだぜ。
さやか ‥‥‥。
隆   どっちなんだよ。はっきりしろよな。
さやか ‥‥‥。
隆   おい、どうしたんだよ?
さやか ‥‥できちゃったみたいなの。
隆   できたって、何が? ‥‥え! まさか!
さやか うん。(うなづく)
隆   ‥‥‥。
さやか ‥‥‥。
隆   ‥‥確かなのか?
さやか たぶん。
隆   たぶんって‥‥医者は行ってないのか?
さやか うん、まだ。‥‥でも、調べてみたから。
隆   ‥‥そうか。

    長い沈黙。

さやか ‥‥どうしよう?
隆   ‥‥‥。‥‥俺の子‥‥だよな?
さやか それ‥‥どういう意味?
隆   いや、別に。俺の子だろうなって‥‥。
さやか 何、そういう言い方するわけ?
隆   いや、だから‥‥。
さやか ひどい! あんまりだわ!(泣く)
隆   だから、そういう意味じゃなくってさ‥‥。
さやか そういう意味じゃなかったら‥‥どういう意味なのよ!(激しく泣く)
隆   だから、だから違うんだってば!

    さやか、ひたすら泣き続ける。

隆   ‥‥‥。

    さやか、泣き続ける。

隆   ‥‥ごめん。

    さやか、泣き続ける。

隆   ごめん。‥‥本当に、ごめん。
さやか ‥‥さやか‥‥ずっと、悩んでたのに‥‥どうしようかって‥‥ずっと、ずっと、悩んでたのに。‥‥今日だって‥‥隆に‥‥やっぱり打ち明けた方がいいって思って‥‥すっごく勇気出して‥‥それなのに‥‥隆‥‥そんな言い方するんだから‥‥。
隆   ごめん。ほんとに悪かった。
さやか ‥‥‥。
隆   ‥‥‥。
さやか ‥‥‥ほんとに悩んでたんだから‥‥‥さやか‥‥一人で‥‥‥。
隆   ‥‥ごめん。
さやか ‥‥‥。
隆   ‥‥それでさ、
さやか ‥‥‥。それで?
隆   それでさぁ‥‥言いにくいんだけどさぁ‥‥。
さやか ‥‥何?
隆   どうしたいって思ってるわけ?
さやか ‥‥‥。
隆   ‥‥‥。
さやか ‥‥‥。
隆   ‥‥だから、あの、
さやか わかんない。
隆   え?
さやか 産むのかどうかって聞いてるんでしょう?
隆   ‥‥う、うん。
さやか だから、わかんないの。‥‥それで、悩んでるの。
隆   ‥‥そう。‥‥そうなんだ。
さやか うん。
隆   ‥‥‥。
さやか ‥‥隆は?
隆   え。
さやか 隆は、どう思う?
隆   俺はさ、
さやか うん。
隆   俺は‥‥‥やっぱり俺もわかんない。ほら、あんまり急な話だからさ‥‥。
さやか ‥‥そう。
隆   困ったとか、別にそういうんじゃないんだよ‥‥。
さやか そういうんじゃなかったら、何?
隆   ほら、やっぱり、こういうことは慎重に考えないとさ。
さやか ‥‥‥。
隆   ‥‥俺一人で決めるわけにもいかないしさ。
さやか ‥‥そうだね。
隆   うん。‥‥時間かけて考えようよ。
さやか ‥‥うん。
隆   (時計を見て)もう、そろそろ誰か戻ってくるかもしれないからさ。
さやか ‥‥‥。
隆   じゃ、行くよ。‥‥続きは、会社ひけてからにしよう。‥‥今日は残業ないと思うから。
さやか ‥‥うん。

    隆、去りかけて、立ち止まる。

隆   あのさ、
さやか え?
隆   その‥‥俺が‥‥決めていいのかな?
さやか ‥‥‥。うん。(うなづく)
隆   それじゃ‥‥よく考えとくよ。じゃあ。(小さく手を振る)
さやか (小さく手を振る)

