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茶の湯の五感 存在について

茶の湯の五感 存在について

 この度、4月30日〜5月7日の7日間にかけて、「茶の湯の五感 存在」を開催する運びとなりました。
 今まで4回開催をしており、いよいよ5回目を迎えることで、主催者としても、ようやく「茶の湯の五感」に対してのイメージが固まってきました。ただ、その度に辿り着くテーマが容易に扱えるものではないため、ほぼ一年をかけて、常にどこか頭の片隅において、成立するのを待ちます。
 ただ、茶会というのは「ナマモノ」でありますので、亭主が一方的に完成を見る、ということは不可能なのです。開催し、客人を眼の前にして、初めてそれが熟し、醸され始める、といった形です。茶会の成立は、亭主と客人が出会うきっかけに過ぎないわけです。
 ひとまず、その「きっかけ」段階にまでは頭を整えることができたため、今回、開催する決心もつきました。
 皆様のご参加、鶴首してお待ち申し上げる次第です。

 ここに、今回のテーマ「存在」をして、何を茶会に内在させようとしているかを述べさせて頂きたいと思います。参加を迷われている方の参考になりましたら幸いです。

 長文となりますが、お付き合い頂けましたら幸いです。

令和5年3月吉日
武井 宗道

●テーマ「存在」について

1、きっかけ

 「存在」を扱おうと思ったのは、10年前の内弟子時代のことでした。私は大学在学中に、ご縁のおかげで、神楽坂の武家茶道宗家の内弟子になることができました。その後、卒業して「宗道」という宗号を賜りまして、ただその後流派から離れ、ひとりで活動し始めて12年となります。
 その内弟子中に数多くの「大寄せ」と呼ばれる、多いときには1日1,000人近く訪れる茶会に出会いました。私は主催者側であるため、下足番をしたり、客人たちを部屋の中でご案内したり、様々な経験をさせて頂きました。
 ただ、大寄せの茶会というものは、一見華やかでありますが、広間であれば少なくとも30人、小間(四畳半の小さな部屋)では15人ほどから、隣との隙間もないほどに詰め込まれて、その中で茶会が進行していました。
 亭主(部屋の主催者)と正客(一番上座のメインの客)との間で、一応の会話は繰り広げられるものの、時間の制限や、次の会の人々が廊下で待っているプレッシャー、大運動会のような水屋とお運び、などの環境を考えると、いくら良い道具が組まれていたとしても、一服の茶をゆっくりと楽しむようなものではありませんでした。
 私はその光景を見て、「亭主」と「客人」の関係性を重んじる茶の湯において、ノルマとして課せられた大寄せの茶会というものは、本来的な精神からすれば成立しないのではないか、と思っておりました。ベルトコンベアーに乗せられた商品を、人間が組み立て捌いていくような、そう、まさに若くして亡くなられた石田徹也の絵のような印象です。

2、亭主と客人の関係性は

去年の様子

 利休の頃などは血生臭い時代でもありますので、人と人とが、ひとつの場所に集うだけでも、その邂逅、再会を心から喜んだことと思います。
 現代では人と出会うということ事態、非常に浅薄なもの、当然のこととなり、また出会えたことを心から嬉しく思う感慨は日常からほぼ忘れ去れているように感じます。もしかしたら、別れた次の瞬間に二度と会えなくなる可能性もあります。茶の湯に関わっていると、老若男女、幅広く人と付き合いますから、毎年、誰かとは未来永劫会えない出来事があるわけですが、そのとき、懐かしむだけでなく、存命中にその「存在」を互いに喜び合えたかを常に反省する次第です。
 「存在」を認め合うことは、利休の頃も、現代も決して変わることのない大切なことだと思います。

3、茶の湯の高い危険性

 「亭主」と「客人」の存在を互いに認め合い、深い関係性を結ばなければ、茶の湯においてどのような事態となるか。
 400年前は、武将同士が互いに何か、特に食物である料理・飲料を提供することは非常に神経を尖らすことでした。今では、何か変なものを食べて食中毒になったら、病院からその店を訴えることができますが、当時は毒が入っていたら、即死ですから、「亭主」も「客人」も、「体内になにかを入れる」ことは命をかける行為だったのです。
 そこに茶の湯が登場します。小座敷で、亭主と客人のたった数人が座し、家来も刀も持ち込めない。薄暗い部屋で呈される、料理、菓子、そして黒い茶碗の中に佇む影の落ちた濃い色の茶。
 今では茶の中に旨味たっぷりとか言ったりしますが、その頃のお茶は美味しいと思えるものでは到底なかったと思います。毒が入っていても分からない、色、味、香り。どのような心境であったのだろうか、といつも思います。
 客人は門を潜ったその瞬間から、もはや亭主に命を委ねるしかないわけです。バーっと菓子が出てきて、茶が出てきて、それをパクパク、ゴクゴク、と食べて飲んだら次の席へ、といった形では決してなかったと思います。
 ひとつひとつを吟味し、道具を鑑賞し、己に与えられた役目をこなし、連客とのチームワーク、そして亭主を慮る振る舞いをして、初めて茶会が成立する、そんな時代が確かにあったのが利休の頃であったと私は考えます。

