sou_nakama

ソウナカマ 後ろから読んだら。

sou_nakama

ソウナカマ 後ろから読んだら。

最近の記事

時間の濃度

人間の時間には濃度がある。 濃密な時間と、それを薄めて使っているような時間と。 どちらも時間である。

    • ここ最近思うこと

      最近全くブログを書かなくなってしまった。 特に記述したいという欲望もないからだが、書いたとて何かが変化することもないので、書いていないのだった。 思うことその1 芸術祭というものはどこまでも人工と自然の二元論の中にある。 山という力と人間がそれを抑制し管理したいという欲望の二つが折り重なって、絶妙なハーモニーを奏でている。様々な観光目的の中で、芸術祭の客はいつも居心地の悪い場所で鑑賞するはめになっている、と思うのは私だけだろうか。女性率多し。男一人で行くようなものではない。

      • 森博嗣について

        森博嗣の小説を、最近読んでいる。 すべてがFになるから始まる、S&Mシリーズの7割ぐらいを読んだ。 そして代表作のスカイクロラを読んだ。ファンとしては片足をすこし突っ込んで、引こうかどうか迷っている段階だろう。 ミステリーの部分は正直言って理解しようがしまいがどちらでもよい感じで読んでいる。どうしても動機に偏ってみてしまうからか、整合性どうこうはどうでもよいのかもしれない。 どちらかといえばミステリーをホラーとして読んでしまう。人が殺されていく事件性を楽しんでいる。 ス

        • 病理と唯物論

          コロナに引き続いて、腰をやられてしまい、また、何もできなくなってしまった。 特に考えたことはないが、思うことはあった。 病気の間、私はもののようだ、と思った。 それは自他ともにそうだ。 自分の体がモノになる。これは体が思うようにいかない、気の利かない道具になる。意識体と体に距離が生まれる。今現在でもそうだ。腰の痛みや、その痛みの弊害でキーボードを打つことが苦痛だ。 他人ももはやモノのように私の体を扱い始める。意識が置いていかれている。面倒をかけているので、その言うことを聞

        時間の濃度

          アイドルのロボット化について

          昨日に引き続き、やはり、やることがない。 大学時代におこなっていたデッサンも飽きた。 yoasobiのIdolの動画を見ていた。 わたしはyoasobiがものすごく良いとも悪いとも思わない。厳密にいえば、嫌いではなく好きかといえばまぁまぁよいと思う。 ske48、ano等最近思うのはアイドルが初音ミク化しているということだ。つまりロボット化している。yoasobiの女性もアイドルでは無いのだろうが、彼女もロボットのように思えてくる。 なぜそう思うのか。 人々がロボットの

          アイドルのロボット化について

          戦争と蕩尽について

          一昨日ぐらいから、コロナウイルスに感染し、やることがない。 体温はだいたい正常値に戻ったのだが、体が少々だるい。私がこの時間やったことは、本を読むということ。 頭が回らないから、本を読むということも、あまりするべきでもないのだが、本当にそれ以外やることがないのだ。 私はこの蕩尽というキーワードをバタイユを直接読んで、考えたのではなかった。佐藤優と手嶋龍一の共著を読んでそれを考えていた。ウクライナ戦争の嘘 米露中北の打算・野望・本音 (中公新書ラクレ)だ。 この本のなかで

          戦争と蕩尽について

          普通を生きることについて

          前回は映画「怪物」については語ることが難しい事を書いた。が なんとかその感触を、言語や他で表現してみたい、という欲求が生じる。 色々考えているうちに、わたしはこの映画に近い感情を、以前もっていたことを思い出した。 「ふつうの絵本」という絵本を描いたことがあるのだ。 この絵本は普通が好きな女の子が、普通とは何かを考える、よくある光景を絵本にしたのだ。 小学生の女の子が「ふつうの絵本」という絵本を図書館で借り、それについて考える。それだけのストーリーだ。 この作中では彼

          普通を生きることについて

          「怪物」について

          この文章はネタバレします。 映画「怪物」を言葉にすることは相当に難しいに違いない。 この完璧な映画を、言葉という一断片を切り取る方法で、語ろうとする難しさは、映画を見ればわかる。 簡単な感想を言い合うのも難しいぐらいだ。 だが、少々の勇気を持って語るならば、 私達は憑依し合う存在なのだ、という事がこの映画から分かる。 この映画を見ていると、怪物が憑依していることがわかる。 まずは、靴を片足失う少年(後に両足とも失う)。 もう一つの靴を差し出し、自分も片足になる少年。 自