    隆、去る。
    暗転。

10

女の声  私を見ているもう一人の影。誰か分からないその影が、何も言わずに、じっと見つめている。それは、もしかすると私の中の私自身かもしれないし、別の誰かかもしれない。その影が、言葉にならない言葉で語りかけるのだ。さあ、始めなさい。もう時間はないのだ、と。何を始めろと言うのか。私は問いかける。影は何も答えない。だだじっと見つめている。そして、語りかける。私はここにいる。そして、見ているよ、と。私は、ただおびえている。何におびえ、何から逃げようとしているのかも分からずに。ただ、小さな子供が夕陽に映った自分の影におびえるように、ちぢこまって震えているばかりだ。風が吹き始めた。身を刺すような冷たい風が。その風と影が二人して、私の回りから、私以外の全てを連れ去ってしまう。私の大切な全てのものを連れ去ってしまう。待って、と私は叫ぶ。影は、ゆっくりと振り返り、笑っている。何か語りかけるが、風の音にかき消されて聞こえない。でも、私は、知っている。こう言うのだ。だから、言ったでしょう。さあ、始めなさい。もう時間はないのだと。


11

    とあるラブホテルの一室。
    さやかがパソコンを眺めている。
    そこへ修司がやって来る。

修司  まだ、見てるのか?

    修司、ベッドに寝ころぶ。

さやか ‥‥変なのよねぇ。
修司  何が?
さやか この頃、このらくがき帳、宗教チックになってきてんの。
修司  へぇ。
さやか 時々ね、予言みたいなことが書いてあんの。
修司  ふーん。
さやか たとえば、ほら、ここ、「見過ごしてはいけない。もう、目の前に、終わりの時は近づいているのだ」‥‥聖書か何かの文句かな。
修司  ‥‥かもな。
さやか いくつもいくつもあるんだよ。(マウスをいじる)ほら、またあった。
修司  新興宗教の勧誘だろ。
さやか ラブホテルで? これ、ここのホテルだけの「らくがき帳」なんでしょ?
修司  だろ。‥‥でも、ひょっとしたら、チェーン店なんかともつながってるかもな。
さやか それも、やっぱりラブホテルでしょう?
修司  そりゃ、そうだ。
さやか やっぱり変よ。
修司  世の中にはヒマなやつがいるから。‥‥ほら、アメリカなんかじゃセックス宗教なんかもあるらしいぜ。
さやか ふーん、そっか。
修司  だろ。
さやか でもねぇ‥‥やっぱり変なのよねぇ。
修司  もう、しつこいやつだな。今度は何だ?
さやか 誰か見てんじゃない? さやかと社長のこと。
修司  え。
さやか どうしたの?
修司  お前まで‥‥。
さやか ‥‥お前まで?
修司  いや‥‥な、なにが書いてあるんだ?
さやか 「お前まで」の「まで」って何ですか?
修司  いや、そのだな‥‥。
さやか 何ですか?
修司  だから‥‥。
さやか ごまかすところがあやしいぞ、っと。
修司  ‥‥‥。
さやか そっかぁ。社長、他の女の人ともこのホテル来てるんだあ‥‥。
修司  ‥‥‥。
さやか 別に隠さなくてもいいよ。さやか、心広いから。
修司  ‥‥‥。
さやか 社長、許してあげよう。
修司  ‥‥ほんとか?
さやか でもさ、せめてホテルぐらいは変えなくっちゃね。
修司  ‥‥はい。
さやか (笑う)かわいいね、社長。
修司  (つられて笑う)
さやか それで、何人?
修司  まあ、いいじゃないか。‥‥心広いんだろ?
さやか 広いけど、聞くぐらいいいじゃない? 十人?
修司  まさか。
さやか 五人?
修司  そんなにいないよ。
さやか 三人?
修司  まあ‥‥それぐらいかな。
さやか そっかあ、三人もいるのか。
修司  ‥‥‥。
さやか 三人も、自分たちが見られてるって思うってことは、不倫している女の心理というのは、それほど似ているということよねぇ。‥‥ふーん、なるほどねぇ。
修司  確かにな‥‥。それにしても、変なことに感心するんだな。
さやか いや、これは、大発見ですぞ。‥‥そうだ、「社長の秘密」新シリーズに書いておこう。

