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「KIGEN」第九回



 洗い上がった洗濯物をカゴに入れて物干し台へ向かおうとする智恵美を呼び止めて、奏は後ろへ控えている人物を紹介した。

「母さん、紹介したい人が居るんだ」
「いやねえ改まって、お友達?」
「うん」

 奏の背後からぬうっと現れたいちごうは、智恵美と目線を合わせる為にやや身を屈めて右手を差し出した。

「初めまして智恵美さん、いちごうです」
「えっ」
「うわっ、い、いちごう!お母さんでしょ、お母さん」
「これは失礼しました。お母さんこんにちは、奏の友だちのいちごうです」
「こんにちは・・」

 挨拶に挨拶を返そうとしただけだった。差し出された右手に戸惑いながらも応えようと自分も右手を差し出し掛けた時、いちごうの体内ファンがモーター音を響かせて回り始めた。梅雨入り以来湿度が高い為か頻繁に起こる現象だ。異常ではないが人間らしからぬ機械音である為、智恵美は驚いて右手を引っ込めてしまった。

「これ、何の音?この子どうしたの?」

 思わず奏に不安の広がる瞳を向けると、奏はバツの悪そうな顔をして「AIロボットなんだ」と白状した。

「騙そうとしたわけではありませんが、誤解させるような真似をして申し訳ありません」

 背中の辺りをファンファン言わせながらいちごうが腰を折る。

「ろ、ロボット・・・」

 洗濯物のカゴが足元へ落ちた。嘘でしょ・・・というつぶやきと共に、智恵美が卒倒した。受け止めたのはいちごうだった。

「お母さん、智恵美さんっ。意識なし。奏、救急車を呼びますか、横にならせて心肺蘇生法を実施しましょうか。胸骨圧迫は得意ですよ」

「ちょっとお母さんっ大丈夫!?」
「・・・・・奏」
「あ、いちごう待って、意識戻ったよ。救急車要らない」
「了解しました」

「そんなに驚かなくてもいいのに。僕がロボットを造ってたこと知ってたでしょう」
「・・・・知ってたけど、まさかもう誕生してるなんて思わないもの」
「春休みには完成していたんだ。人を模した皮膚を被せて服を着せるのにちょっと時間が掛かってね、今日になったの」

「・・・・・そう」
「寝室迄運びましょうか?」

 足元へ弱々しく横たわる智恵美を気遣っていちごうが声をかけると、智恵美は薄く笑みを浮かべて、優しいのね、いちごう君は。と言った。二人はこれですっかりいちごうの存在が受け入れられたと思い顔見合わせて笑った。

「これからはこっちで一緒に住むから」

 奏が明るく告げると、智恵美はもう一度嘘でしょ。と呟いて目を閉じた。



 いちごうは窓の外に広がる景色を眺めているのが好きだった。自分も早く外の世界へ出てみたいような、機械で出来上がったこの体の内で、一体どの器官がそう感じるのかは判然しなかったけれど、面白そうだ、あれは何て事象だろう。触ってもいいのだろうかと、いつまでもどこまでも興味の視線を伸ばし続けるのだった。本体の完成する前からパソコン内で人工知能を育成して来たので、日本の名所は勿論、世界中の絶景だって知識としては頭に入っている。だがそれは単純に「綺麗なもの」という認識のみだ。年にどれだけの観光客が訪問するかを知るのみだ。地球上にあって経緯と緯度を知るのみなのだ。だから説明は幾らでも出来る。だが感想は何も言えない。

 奏は窓外の世界に焦がれるいちごうの気持ちを、どことなく理解していた。出来る事なら叶えてあげたかった。外は雨がざーざー降っている。庭の紫陽花が葉を弾ませて嬉しそうに揺れている。奏は妙案を思い付いた。

「いちごう、外へ散歩に出てみようか」
「いいの!?」
「外界デビューだよ」

 雨だからみんな傘を差して歩いている。傘を差せば人の視界は極端に狭まる。こちらも傘を差して歩けばお互いの顔を見合う事はほぼ無いに等しい。足元は長靴で良い。幸い一番大きなサイズの長靴ならいちごうの足も納まった。玄関で座って履かせる必要があったが、これで準備万端となった。

「丁度良いよ奏。素敵な履き心地だよ」
「そう、よかった。雨が上がる前に出発しよう」
「本降りなんて、散歩日和だね」

「本当に大丈夫なの?お父さんが帰って来てから三人で出てみるのじゃいけないの」

 智恵美は玄関先まで着いて来て心配したが、奏は手を振って門柱を出た。いちごうもひらひらと手を振った。口元はマスクを付けているから見えないものの、目元がにっこり笑っているのが傘の縁から伺えた。そんな屈託のない顔を見せられると、智恵美ももう何も言えなかった。

「気を付けて行ってらっしゃい」

 雨音の中へ、二人を見送った。

 室内に居る時よりもエネルギーを消耗する可能性があった為、二人はあらかじめ二十分で帰宅すると決めてから出た。道の真ん中で充電切れを起こすと騒ぎになる。

「無理せず少しずつ楽しもうね」
「任せて下さい。玄関を出た瞬間からカウントダウンしています。必ずきっちり二十分で帰宅します」
「ふふ、それは頼もしいや」

 奏は腕時計をちらり見て、それから後はもういちごうへ解説を加える方へ意識を傾けた。いちごうにとって初めての外界は、窓越しに見るよりもずっと色鮮やかで、生命力に溢れて、一つ一つの気配が濃厚だった。頭上へ差し向ける傘へ雨粒が叩いては跳ね、叩いては跳ねる音。長靴が一歩踏み出すごとに大地鳴らす重力の世界。どこかで車の走り抜ける音。それに四方からぱたぱたと珍妙な音が絶えず響く。


第十回に続くー



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ようこそいち書房へ。長編小説はお手元へとって御自分のペースでお読み頂きたく思います。

「AI×隕石×大相撲」 三つの歯車が噛み合ったとき、世界に新しい風が吹きました。 それは一つの命だったのか。それとももっと他に、相応しいも…

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