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最近、気になる人 「利休」

 最近、専ら利休のことを調べています。何故かというと、茶の湯に対する確固たる概念が消えつつあるからです。もともとこの世界に入ったのも、茶の湯や茶人というものに憧れていたわけではなく、美味しいものを如何にして共有するか、という思いからでした。内弟子生活をすることで「茶道とはこのようなものだ」という規格化されたイメージを身につけることができましたが、既に茶の道から外れて7年。本来は活動の寄り辺となるはずの「べき論」がなくなりました。残ったものは、元々あった食を摂取する方法への興味だけでした。友人と美味しいものを食べて、無事、家まで帰れたら茶の湯です。

 意識しないのであれば、この状態が守破離の「離」かと問われたら、全く違いますと答えます。何故なら、私はいまだに茶の湯は下手であるし、道具もないし、手柄(功績)の一つも立てられていないわけでありますから、山上宗二の言う「佗数寄者」でもないわけです。ただ単に、外への興味よりも、内在するものの方が大きくなったのかと思います。それは、食への興味、家族への興味、稽古場への興味といった形です。私の人生に、もともと茶道なんてなかったのです。これ以上、新たに何かを欲するのではなく、今持っているもの、近くにいる人々のためにつとめたいと考えています。

 人は生きていく以上、自分の外側に「指針」や「目標」といったものを置いて、そこへ向かって進んでいくことで、達成感を得て、人生を満たしていきます。指針や目標が、自身の原動力や、存在理由となるわけです。
 しかし、守破離の「離」という状態は、個人的には、その指針や目標といったものを、自身の外に置くのではなく、内側に置くことだと思っています。守と破を何度も何度も繰り返して、「指針や目標」「物事の判別」などを意識せずに行えるようになったとき、はじめて「離」になるができるのだと。そして、それは恐らく自覚するものではなく、他人から認められて証明されるのでしょう。なぜなら、意識できないのであるから、自覚することは不可能であるからです。守と破を意識的に行うことで、それが結果、無意識の環境創造となります。自身が作り出した環境に、自身を動かしてもらうのです。ある種、悟りなどといった境地からは最も遠い意識かもしれません。
 通常、それらが無くなったら、普通の人は行動を起こすことができなくなり、きっと絶望を感じてしまうでしょう。しかし、守と破を繰り返すことによって、自身と一体化した状態であれば、すべての行動は無意識化されます。たったひとりの「無」。社会的には存在しないこととなるかもしれませんが、無意識に至ることではじめて「離」という状態が生まれるのではないでしょうか。

 経営者や社会活動家などといった「強い人たち」に会うと、それぞれ具体的な目標や目的を持っていることが多いと言えます。外見からは隠せないほどにオーラが漲っていて、近くにいるだけでパワーをもらえます。彼らの目標、目的の下には、多くの人が集まります。常に少数精鋭のチームと多くの知り合いを率いて、活動していくのです。
 ただ、離という状態になったときは、たったひとりになります。内在化することで、本人にも目標や目的を自覚できなくなるため、集う目印がなくなることになりますから、周りからは人は消え、ただひたすら自分の行いにつとめることが生業となります。それが生来苦しいと思う方は、決して離を目指さない方がよろしいかと思っています。社会的地位、金銭的価値、財産などを手放しても手放さなくても、どちらも同義であると認識もせず、ただ行いにつとめる。悟ってもいないし、教えを解くわけでもない。要は、一生懸命、食べて、寝て、生きる、それだけを行うことが離だと言えるのだと思っています。強さと、無意識はまさに対照的な関係と言えます。

 さて、私が最近利休を調べているのは、茶道への後ろ髪が引かれなくなった今になって、ますますこの方がよくわからなくなってきたからです。私は千家ではないし、親戚でもないのだから、彼を「お茶でのし上がった人」、という位置づけでしか見られません。しかし、一般的には茶道に触れた全員が、よく知りもしないうちから、彼を神として祀り上げ、一神教のように崇め奉るようになります。心のどこかで利休が純然たる権威を持つのです。しかし、所詮、彼は他人の家の祖先です。それ以上に大切にすべきは、己に内在するものたちです。
 そもそも、墨跡などを掛ける場合も、本来であれば自ら参禅した師の言葉を掛けるべきなのに、墨跡ならなんでも良かれと、知り合いでもなんでもない禅のお坊さんの軸を掛けるのも本末転倒。百貨店で売られているのも謎です。ただの茶人である利休であれば尚更と言えます。
 さらに様々な茶の書を読めば、利休の性格が非常に悪いことも見て取れるでしょう。「利休はすべて見透かしていたからそのようにした」、というロジックで見れば、人に対する厳しさを「教えのある良い話」として結ぶことができますが、普通に読めば、なんて傲慢で意地悪な人なのだろう、と思わずにはいられません。利休は浅ましいほどに茶の湯を利用したといっても過言ではないと思います。
 さらに、その話に尾ひれがつき、創作話が増えていくともう止まりません。江戸時代、利休亡きあと約100年ごとに、利休回帰のためにエピソード集が出版されました。『源流茶話』『茶窓閒話』だけでなく、『南方録』などは現在偽書とされていますが、経典の如く取り扱われていました。そのようにして、そのものではない「利久像」が、後世の人々によって、より大きく拡張され、多く利用されました。
 果たして利休は敬うべき人なのでしょうか。


 茶の道に関心がなくなった今、改めて、人としての利休に興味が湧いてきております。様々な利休に関連する書を読んでいるとより利休の謎は深まります。最近の個人的なテーマは、利休に佗び茶を教えたのは一体誰であるか、というこという点。師とされている北向道陳も辻玄哉も、書院、唐物の茶を利休に伝授している記録は残っているが、佗び茶ではない。では武野紹鴎だろうと思えば、実際には師事していないという説もあります。利休が、堺の魚問屋であり、納屋衆であり会合衆であり、つまりは堺の中では、中の上の大金持ち。「佗び」に転ずるきっかけとなる記録が意外と見つからず、また、当時は佗びではなく「物数寄」「冷え枯れる」といった言葉を用いていたりと、もしかしたら利休自身は、思想的に茶の湯を行なっていたのではなく、ひたすら自分に勤めていただけなのかもしれないと感ずるところです。
 
 私は、意識をしなくなったからこそ、意識なき目で利休を捉えようと思っています。基本的には信頼すべき「史料」をもってまとめておりますが、エピソードも多分に許容し、偽書であったとしても、「何を言いたいのか」という点に絞ってまとめております。若い利休がビクビクしながら津田宗及の父津田宗達に茶を点てた初期の茶会の記録などを見ると、初々しいなあ、と微笑ましく読んでおります。隣のクラスの気になる子、といった感じですかね。

 また、自身の外に、ひとつ目標を立てることで原動力にしたいと考えています。
 天才や病災によって、何度もゼロと一を繰り返していますが、このような時だからこそ、皆が崇める利休を、ひとりの人間として見つめます。

 

武井 宗道





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