          「怪物」について

          洗脳の手法

          前回、私は洗脳が解けつつある、と書いた。 それはクリシュナムルティを使用した洗脳だが、ここには巧妙なものがある。 クリシュナムルティは1900年代に活躍した思想家だ。 主に最初は神智学から派生し、後に神智学とは関係の無い、むしろ神智学の反発的思想に転向する。 そこには徹底した懐疑がある。特にキリスト教や他宗教に対する懐疑、つまり脱宗教的なもの、唯物論(共産主義)に頼らない、新たな何かを模索するスタイルに切り替わる。 おそらくクリシュナムルティを追求する人は何かの思想

          洗脳の手法

          洗脳が解けつつあるということ

          10年ほど前、私は一人の哲学者を研究していた。 それはジドゥ・クリシュナムルティである。 その経緯は、大学の教師がその研究者であり、私は精神的にまいってしまっていた時期にその教授に出会う羽目になってしまった。 私はクリシュナムルティをひたすら読んだ。 そこで得たのは「思考の限界性」「現在だけに生きろ」「完璧に不満になれ」等、彼の名言に酔いしれ、そしてその源水、オカルティズムの本もいくつか読んで、真理というものを追求しようとしていた。 それから5年ほど経って、自分がその

          洗脳が解けつつあるということ

          なぜ最近の漫画は氏族交換から始めるのか

          柄谷行人の「世界史の構造」と「力と交換様式」を読んでいる。 この本が難解であるのは、マルクスの資本論の読み解きであるからだが、更に難解にしているのは、その引用元が更に難解であるからだ。 それでも私がこれを読むのは、「交換」について興味があるからだ。 柄谷がよく引用するラカンの「他者の欲望を欲望する」。 これもある種類の交換だろう。「こころ」の先生の友人が欲望したものを自分も欲望する。 お笑い芸人がよくやる食レポや広告もそう。 欲望することによって、相手に欲望を与える。

          なぜ最近の漫画は氏族交換から始めるのか

          言葉の奴隷

          言葉の奴隷がいるんだって。 「おまえか?」 「いや、おまえか?」 言葉の奴隷がいるんだって。 「おれのことか?」 いつからか? 途方もなく遠い昔から そうだ としたら 私たちは… 言葉の奴隷は 言葉を放ちながら 何かおかしいと 頭を悩ませ 言葉に頼るしかない もはや奴隷は 自分で自分を買う 気力さえ無く 奴隷のまま生きるために まるで無意味に 言葉を生産する。 ことば を こわせ その 一点の ために 生きろ 主人は あなた ひとり が 好ましい と、昔制作

          言葉の奴隷

          なぜ村上春樹を求めるのか

          街とその不確かな壁を読んだ。 70過ぎた小説家の、青春小説を、私は貪るように読んだ。 そのキモさはこの動画を見れば、一気に現実に戻される。 むちゃくちゃこれはこれで面白い。 https://www.youtube.com/watch?v=zWd5tqkSvEo&t=508s なぜ私は、未だに村上春樹の小説世界に入りたがるのだろうか。 考察してみる。 1.夢を語ることが自由である。 夢を語る、ということは現実ではなかなかできない。それはとりとめもなく、脈絡を必要としないス

          なぜ村上春樹を求めるのか

          ルシアンフロイトのHPをみつけた。 http://lucianfreud.com/index.html

          ルシアンフロイトのHPをみつけた。 http://lucianfreud.com/index.html

          日記2.9

          ブラチスラヴァ絵本展に行ってきた。 正直に言って、良い展覧会だった。 韓国のイラストレーターが良い環境でぐんぐん良いものを作っているのだろう。 そう感じる展覧会だった。 その韓国の力を私が影響を受けて感じるのは、3.11のことを絵本化するべきではないだろうか、ということ。 一つは、磯崎新を批判すること、にあるのかもしれない。 よく考える必要がある。 そうすると民衆からのアッパーカットになるのだろうか? その反逆から、どこにつながるのだろうか。 テクストだけを起こしてみて

          日記2.9

          日記2.5

          今日から適当に日記をつけてゆくことにした。 特にとりとめもない事を書いてゆく。 日記をとても内的なものとして考えて、溜め込むようにしていたが、なんだかそれが面倒な感じもあり、ならば公に一応出したほうが文章的にもだらだらとしないものになるのかも、と突然思った。 眼の前には本が適当に並んでいる。 大阪民衆の近世史 塚田孝 荘子 金谷治 <3.11>はどう語られたか 金井美恵子 西遊記 中野美代子 「科学的思考」のレッスン 戸田山和久 物理の歴史 朝永振一郎 言語都市 チャイナ

          日記2.5