4、多くの人に体感して頂きたい

去年の様子2

 現代でも、「主客(亭主と客人)」の関係を重んじて茶会、茶事を行なっている方々は多くいらっしゃいますし、私も年間、何度もそのような席に出逢います。
 料理や酒のあとに、静謐な空間の中で、濃茶がゆっくりと己の身体に落ちていく感慨は、到底、言葉にできないものです。
 ただ、私は家族の誰も茶を嗜んでいないような、一般の出でありますので、できればこの関係性の中から生まれる、「美味しい!」だけでない、「味わい深さ」を、茶の湯関係者だけでなく、まだ未体験の方々にも広くお伝えすることができれば、突然変異的に出現し、茶の湯の末席を汚し続けている己の存在も、幾らかは役立つのかなと思い、今回のテーマ「存在」と相成りました。

 そのため、「茶の湯の五感」は大勢の方々をお招きしますが、ひとりひとりに巻紙をしたため、開催される当日まで、なるべく関係性を構築できるよう、普段の茶事のごとく進めていきます。
 お送りしました巻紙には、返信用の紙もお付けしますので、もしできることならばお返事頂戴できたら幸いです。

5、多義的・多次元的

 「存在」については、非常に多義的で、多次元的な思想が必要です。
 実在、実存、実体、記号、象徴、表象などの「存在性」は、目に見えるもの、目に見えないものなどたくさんあります。
 そもそも自分の存在を明確に確かめる方法としては、多くの哲学で論じられてきましたが、私はとしては誰かが点てた「一服の茶」が、自己、他者を繋ぎ止め、両者の存在を確定し得るリアルな証として、この不確かな現実に穿たれた楔となるのではないかと思っています。

 この「一服の茶」は、誰が、どこで、いつ、どのようにして、何のために点てたのか。
 また、この「一服の茶」は、誰が、どこで、いつ、どのようにして、何のために飲むのか。

 いつまでも終わらぬこの問いの答えは、「飲む」という決着に向かって未来へ向かうのか、または「飲む」という決着から過去へと遡るのか、それとも、「飲まない」のか。
 また、相手の存在を認識するのはいつからか。どのような条件が揃えば、相手を「しる(知る、識る)」ことができるのか。
 また、忘れてしまうことはいけないことか。忘れてあげることで、初めて存在が許しあえて繋がることもできるのではないか(抛筅、忘荃、忘己)。
 存在を認めるとき、それぞれに、多くの方法と結着が現れることでしょう。

6、どなたでも参加・体感できます

 茶の湯の五感は特殊なお茶会です。そのため、流儀や茶道経験によってその体感を左右することはありません。茶道経験者であっても、このような茶会に参加されたことがある方は稀有ですから、経験に有無を気にせず、どなたでも参加できます。
 必要なのは、所作や作法ではなく、能動的に動かすご自身の感覚のみです。
 また、一般的なイベントにおいては高額であると思いますが、実は満席になってもほぼ利益が残りません。私の伝えたいものを伝えたい茶会でありますため、「忘己利他」の精神で行う所存です。
 そんな私のわがままにお付き合い頂けましたら、これ以上嬉しいことはございません。
 当日まで精進を重ねてまいります。


 内容については以下の通りです(順序が変更する場合もございますが、内容はほぼ変更ありません)。

7、内容

・開催前
巻紙(ご案内状。おひとりおひとりにしたためます)

・開催当日
入場

寄付(よりつき。待合のこと。)
 香煎を差し上げます。

初入(茶席に入室)
 炭点法(炭を入れます)
 料理(料理・酒) なるべくお腹を空かせてお越しください。
 菓子(テーマに合わせた当日のみの菓子)

中立(休憩時間です。待合に戻ります)
 いっとき、おくつろぎください。

後入(茶席に再入室)
 濃茶
 のち、干菓子・薄茶

寄付
 支度をし、帰路へ。

8、今までにない実験的な茶会

 今回の茶会は実験的な部分を過分に含みます。「存在」を明瞭にするため、敢えて、亭主である私は最後まで皆様の前に現れせん。
 ただ、私の「存在」は五感を用いて様々なところに現れる工夫をしています。
 見えなくても、互いの存在を認め合い、一服のお茶を喫するその瞬間を共に迎えることができましたら幸甚にございます。
 

