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化粧#14

 一週間ほどたって、YS-11という飛行機で突然帰ることになり、空港から直接、母が入院していた病院に行ったとき、母はそこにはいなかった。
 あいかわらずのんきそうにレモン色のカーテンが風にそよいでいた。ただ、荷物はどこにもなく、きちんと整頓されたベッドだけが前と違っていた。
 「退院したの?」と父に聞くと、父は何も答えず、わたしの手を引きタクシーを呼び、家に向かった。タクシーの中で父もわたしも何もしゃべらなかった。
 わたしは状況がよくわからなかったが、だからといって慌ててもおらず、不安や恐れもなかった。死というものを具体的なものとして看取(かんしゅ)するだけの経験もなく、何より家で母が待っているのに違いはないと思ったからだ。
 ──いま、おかあさんは、いない。けれど、うちにかえると、おかあさんは、いる。
 それはわたしにとって何よりも重要なことで、同時に安心できる確かな根拠だった。
 隣に座る父を見上げると、父は前を向いたまま、わたしの手を力強く握りしめた。ぎゅっと握りしめられて思わず「痛い」と言ったが、父はやはり前を向いたまま、握りしめた手を何度か上げ下げしただけだった。よほど「離して」と言おうと思ったが、そう言うと、父が泣いてしまうか怒ってしまいそうな気がしたからやめた。


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