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批判をされても書く作者は。


たとえ批判をされても、作者はそれで生きているのだから見なければ良い、我慢すれば良いと、世間は皆そう思っているだろうなと思う。


そもそもの話をすると、『批判』というものは全然閲覧されていないコンテンツにはつかないだろう。実際、誰の琴線にも触れない創作物は存在すらスルーされるので、ネット上では見向きもされないと感じる。

ただ、ある程度知名度が上がると、批判する人間が現れる。明確な悪意を持って、レビューやコメントで痛烈に批判するのだ。作者の目に入っているかどうかは、この際関係がなく、ただ自分の意見を知らしめたいだけの行為だと感じる。

ネット上で匿名で投稿できることは、便利ではあるが恐ろしいことだ。
私はSNSもブログも5年以上やっているので、批判的なアカウントに絡まれたことはたまにあったが、だんだんわかってきたことは、その批判に対し抗議することは無意味だ、ということ。

何か反応を返すと、大抵さらに悪化する。ましてや、相手の意見に対して反論するような真似をすれば、たとえどれだけ言葉を尽くそうが、さらに大きな悪意で返って来るだけ。論点をずらされることも多々あり、より事態が悪化するだけにすぎない。

そういう批判的な意見を、作品を出すたびに浴びる小説家や漫画家や映画監督などの創作側の人間は、どれだけ耐えてきただろうと思う。
批判はネットで情報を見ている限り、何らかの形で目に入るはずだ。とくに有名であればあるほど、たとえ多くの人間が称賛していたとしても、必ず批判の声は存在している。

人の悪意というものは、特に創作物に向けては顕著に表れると思う。そういう悪意に触れると、腸が煮えくり返るような気分になることがある。ただ、そのたびに世の中には色々な人がいて、気に入らなければ悪意を向ける人もいるのだと思い出させてくれることは有難いと感じるし、世の中そういうものだ、とも思う。

どれだけ言葉や気持ちを尽くそうが誤解されるし、世間の常識から外れれば誰かしらに非難される。そういうものだ、と受け入れるか、自分がそうでないことを隠すか。そういう選択を常に強いられているような気がしている。


ただ何かの批判をするということは、自分を貶める行為でもあると思う。
例えば、自分がどうしても不快だと思う記事に触れたとする。しかし、それに対して批判をすれば、その人と同じレベルに落ちることになってしまうし、創作側の人間は基本的に人の批判をすれば、創作家ではなく評論家になってしまうと思う。

評論家になりたいのなら良いと思うが、例えば有名な漫画家や小説家が、別の作家の批判をしているところは見たことがない。
知名度が高いのだから当たり前と思うかもしれないが、たとえ無名でも、創作側の人間が誰かの文章を批判したら、その瞬間に少なくとも自分は創作家でなく評論家になってしまうし、そういう自分の姿(コメント)をネット上の誰かに見られてしまう。

つまり、誰かの批判をすることで自分の名前を貶める可能性があるならば、不特定多数の人の目があるなかで、誰かの批判をするのは避けた方が良いと思う。それは一時の感情をなだめるだけの行為で、それに共感した人たちを傷つけることにもなるだろう。

P.S.
『批判をする』ということは、ある意味では批判せずにはいられないほど心が揺さぶられた、ということだと思います。
批判されるのが嫌なら辞めろ、というのは芸能人もよく言われますが、批判する人もいれば肯定する人も当然いるはず。より沢山の人に見てもらいたいと思うことは、針の筵に立つ覚悟が必要なのでしょう。
※こちらの記事はコメントを受け付けておりません。コメント機能を消せないため、注意書きで失礼いたします。私はそういう覚悟で書いているわけではないので。



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