9、最後に

 茶の湯の世界は、過去に依るものではなく、今、さらには未来に向けて非常に可能性のあるものだと思っています。
 通常、茶会というと、茶道経験や関係者とのつながりの有無がハードルとして挙げられれますが、茶の湯は文化の中におさまるのではなく、日常茶飯事の字のごとく、誰もがいつでも触れられるものであってほしいと願っています。
 そのためには、「お稽古」体験などではなく、何よりも「茶会・茶事」を体感することが肝要、肝要です。村田珠光も「茶の湯の中に仏法あり」と述べているように、すべてが茶の湯の中に内在するのであれば、「囲い」など必要ないのです。
 今回は文化的な資料を基にしながらも、飲食様式、インスタレーション、空間芸術など、多くの表現を含みます。

 広く、多くの方にご参会頂けることを、心よりお待ち申し上げます。
 何卒、何卒宜しくお願い申しげます。

武井 宗道

 

10、詳細

●イベントページ
こちらで随時更新しております。

●日時
4月
  30日
5月
   1日
   2日
   3日
   4日
   5日
   6日
   7日
   

各 定員5名(4名様以上で貸切のお席も可能です)
 昼の部 12時〜15時(15分前開場)
 夜の部 17時〜20時(15分前開場)

●場所
清洲寮 茶室
〒135-0021 東京都江東区白河1−3−13
※部屋番号は、参加者の方へお知らせ致します。
※清洲寮は築90年の建物で、東京では最も古い集合住宅のひとつと言われております。現在も多くの方がお住まいです。入場の際はお静かに願います。

●参加費
 一万円五千円
※キャンセルは開催二日前を過ぎると100%頂戴致します。

●持ち物・服装
  持ち物、経験一切不要。
  服装は平服でもけっこうです。

●参加方法
https://forms.gle/bfiXZQt8zGztvfN1A

●過去の様子

2018年
https://yukichi.co/p-h-a-n-t-a-s-m-a-kakejiku-version

2018年 ゆらぎのめぐり
https://vimeo.com/319504107

2019年 春の逍遥
https://vimeo.com/333699555

2022年 内観
https://vimeo.com/710635839

●空間構成
・武井 宗道
武家茶道宗家に内弟子入り。卒業、宗道の号を頂く。2014年、流派より独立。
現在、各地で流派に依らない茶事、茶会を催す。
これまでの活動場所として、目黒雅叙園、鎌倉円覚寺、陽岳寺、佐原町屋、IKI-BA、246COMMON、三越伊勢丹、学習院生涯学習センターなどがある。
現在は株式会社TeaRoomの稽古、茶会を担当し、また築90年の清洲寮に炉を切って活動中。

・土屋由貴
映像作家
東京在住。
フリーの映像制作の傍ら作家・アーティストとして作品発表を続ける。
美大生の頃より絵画的な表現の映像作品の制作を始め、
映像の展示方法や空間についても既存の手法にとらわれない方法を探求している。
グループ展・個展多数。2018年より茶会においての映像掛軸制作を始める。

[Webサイト]
https://yukichi.co/

・秋本純一
1979 年 東京都生まれ。
2000年 武蔵野調理師専門学校卒業後、銀座【マキシム・ド・パリ】のコックとして
入社しフランス料理の基礎を身につけたあと、数々のレストランやカフェで
メニュー開発やホール接客、新規開業準備などに携わり飲食店のマネージメントスキルを学ぶ。
2013年 株式会社福寿園に入社し、東京駅八重洲口グランルーフに同社直営の
【ふれんち茶懐石 京都 福寿園茶寮】の開業準備に携わり、翌年、料理長に就任。
2020年 同社退職後、【FRSコンサルティング】代表として独立。
トック・ブランシュ国際倶楽部 正会員
一般社団法人日本フードビジネスコンサルタント協会 理事

・三窪笑り子
Tea Knot 代表。1992年 大阪府堺市出身。幼少より茶道を始める。 学校法人裏千家学園茶道専門学校卒業。さかい利晶の杜立ち上げに参加、茶の湯関連の責任者を務める。同年に京都市北区 陶々舎にて茶道教室を開く。
2020年に「茶で人を結ぶ」をコンセプトとしたTea Knotを創業。茶の湯を媒体とし、様々な人・国・地域にまつわる一会を開いている。
これまでの活動として、第8回上賀茂アートプロジェクト 席主、公益財団法人 有斐斎弘道館 十周年記念月釜亭主、イギリスの語学学校にて茶道ワークショップ、茶道資料館副館長との共同茶会 など。

●ご質問お問合せはこちらへ
sotocha.office@gmail.com

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