    さやか、コンピュータに向かう。

修司  おい、それだけはやめてくれよ。他のやつも見るんだから‥‥。
さやか ダメ。自業自得よ。
修司  ほんとに、頼むよ。何でもいうこときくからさぁ。
さやか ‥‥‥。それ、ほんと?
修司  ほんとに、ほんと。
さやか 何でも?
修司  何でも。
さやか じゃあ、言っちゃおうかなあ‥‥。
修司  何?
さやか もっと、とっておきの社長の秘密があるんだけどなぁ‥‥。
修司  何だよ? もったいぶるとドキドキするじゃないか。
さやか ドキドキしていいよ。
修司  何だよ。早く言えよ。
さやか じゃ、言うね。社長の秘密。社長はバイトの子を妊娠させたのだ!
修司  え。
さやか ‥‥‥。
修司  ‥‥もう‥‥一度、言ってごらん。
さやか ‥‥あたし、できちゃったの。
修司  冗談なら、やめてくれよ。
さやか ほんとなの。
修司  ほんとに俺の子か?
さやか それ‥‥どういう意味?
修司  どういう意味って、そういう意味だよ。
さやか 社長、そんなこと言うの? ひどい!
修司  念のために確認してるんだよ。お前だって、付き合ってる男ぐらいいるだろ?
さやか ‥‥社長‥‥さやかのこと、そんな風に見てたの?
修司  見てるも何も、営業部の豊島とつきあってるじゃないか。
さやか そんなこと、どうして分かるの?
修司  俺の目は節穴じゃないよ。社員の動きくらい把握しなくて社長なんかできるか。
さやか ‥‥‥。
修司  豊島の子じゃないのか?
さやか 違うもん。
修司  どうしてわかる?
さやか 彼とは‥‥彼とは、まだそういう関係じゃないもん。
修司  セックスしてないのか?
さやか うん。
修司  本当だな。
さやか 社長、いつもの社長と違う。まるで、警察みたい。どうしてそんなにいじわるなの? どうしてさやかを信じてくれないの‥‥。(泣く)
修司  泣くなよ。こういうことははっきりさせとかないと‥‥。

    さやか、泣き続ける。

修司  ‥‥‥。
さやか ‥‥どうやって言おうかって‥‥さやか‥‥ずっと悩んでたんだから‥‥。深刻に言ったら‥‥社長が困るって‥‥そう思ったから‥‥。さやか‥‥隆も好きだけど、社長も好きなのに‥‥だから‥‥冗談みたいに言ったら‥‥ちょっとは軽くいえるかなって‥‥いつもみたいに話せるかなって‥‥そう思ってたのに‥‥だのに‥‥。
修司  ‥‥‥。

    さやか、泣き続ける。
    それを見ながら、修司、かすかに笑う。
    修司、ティッシュを持ってきて、さやかの鼻をかむ。

修司  ほら、チーンして。‥‥もう泣かなくっていいから。
さやか だって‥‥でも‥‥。
修司  それは、俺の子だ。
さやか え?
修司  さやかのお腹にいるのは、確かに俺の子だ。
さやか ‥‥‥。
修司  ‥‥これで、いいんだろ?
さやか ‥‥‥。(うなづく)
修司  はい、それじゃ、機嫌直して。

    修司、さやかを抱き起こす。
    さやか、修司にすがりついて泣く。

修司  おいおい、どうしたんだよ?
さやか 社長、だーいすき!
修司  うれしいのに泣くやつがあるか。バカ。

    泣き続けるさやか。
    暗転。


12

女の声  旅人達よ、喜びの歌を歌いなさい。あなたたちの苦しみはもうすぐ終わるのだから。旅人達よ、哀しみの歌を歌いなさい。つかの間の夢がもうすぐ果てるのだから。空に浮かぶ雲に問いかけなさい。私の幸せはどこにあるのですか、と。風を駆ける鳥たちのさえずりに耳を澄ませなさい。災いはどこからやってくるのかと。ただ、待ち続けなさい。訪れるものを見ようとしてはいけません。ただ、待ち続け、受け入れるのです。あるいは、ただ立ち尽くし、いだき取られるのです。時が過ぎて行きます。時が近づいています。その足音だけきいていれば、自ずと終わりの時はやって来るでしょう。ただ、待ち続けなさい。ただ、立ち尽くしなさい。


