なぜ最近の漫画は氏族交換から始めるのか

柄谷行人の「世界史の構造」と「力と交換様式」を読んでいる。

この本が難解であるのは、マルクスの資本論の読み解きであるからだが、更に難解にしているのは、その引用元が更に難解であるからだ。

それでも私がこれを読むのは、「交換」について興味があるからだ。

柄谷がよく引用するラカンの「他者の欲望を欲望する」。
これもある種類の交換だろう。「こころ」の先生の友人が欲望したものを自分も欲望する。
お笑い芸人がよくやる食レポや広告もそう。
欲望することによって、相手に欲望を与える。
その代わり、何に欲望しているのかさえわからない人間は欲望を得ることができるが、お笑い芸人になりきってそれを食べるしかない。
芸人は人気を得る。

等価交換、と聞いて一番始めに思い浮かべる物語は、鋼の錬金術師だろう。
その物語では無からは何も錬成されない。
弟の魂の代償に片腕を失った主人公と、弟は鎧の体になってしまう。
つまり交換によって、この世界は成り立っていることを、痛々しいまでにキャラクターで表現しているところから始まっている。

最近見つけた漫画、望郷太郎は氏族交換をテーマに物語が進んでゆく。
有名なポトラッチの交換の概念、相手に向けてより大きな価値のものを送ることによって、相手を追い込む風景もそこで描かれている。

ヴィンランド・サガでも最近では未開拓地域の先住民とのやりとりで交換を取り上げている。それよりも前に奴隷の自分を労働で買うところから、交換をとりあげていると言っていい。

この2作品だけでマルクス主義を到来する予感を語るのは微妙かもしれない。しかし、最近の斉藤幸平ブームもあることながら、やはり一度きちんとマルクスを読まねばならないのだろうか。

オウムから最近の安倍首相殺しに至るまで、宗教に対するアンチもマルクス主義を養護する流れとも重なるだろう。

様々な阿片がある。どの阿片を選ぶかは自分次第だが、どの阿片にも一長一短ある。だが多くの人が吸っている阿片を人は吸うのだ。

今日も隣を見れば羨ましいと思い、真似をし、また、つまらないと思う。

私もその一人であることを忘れたり、思い出したりしている。

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