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掌編「風読み人の或る日常とジレンマ」


 思わず被っていた帽子を押さえ付けた。すすきが波打って首擡げては身を震わせる。この広い草原に佇むは私ただ一人。ワンピースの裾が戯れに舞って自然と触れ合う。素足が擽ったい。野分のわけだ。また強く吹いた。剥き出しの二の腕から腋の横をすり抜けて遠慮が無い。武骨だが嫌いじゃない。私は風を読み、風に生かされて日々を繋ぐ人であるから。

「ああ!ブラジャー見えた!」
 甲高い声した方へ顔向ける。またあの子かと思う。
五月蠅うるさいぞ餓鬼んちょ」
 近所の、と云って草原の向こう数キロ離れた家の子どもであるが、いつ頃からか私の仕事の邪魔に来る。自転車に跨って、風向きもお構いなしにペダル漕ぐ。サドルからおまけみたいなお尻浮かしてぐいぐい漕いで来る。そうして決まって邪魔をする。
「これはブラジャーじゃない。見えてもいいやつだ」
「なにー?」

 餓鬼んちょは邪魔ばかりする癖に傍までは寄って来ないから私の声が大体届かない。私は子どもの滑稽なのに笑った。因みに私の云う「笑う」は軽快に口を開けるのとは違う。品よく手を当てておほほと云うのとも違う。只少しばかり口角を上げてにやりとするだけである。少年は遠い癖にこちらの動きに目敏い。
「なに笑ってんだよー」
 私はあっちへ行けと云う様に手で払う真似をした。この風は今日中に更に強くなる。早いとこ報告を上げて人々に備えて貰わねばならない。

 風は私に全てを教えてくれる。気候の移り変わりも、大地の様子も、天の理も。それを忠実に読み解くのが私の仕事である。天職である。

 昼過ぎに上司が顔を出した。この強風を押して三月に一度の顔出しを強行したらしい。
「どうだ、順調か」
「変わらずですよ」
「なんだ、少年はまだ燻ってるのか」
 私は訝しげな顔で上司を見た。何の話をしている?眉間に皺が寄ったので睨みつけた様にも見えたと思う。どう受け止めて貰っても構わないが。案の定上司はにやにやしている。
「たった一言で良いのにな」
「あなたは人の事より自分の事でしょう。旦那さん帰って来ましたか」
「余計な世話だ」
 不貞腐れた。大人げない人である。だが自分とは三つしか歳が違わないのに、早くから人望を集めて、人の上へ立つにはぴったりの人間であると、認めざるを得ない。事実、この人が上司になってからと云うもの、本部と現場の風通しが良くなった。
「それじゃ報告書も受け取ったし、帰るわ」
「お疲れ様でした」
「不愛想だなあ、いつもながら」
 そう云って人の黒髪をかき混ぜてしたり顔である。憮然としたら、一層満足気な顔で帰って行った。

 翌早朝、風が止んだ。草原にも凪である。訪れた静寂の空に羊の群れが犇めき合って囁き合って楽しそうである。口角が上がる。可愛いものは無条件に好きだ。
「ああ!不可いけないんだ!まだ外出歩いちゃ駄目なのにー!」
 声変わりには程遠いらしいのが朝っぱらから響き渡る。
「少年、飛ばされなかったのか、惜しかったな」
「う、うる・・・」
 少年は自転車で走り去って行った。忙しない事だ。私はもう一度羊の群れを目に焼き付けて、部屋に入った。


 北から冷たい風が吹くようになった。雁渡しかりわたしである。私は寒いのは好きだ。一年を通して季節折々の風を愉しむ事が何よりではあるが、この時期、愈々いよいよ深まる秋と、やがて訪れる冬の日々を思うと、心が躍る。しかし数日、気懸かりが在った。餓鬼んちょが来ない。私がいつも足蹴にするから、そろそろ臆病風に吹かれたろうか。

 日課の観測をしていると、ぎーこぎーこ、自転車である。草原の端に、数日振りの顔が覗いた。だが何も叫んでこない。こっちは準備万端であるのに。もどかしい。
「どうした、餓鬼んちょ」手招きで呼ぶ。
「もう餓鬼んちょじゃない」一応寄って来た。
「なんだその声は、風邪でもひいたか」
 少年は首を振った。余り声を発したくないらしい。
「声変わり」
「――ほう」
 途端に懐かしくなった。つい先日まで鼓膜をつんざいて来た甲高い声が、かつての少年の声が、懐かしくなった。
「もう前みたいに叫べないかも知れません」
 私の胸には隙間風が吹いた。なんだそのよそよそしい喋り方は。声が変わると態度も変わるのか。
「そんな訳ないだろう。少しの間我慢していれば、また普通に大声も出せる様になるらしいじゃないか。風の噂に聞いたことがあるぞ」
「うん・・・あ、はい」
「うんでいいよ。いや、うるせえって云ってみな」
 少年は首を振って抵抗した。

 私は普段この草原の一軒家に引きこもった生活をしているから、世間の風潮には疎い。こう云う時、どう声を掛けるのが正解なのだか、さっぱり分からない。心当たりがあるとすれば―
「元気出せ、少年」
 短い黒髪をかき混ぜて遣った。上司の行いに倣ってみたのだが、少年には逆効果だったようだ。体を仰け反らせて逃げられた。顔上げた少年と目が合う。
「おや、やっぱり風邪じゃないのか、顔が赤いぞ」
「う、うるせえ」
 口角が上がった。
「それでこそ少年だ」
 私が満足そうに笑っていると、突然風向きが変わった。一歩踏み出した少年は私の両手を掴まえた。
「大人になったら結婚して下さい」
「何!?」
「もう少年じゃないです」
 声ががさがさな癖に、少年では無いと主張してはばからない。勢い任せにとんでもない大胆をする。近くで見ると案外可愛らしい顔をしている。

 今年の冬は、嵐になりそうな予感がした。


                         おわり

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