13

    とあるラブホテルの一室。
    裕子と正彦がいる。
    音楽(ポップス)が流れている。
    物珍しそうに部屋を眺めている裕子。

裕子  けっこう普通なのね。
正彦  え?
裕子  もっとけばけばしいのかと思ってましたわ。
正彦  ああ‥‥。昔は、そういうのもありましたが、最近は、こういうシティホテル風なのが一般的ですね。
裕子  あら、お詳しいのね。
正彦  詳しいというほどでも‥‥。初めてですか?
裕子  え?
正彦  こういう所は?
裕子  え‥‥ええ、まあ。
正彦  ‥‥そうですか。
裕子  ‥‥‥。あの、音楽。
正彦  え?
裕子  変えられないのかしら?
正彦  ああ、できますよ

    正彦、オーディオをいじる。
    曲が変わるたびに裕子の顔色をうかがう。
    裕子、どうも納得しない様子。

正彦  ‥‥消しましょうか?
裕子  そうね。

    正彦、音楽を消す。
    裕子、コンピュータに近づく。

裕子  これが、その「らくがき帳」ですね。
正彦  ええ。

    裕子、コンピュータの前にすわる。
    使い方がよくわからない様子。
    正彦、裕子のそばに寄り、マウスをさわろうとする。
    手と手が触れ合う。

正彦  ここをですね、ダブルクリックして‥‥。
裕子  ‥‥‥。
正彦  この画面を、こうやってスクロールしていただくと‥‥。
裕子  わかりました。‥‥お詳しいのね。
正彦  ええ‥‥まあ。

    画面を眺めはじめる裕子。
    隣によりそって眺める正彦。
    裕子、少し落ち着かない様子。

裕子  あの‥‥。
正彦  はい?
裕子  やっばり、何か、かけてくださる?‥‥音楽。
正彦  あ、はい。

    正彦、オーディオをいじる。

正彦  ‥‥どのようなのがお好みで?
裕子  静かな曲にしてください。
正彦  はい。

    ピアノソナタが流れる。

正彦  こんなのはどうでしょう?
裕子  ああ、それにしてください。

    画面を眺める裕子。
    正彦、ベッドにすわって見ている。

裕子  ‥‥普通の日記みたいなのが多いんですね。‥‥それも、女の子の。
正彦  まあ、そういうのを書くのは、女性が大半ですから。
裕子  そうなんですか?
正彦  まあ‥‥そうでしょう。

    裕子、画面を眺め続ける。

裕子  あ‥‥ちゃんと入ってますね。
正彦  はい‥‥それは。

    裕子、画面を眺め続ける。
    正彦、ベッドにすわって、手持ちぶさたな様子。
    ピアノソナタが流れている。

裕子  でも‥‥。
正彦  はい?
裕子  どれが、だれが書いたのか、分からないですね。
正彦  はあ‥‥そうですね。

    裕子、画面を眺め続ける。

裕子  あの‥‥。
正彦  はい?
裕子  この「らくがき帳」は、ここのホテルだけじゃないんですか?
正彦  え? ‥‥そのはずですが。
裕子  じゃ、どういう人なのかしら?
正彦  ‥‥と、おっしゃいますと?
裕子  何ていうのかしら‥‥こういう場所らしくない、らくがき‥‥というのかしら?
正彦  どんなのです?
裕子  詩、というか、でも、ポエムみたいなのじゃなくって‥‥‥何だか、宗教的な感じの詩みたいなのが書いてあるの。
正彦  ‥‥‥。
裕子  それも、けっこう、あっちこっちにあるんですよ。
正彦  ‥‥まあ、いろんな人が来ますからね。こういう場所には。
裕子  ‥‥そうですね。

    裕子、画面を眺め続ける。

裕子  でも、これは、一人の人が書いてるのかしら?
正彦  ‥‥‥。
裕子  「さあ始めなさい」とか、「終わりの時」とか、なんだか、不思議なことがたくさん書いてありますよ。
正彦  え‥‥どんなのです?

