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「子どもを愛せない」と泣いた、あの日のわたしへ

最近、子どもと過ごすなんでもない日常が、楽しくてしあわせで、とても満たされていると感じます。

子育てって、楽しいものなんだ。

人によっては、「そんなの当たり前じゃん!」と思われるかもしれません。

でも、わたしは昔から、子どもはニガテだし、自分はお母さんには向いてないと思っていました。だから、子どもは産みたくないと思っていました。



妊娠がわかったとき、子どもを産み、育てることが怖くてたまりませんでした。自分が母として、生まれてくる子どもの心に傷をつけず、健全に育てていける自信がなかったからです。

だましだまし、「きっと大丈夫、なんとかなるよ」と自分に言い聞かせて、妊娠期を過ごしました。でも、子どもが生まれた瞬間、わたしの中に湧き上がってきたのは喜びではなく、恐怖とパニックと孤独感でした。


助産師さんたちが「おめでとう」と言ってくる中、わたしは心の中で「ちょっと待って」と思っていました。「待って、お願い、待って。わたし、まだ準備できてないの。お母さんになる心の準備ができてないの。むりなの。お願い、ひとりにしないで...」

子どもを連れて家に戻ってから、本格的な子育てがはじまりました。「確かに、赤ちゃんってかわいいな」とは思いつつ、わたしは子育てに対しておっかなびっくりでした。

当時のわたしは、「自分の子ども」を育てているというよりは、「旦那さんの子どもを育てる仕事を任されている」という感覚が強かったのです。元旦那のことが怖かったのもあり、「彼の子ども」に粗相をしてはいけないと、戦々恐々だったように思います。


子どもが生まれたら、みんなが「おめでとう」と言ってくれる。でも、わたしは「ありがとう」と笑顔で言いながらも、心の中では「なんで妊娠したり、子どもが生まれたら、自動的に『おめでとう』一択なの?」と違和感を感じていました。

何度、泣きながら子どもの夜間授乳をしつつ、「子ども 愛せない どうすればいい?」「子ども 愛し方」と検索したか、わかりません。

それくらい、わたしは行き詰まっていました。
でも、わたしのところに来てくれた生命。
その生命に対して、わたしは責任がある。
その想いだけは、強く自分の中にもちつづけていました。


わたしがやっと、子どものことを「わたしの子ども」と本当の意味で認識できたのは、離婚を成立させて、シングルマザーとして2人で生きていくことを決意したときでした。そのとき、子どもは1歳になっていました。

「かわいい」「大好き」「愛おしい」という気持ちと、「産みたくなかった」「お母さんになりたくなかった」という矛盾した気持ちは、わたしを苦しめ続けました。


耐えられないほどの罪悪感。

母親としてだけではなく、女性として、人として、自分はどこかおかしいんじゃないんだろうか?
どこまで利己的で自分勝手な人間なんだろう?

「産みたくなかった」のなら、どんなに周囲の声が怖くても、産むべきじゃなかったのかもしれない。
それでも産んだのは、自己責任なんだから、今更わたしにどうこういう資格はない。

この気持ちを人に知られてしまったら、子どもをとりあげられてしまうかもしれない。母親失格だと言われて、世間から弾糾されてしまうかもしれない。

最悪の場合、元旦那がそのことを知って、子どもを奪いとりにくるかもしれない。でも、それは絶対に子どもを不幸にしてしまうとわかっていました。だから、子どもを(できる限りしあわせに)育てていくという大人の責任として、絶対に誰にも、この気持ちを知られてはいけない。子どもは、わたしが守らなければいけない。その重圧が、わたしの肩には重すぎるものだとしても。


そんな矛盾した気持ちや不安、恐怖を抱えながら、3年ほど、歯を食いしばりながら、子育てをしていました。しんどいことやつらいこと、大変なことの方が圧倒的に多くて、なんども「わたしはお母さんに向いてない」と絶望的な気持ちになりました。「こんなお母さんのところに生まれてきた、この子がかわいそうだ」と、何度もひとり涙をながしました。

そして、追い詰められたわたしは、とうとう育児ノイローゼから、うつになってしまったのです。


その当時のわたしからしたら、子どものことを矛盾なく「宇宙で一番大好き」「なによりも大切な宝物」「この子が生まれてきてくれてよかった」と思えることは、奇跡に近い変化だったのです。

また、子どもとの何気ない日常のなかで、いっぱい笑ったり、冗談を言いあったり、近所をお散歩したり、お風呂に一緒に入ったり、並んで歯磨きをする。

たったそれだけの、なんの変哲もない、普通の日常を、じんわりとした幸福感と喜びを感じながら過ごせることは、当時のわたしからしたら、想像することすらできないことでした。


どうして、たった1年足らずで、ここまで変われたのか?

それは、「産みたくなかった」「愛せない」「お母さんになりたくなかった」といった、絶対的タブーであるネガティヴな感情から目をそらすことなく、徹底的に向き合い続けたから。

そして、子育てに関して抱いていたネガティヴな想いや記憶をすべて、ひとつひとつ、地道に癒し続けたからです。

その中には、わたしの幼少期の母との記憶や経験、そして、元旦那との結婚生活でこころに深く刻まれてしまった、数々のトラウマも含まれていました。

そうやって、癒して、癒して、癒して。
手放して、自分を抱きしめて、たくさん泣いて、たくさん自分の気持ちを認めて。
そして、同じくらいたくさん、子どもとの関係について、学び続けて知識を増やし続けました。


子どもが生まれてからずっと「わたしの言動で、この子の心を傷つけてしまったらどうしよう?そのせいで、この子の人生がボロボロになってしまったらどうしよう?」と、怖くてたまりませんでした。

自分の幼少期が、そうだったからです。
そして、それ以外の子育てや子どもとの向き合い方を、わたしは知りませんでした。


でも、今はもう、怖くありません。

子どもとしっかりとした関係性を築けているという自信が、子どもの言動を見ることで、すこしずつ育ってきて。

間違えることもあります。
完璧じゃないこともあります。
むしろ、完璧じゃないことの方が多いのかもしれません。

それでも、「この子は大丈夫だ」と信頼することができています。安心して、見守ってあげることができるようになりました。

そして、子どもとの一瞬たちを、大切に抱きしめながら、しあわせに満たされながら、過ごすことができるようになりました。


なによりも、わたしの中にはもう、「お母さんになりたくなかった」「産みたくなかった」「この子を正しく愛せなかったらどうしよう?」という想いは、どこにもありません。


なによりも、誰よりも、大切な愛おしい存在。
生まれてきてくれて、ありがとう。
お母さんにしてくれて、ありがとう。
あなたのママになれて、わたしはしあわせだよ。心の底から。


痛みから目を逸らさず、過去から目を逸らさず、自分の中の弱さや醜さから目を逸らさず、向き合い続けてきたこと。

そして、「きっと変われる。変わるんだ。わたしの代で、この負の連鎖を断ち切るんだ」と信じつづけ、あきらめることなく、進みつづけてきて、本当によかった。

そう強く感じた日でした。


自分自身の過去やトラウマに向き合い、生きづらさを卒業したいと望む、すべての人へ向けて、心を込めて書きました。

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今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

愛を込めて
ねう

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