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「KIGEN」第七十四回



 基源は是非とも何か言わなければならなかった。出来れば温かみのある、礼を尽くした言葉を披露すべきと思った。それはシンプルで良かった。たった一言で良かった。だが言えなかった。今の自分がそれを口に出しても、己の心が不真面目だから浮付いた言葉になるという気がしていた。愛想の口を開くには、現場が熱を持ち過ぎていた。対する基源の心持ちがその温度に追い着けなくて、彼はそれが後ろめたかった。

 基源は俯いて、自分へ集まった視線を一旦遠ざけた。

「後は自分で決めなさい」
 一人黙々とビールを飲んでいたおじいが、最後にそう言った。卓上へ下ろしたグラスがこん、と軽やかに鳴った。そこでようやく基源に注がれた熱風は尋常な風に戻った。

「乾杯しましょう」
 渉が空のコップを見つけては周囲にビールを注ぎ始めて、正月の宴がゆるゆる再開された。時事問題から宇宙まで、会話のネタは尽きることがなかった。連なる座布団の上へ結ばれた縁が心地よく各自の胸を満たしてゆく中、基源は頃合いを見て席を立った。奏は黙って目線だけで彼を見送った。


 元過ごしていた一人部屋を、帰省以来また使っている。襖を閉じ切れば早々誰もやって来ないので、プライベートが確保されて気安い場所だ。基源はベッドへ寝転がって一人きりで考えていた。天井へ翳す様に右手を持ち上げてみる。青く血管の走る手の甲が浮き彫りにされる。どんな相手でも組み止めてやろうと思う内、随分ぶ厚い手に変わった。畑仕事の名残で爪の先へぼんやり茶色が残る。お餅を作るのにかえでさんに叱られて隅々まで洗ったのにまだ残っていたのか、と思ったが、年末におせちの御煮しめに入れる牛蒡と蓮根と里芋の土を外の水場で洗った事を思い出した。アイリーと二人して、かえでさんの助手をしたんだった。そうと思い出してやっとふふっと少し笑みが零れた。五本の指を曲げ伸ばししろと指令を出すのと同時に、五本の指は思い通りに曲げられる。AIが指示するのより、脳が命令するのがより早く動作に直結する。二つの誤差は零コンマの世界だから、人へ口で説明するのは難しい。だが両方を身に付ける自分にはわかる。

「奏なら―」

 だが奏なら自分の謂わんとする所を理解してくれるだろうと思った。彼はそんな零コンマの世界で自分を生み出してくれたのだから。そして今に至るまで、ずっと見守り続けてくれているのだ。そろそろ痺れて来た右手を下げて、そのまま手の平を胸へ当てた。静かに感覚を研ぎ澄ませると、鼓動が響く。とくん、とくんと脈を打つ心の臓が、確かに自分の胸の真ん中にある。

 何故人の形を持ったんだろう。

 人型ロボット「いちごう」を創り上げたのは奏だ。だがそこから辿ったいちごうの運命は奏の計画上には本来無いものだったに違いない。人類の予想を遥かに上回る発展が、進化が、彼の身には起こったのだ。何故人の形を持ったろう。それが近頃の基源の思考の大半を占めている。凡そ答えなど見つからない疑問へ思考を沈めたまま年を越して今に至っている。明確な答えはない。AIは理解する。基源もだから分かっているのだ、それが無駄骨であることを。だが考えなくてはいけない気がして、考え抜いた先の自分を見つけ出したくて、どうしても向き合い続けている。

 私はこの先どう生きようか――

 山の冬は深かった。



 大相撲三月場所が終わった。いよいよ基源の謹慎処分が解ける。復帰の五月場所に向けて、四月からは出稽古も許されている。世間でも、真新しい衣装に身を纏う初々しい社会人が、眠い目を瞬きながら混みあう電車に揉まれ、人混みに翻弄される中、刹那の桜吹雪に心映ずる季節だ。だから基源はおじいの元を離れ、そろそろ垣内部屋へ戻っていて良い頃だった。ところが基源はおじいの家へ居座っていた。体調の良い日は機嫌も良く、畑仕事にも精が出た。だがずしんと頭の上へ重石でも載せているように気分の全然乗らない日は、鍬を一振りするのに時間を掛ける。間引きに数時間も使う。一輪車を真っ直ぐに走らせることも出来ない有り様で、載せた野菜を地面に何度落としたか知れない。まるで出会った当初の素人同然だった。


 心が不安定なのだ。脈は安定しており、体は元気そのものだ。だが心の不調が彼を思うに任せない。かろうじて続けて来た朝一番の四股踏みも、この頃はサボっていた。垣内親方は一度おじいの家を訪れて様子を伺ったが、基源の虚ろな瞳を見て戸惑った。ここで強引に連れ帰って状態が上向いていく気が全然しなかった。

「とても相撲ができる状態にないですね」
「焦っても仕方がねえよ。しっかり向き合えなければ潰れるだけだ。あいつは今自分自身と闘ってるんだ。負ければ終わり、それだけよ」
 おじいに諭されて、垣内親方は引き上げた。部屋へ帰り着く頃には、基源のもう一場所全休を決めていた。

 五月場所の番付が発表された。基源の番付はどんどん下がり、今や十両以下、幕下の二桁である。山間にもそぞろ暖かな風が吹き、新緑が陽光に映えている。おじいの畑も青々とした畝が幾つも目立つようになってきた。


 この汗ばむほどの陽気の中を颯爽と現れたものが居る。理事の十勝だ。自らハンドルを握り一人でおじいの家へやって来た。玄関でおとないを告げても家の中から反応がなく、辺りを見回して庭の向こうの畑に人影を見つけ足を向けた。人の気配に気が付いて畑から出て来たのは、基源だった。
「こんにちは」
「・・・どちら様ですか」
「相撲協会理事の十勝です」
 基源は首にかけたタオルで顔の汗を拭いた。泥混じりの汗が余計に横へ広がった。
「まじか・・・すみません、知らなくて」
「直接会った事ないもの、気にしないで」

 そう言って十勝は軽やかに微笑んだ。若葉の青い風が爽やかに吹き抜けた。


第七十五回に続くー


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ようこそいち書房へ。長編小説はお手元へとって御自分のペースでお読み頂きたく思います。

「AI×隕石×大相撲」 三つの歯車が噛み合ったとき、世界に新しい風が吹きました。 それは一つの命だったのか。それとももっと他に、相応しいも…

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