    正彦、コンピュータの画面を一緒に眺める。

裕子  ほら、ここにも。

    二人、画面を眺める。
    裕子が画面の文字を読み出す。

裕子(途中から女の声が重なる)  女たちは待っていた。長い長い時間待ち続けていた。旅人が通りかかり、尋ねた。あなたたちは、誰を待っているのですかと。女たちは答えなかった。旅人はもう一度聞いた。あなたたちは何を待っているのですかと。やはり、女たちは何も答えず、ただ、かすかに笑ったように見えた。太陽が、強く照りつけた。旅人は、女たちに言った。水をもらえませんかと。すると、女の一人が答えた。ここには、もう水はないのです。あの丘のずっと向こうに行ってごらんなさい、と。あなたたちは、行かないのですかと、旅人は聞いた。すると女の一人は笑いながら答えた。私たちは待っているのですから、と。

    二人、画面を眺めている。

裕子  ‥‥これは、何なんでしょうね?
正彦  ‥‥何でしょうね?
裕子  ‥‥なんだか、気味が悪いわ。
正彦  ‥‥‥。

    ピアノソナタが流れている。

裕子  調べて下さらない?
正彦  え‥‥これをですか?
裕子  ええ‥‥。その‥‥ハッカーの人達なら、誰が書いたか分かるんじゃありませんの?
正彦  かも、しれませんね。
裕子  お願いしますわ。
正彦  でも、これを調べてどうするんです?
裕子  どうするかって‥‥。とにかく、気味が悪いでしょう?調べて下さい。お願いします。
正彦  はい、わかりました。

    ピアノソナタが流れている。
    画面を見続ける裕子。
    暗転。


14

    とあるラブホテルの二つの部屋。
    一つの部屋には咲子、もう一つの部屋には奈々恵。
    二人とも、コンピュータに向かって、キーボードをたたいている。

女の声  あなたは、醜いことを見続けてきた。だから、美しい夢を見なければならない。あなたは悪いことを聞き続けてきた。だから、だから美しい歌を聞かなければならない。あなたは私と話し続けてきた。だから、口を閉ざさなければならない。あなたは、わたしが誰かを尋ねてはいけない。わたしは、あなたが誰かを知ろうとしてはいけない。あなたはわたしかもしれないし、わたしはあなたかもしれない。でも、そんなことは、もう、どうでもいいことなのだ。やがて終わりの時が来る。そして、始まりの時が訪れるのだ。


15

    とあるラブホテルの一室。
    裕子と正彦がいる。
    音楽(ピアノソナタ)が流れている。
    裕子がコンピュータの画面を見ている。

裕子  また、増えているわ。‥‥ほら、ここにも。

    ぼんやりと遠くから画面を見る正彦。

正彦  ‥‥そうですね。

    裕子、画面を眺め続ける。

裕子  あ‥‥また。
正彦  ‥‥‥。
裕子  ‥‥結局、分からなかったんですか?
正彦  ‥‥ええ。
裕子  だって‥‥ハッカーって、専門家の人達なんでしょう?
正彦  そうですが‥‥。
裕子  じゃあ、どうして?
正彦  それが‥‥彼らの言うのには、全く何の痕跡もないって言うんですよ。
裕子  え? どういうことですの?
正彦  だから、いつ、誰が書いたのか、全く分からないんです。
裕子  でも、ここにあるじゃないですか。
正彦  それは‥‥そうなんですが‥‥。
裕子  じゃあ、コンピュータが勝手に書いたとでもおっしゃるの?
正彦  ‥‥‥。その可能性は否定できないと‥‥。
裕子  え‥‥冗談はよして下さいよ。SF映画じゃあるまいし‥‥。
正彦  でも‥‥彼らはそう言うんです。
裕子  ‥‥‥。

