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「KIGEN」第五十九回
こんなにも感情を大きく揺さぶられたのは初めての経験だった。喜怒哀楽の起伏が激しくて、自分の解釈が付いて行けない。怒りに気付いても理解や制御を試みる前に口から態度から表へ勝手に出て行ってしまうのだ。どうしていいか分からなかった。十六歳にして初めて気の落ち込みを体感している基源は今、荒野で一匹のうさぎの様に心許ない。堪らず庭へ降りて植え物の間へしゃがみ込んだ。足元を見つめる内に目が慣れて、自分の影がぼんやり出来ていると気が付く。植木の影も凸凹に並んでいる。試しに手をかざすとそれにもやっぱり影ができた。ということは―
「月だ」
暗い空に、ぽっかりと月が浮かんでいた。大きさは具だくさんの餃子くらいで、満月ではない。
「いちごう、いちごう」
はっとして顔向けると、垣根の向こうに奏の姿が在った。
「どうしたの。こんな遅くに」
「散歩中。近くまで来たからついでに寄ってみたんだ」
「ふうん」
「そっちこそ、何かあった?こんな時間に一人で外に居るなんてさ」
「別に、何でもない」
奏は暗がりに紛れて微笑した。
「へえ・・そんな技まで覚えたのか」
「何の事」
基源はいよいよ不機嫌を隠さない声音で不満を零す。奏はそれが嬉しくて仕方がない。基源は気付いているんだろうか。自分が人に対して生まれて初めて不満を現わしているのを。いつもにこやかに笑い、辛い時も耐えて来て、それなのに今日は愚図愚図と情けない自分を引き摺っている事に。どれも、基源の感情が豊かになった証拠に違いなかった。だから奏は嬉しくて仕方がなくて、ははっと遂に笑い声まで出た。すかさず基源が突っかかる。
「なに笑ってるのさ」
「怒るなよ。それより、今日負けたんだってね」
「ああ!忘れようとしてるのに、酷いじゃないか奏」
「悔しかったんだろう」
「もういいんだって」
「まだ場所は終わってないよ。明日がんばれ」
「わかってるよ。おかみさんと約束したもん。今日中に乗り越えなきゃいけないんだよ」
「明日は見に行くから」
「ほんとっ!?」
「十五日間の間に七番とるんだよね。良かったよ、明日基源の取組があって。日曜日だから行けるんだ。応援してるからね、白星飾ってよ」
「うん、頑張る。もう平気。もう越えた。今越えた」
両頬をぴしゃんっと思い切り張った基源。垣根越しの奏の顔まで風圧を感じた気がした。まだ少し温い夜風だ。
「じゃあ、明日ね。おやすみ」
「おやすみ奏!明日期待しててっ!」
奏は夜道を大股に歩いた。急に飛び出して来たからさっきからポケットでスマートフォンが着信やメッセージを忙しなく告げている。歩きながら操作してすぐ帰ると返事だけしておく。
(大丈夫そうだ)
散歩なんて嘘に決まっていて、本当は基源の脈拍と血圧の数値が今までにない上がり方をしたため慌てて様子を見に来たのだ。基源の心拍から血圧、心臓部と脳波の数値、体温変化に至るまで、逐一奏が自分のパソコンやスマートフォンで確認できるシステムになっている。オンラインで安否確認をしても良かったが、足が先に動きだした。万が一異常事態だった場合、まだパソコン操作のみで体内の修復作業指示を出す事ができない。しかし奏の焦燥は杞憂に終わり、代わりに基源のより豊かになった感情表現を見ることが出来た。それもまるでAIを度外視した人間らしい成長だ。奏は夜風をぐんぐん切って歩いた。
翌日のスポーツ新聞に昨日の取組で鼻血を出した基源の写真が使われ、「基源流血!ほんとにAI?!」の見出しが付いて、今度は人工知能であるかを疑われるという、これまでとまるで真逆の理由で騒がれた。だが大相撲協会はもちろん、JAXAから文科省に至るまでが関係者となっている今になってそんな根本から虚偽であるというのなら、国の恥以外の何物でもないという意見が浮上して多くの賛同を得たため、協会が会見を開く必要の無いまま鎮静化した。
垣内部屋ではスポーツ紙を広げた兄弟子が、基源に向かって「AIですか?!」と質問しては基源本人が「違います!」とムキになったふりで言い返すというくだらない遊びが流行った為に、目撃したおかみさんに揃って叱られた。
日常生活は穏やかに流れているが、気合を入れ直した基源は土俵上の快進撃を続けて、順調に番付を上げていった。今や幕下上位である。そんな中、相撲協会理事の一人、十勝蓮耶がJAXAe-syへ単身乗り込んで来た。直前にJAXA本部へアポを取って来たらしいが、建物の前で電話しているのだから殆ど奇襲だった。
本部から連絡を受けた矢留世は、はてどこかで聞いた名前のようなと思いながらも、呼び出しに応じてチームの研究所を一旦抜け出し急いで本部の玄関へと向かった。
「初めまして」
「えっ」
「相撲協会理事の十勝と申します」
「え?あなたが?」
「他に誰かいます?」
「あいえ、すみません。男性だと思っていたので、驚いてしまって」
「よく間違えられます」
「申し訳ありません」
平謝りする矢留世の横で、二人を繋いだ本部の広報が説明を加える。
「十勝蓮耶さんは相撲協会の記者会見に出ておられた御方です」
矢留世ははっとして十勝と目を合わせた。
「それだ!どこかで名前を聞いたと思ったんです。あの時の御方ですか、あの会見はお見事でした」
「いえ、私は何も。理事長の取り決めた通りに従ったまでですから」
第六十回に続くー
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