    気味が悪くなって、コンピュータから離れる裕子。

裕子  ‥‥‥。
正彦  ‥‥‥。

    携帯電話の音。
    裕子が電話を取り出す。

裕子  はい。もしもし‥‥はい、そうです。‥‥修司は、主人ですが‥‥‥はい‥‥‥はい‥‥‥え? どういうことですか? もう一度お願いします。‥‥‥はい‥‥‥。‥‥‥。

    正彦、裕子の異様な様子に気づいて声をかける。

正彦  どうしました? ‥‥奥さん?
裕子  ‥‥‥。‥‥はい、聞こえています。‥‥分かりました。すぐに参ります。‥‥‥はい、ありがとうございました。

    裕子、電話を切る。

正彦  何の電話だったんですか?
裕子  ‥‥‥。
正彦  ‥‥奥さん。
裕子  ‥‥橘が‥‥橘が、マンションの屋上から飛び降りたそうです。
正彦  え!
裕子  ‥‥女と、一緒だったそうです。
正彦  え‥‥誰と?
裕子  ‥‥‥。

    正彦の携帯電話が鳴る。

正彦  はい、梅川ですが‥‥ああ、君か。‥‥‥うん、今聞いて驚いてるんだ‥‥‥ああ、奥さんと一緒だ。‥‥それで、相手は誰なんだ? ‥‥‥え? それは、誰だ? ‥‥‥おい、どういうことだ? ‥‥‥うん、すぐに調べてくれ。すぐにだぞ!‥‥‥ああ、わかった。後で、また連絡する。

    正彦、電話を切る。

正彦  ‥‥そんな、馬鹿な。
裕子  ‥‥誰だったんですか?
正彦  それが‥‥。
裕子  女は、誰だったんですか?
正彦  山岸‥‥由里。
裕子  え?
正彦  山岸由里という女性だそうです。
裕子  ‥‥女は‥‥女は、三人じゃなかったんですか?
正彦  ええ‥‥そうです。
裕子  それじゃ‥‥その、山岸って女は、何なんですか?
正彦  ‥‥それが。
裕子  梅川さん!
正彦  ‥‥そんなはずはないんです。‥‥そんな女はいないんです!
裕子  だって、今の電話でそう言ったんでしょ?
正彦  ですが‥‥確かに、いないんです。
裕子  梅川さん!

    ピアノソナタが流れ続けている。
    暗転。


16

女の声  時は訪れた。それが、喜びの時であるのか、それとも、哀しみの時であるのか。もう、そんなことは、どうでもよくなっていた。ただ、あなたは、黙ってそれを受け入れることができる。ただ、あなたは、黙ってそれを受け入れることしかできない。風が止んだ。子供たちの歌う声が、少しずつ、少しずつ遠ざかって行く。平原の向こうに、牛飼いたちの角笛の音が聞こえる。一面の砂は、奇妙な砂紋を残して広がっていた。今まで見たことのないような奇妙な砂紋を。そして、あなたは、それをじっと見つめていた。時は訪れたのだ。ただ、あなたは、黙ってそれを受け入れることができる。ただ、あなたは、黙ってそれを受け入れることしかできない。


17

    葬儀の朝。
    喪服の人々。
    中央に裕子。その後ろに正彦。
    二人の隣に、さやかと隆。
    そして、少し離れて奈々恵。
    空は青く、日差しが強い。
    蝉の声。

裕子  ‥‥‥。

    裕子、空を見上げる。

裕子  ‥‥夏ですね。
正彦  え?
裕子  (少し笑って)‥‥夏です。
正彦  あ‥‥ええ。
裕子  ‥‥‥。

    蝉の声。

    喪服の人々の前を、白い日傘の女がゆっくりと通り過ぎる。それは、咲子である。

裕子  ‥‥小倉さん。
咲子  え?

    咲子が、裕子に振り向く。
    裕子、黙ったまま会釈をする。
    不思議そうに、会釈を返す咲子。
    そして、ゆっくりと通りすぎる。
    空を見上げる女たち。

    蝉の声が急に止む。
    静かなバロック音楽。
    日差しが一層強くなり、そして人々の影を残して、ゆっくりと消えて行く。
    溶暗。

                              おわり


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