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掌編「いつだってほろ苦い」


 余は泣き虫である。だが今は泣いている場合ではないので我慢している処である。月が目の前で逆さまに落っこちている。負け犬の烙印おでこに押された気分がする。せめて頭上に堂々己の眼持ち上げられたなら、こんな惨めはあの月同様水の中へ溶かされた筈である。然し溶けてそれからなんとしよう。己の羞恥と凡庸と優柔と陰気とが、一層派手に、世間へ詳らかにされてしまうだけでないかしらん。手に持つ苦い珈琲を啜った。

 夜の公園であった。街灯の影が足元へ線を引く。目を凝らせば昼間の軽快な足跡が残されているが、遊具は静まり返ってキイとも錆を鳴らさない。余はブランコの錆が特に好きである。あれがやんちゃな子どもの手によってキイキイ鳴らされるのを聞ける内は世も大概平和だろうと思っておる。

 ついこの間まで猛暑だ残暑だと騒いでおったのに、気付けば鈴虫が羽を震わしている。あのリーンリンは余には気高すぎる。ウマオイはすいーっちょんと主張して止まない。こちらは肌に合わん。余は街灯の電気が蛾と衝突してはバチバチ云うので丁度良いのである。

 云いながら本心が泣いている。本当は大好きである。泣けるほど心に染み入る日が在る。自宅の古いマンションと隣のマンションとの隙間でリーンと聞こえた日には、故郷思い出して布団の中で噎び泣いた。だが今夜はそれも全部蹴散らかしたい積りで強がったのである。それが余計に不可いけなかった。これだから泣き虫は駄目なのである。これだからあの人を掻っ攫われるのである。また珈琲を啜った。


 あの人を初めて見掛けたのは夏の盛りを過ぎた頃であった。盆が明けて、借りていた本を返し、また別の読み物を求めようと図書館へ出掛けた折である。天は日に日に高くなり、清々しい青空が広がる、全く図書館日和であった。天気が良ければ外へ出ると云うのは如何にも安直である。そういう日にこそ文学へ没頭し、偉人の見識我が身に取り込むにうってつけなのである。例えば図書館の窓際席を想像して御覧なさい。日向の机と椅子には平穏が広がっているではないか。余はそういう場所にこそ好んで腰を落ち着ける。風は気紛れに余を嬲ったり嘲笑ったりするからあんまり好かん。唯全く無いのも其れは其れで困る。気難しい男と突き放さないで欲しい。胸の内に希望を抱くのみで、口に出す事は出来んのだから。

 この日の相棒はニーチェと太宰と賢治であった。盆前に漱石を読んだらニーチェが話題に上っており、余もとうとうニーチェを学ぶべく手に取って見た次第である。太宰は何度目か知れない。余の好物である。賢治は心休めたい時には欠かせないから取って来た。実は盆に実家へ召集された余は、両親やら叔父やら嫂にまで連れ合いの重要性を懇々説かれて、時代錯誤甚だしいと思へど一口も遣り返せず退散したばかりであったから、どうしても賢治を欲していたのだ。

 その賢治があの人と余を結んだと云って過言ではない。余は先に太宰に取り掛かっていた。声が掛かったのはその時であった。
「すみません」
 大変な小声であった。小鳥かと思った。小鳥にしては判然喋ると顔持ち上げると若い女性が余の向かいへ座っていた。目が合って、もう一度すみませんと云われ、愈々人間であると理解した。だが返事など出来なかった。余は異性に対してとかく耐性が無い。だが女性は全く動じずに、
「宮沢賢治はどこにありますか」と云った。
「はい」
「宮沢賢治は、どこに並んでいますか」

 余は真っ先に司書の居るカウンターに視線を運んだ。混み合っている様子であった。それらの視線を追いながら、女性は自分も宮沢賢治を借りたいけれど場所が分からず困っている。検索機も方向音痴だから使っても無駄だと云う。これは思いがけない使命が回って来たものである。だが無下にもできんと思った。なにしろ賢治を欲する人に悪い人は居らん。余は立ち上がった。口は役に立たんから指差して付いて来て貰った。余は無論きちんとお役を果たした。女性は大層喜んで見せた。右の頬に靨ができる人であった。目など合わせる事ができないから、会釈して席へ戻る事にした。

 ところがその人は後ろを付いて来た。そうしてまた余の向かいの席へ座った。余は文字が全く頭に入って来なかった。あの人は平気で風の又三郎を読了したらしかった。余は一旦読書を諦めてエントランスの自販機へ向かう事にした。すると何故かまたあの人も席を立った。
「一杯奢ります。御礼に」
 面喰った。この様な人類には出会った事が無かった。だが気付くと二人して珈琲を飲んでいた。ブラックしか飲まんのにカフェオレを飲んでいた。甘かった。色々。

「ママー」
 未就学位の男児が女性目掛けて走って来た。もういいの?うん。ジュースを買うとか買わんとか、何も頭に入って来なかった。余は甘いカフェオレを無理矢理流し込んで本の海へ帰った。

 それだけである。その癖一週間も引き摺っている。もう沢山であった。この珈琲を飲み干したらきっぱり忘れる。そう決めた月夜である。最後の一口飲み干した。

 さよなら。

 余は公園を抜け出した。その拍子に二つの影を踏んだ。
「あ」
「あら」

 神様が居るなら聞いてみたい。余の人生設計はどうなっているのかと。

「あれえ、この人パパになるかも知れない人?」
「え」
「ちょっと!?」
 余は踵を返して自販機に向かった。それは苦い筈だが、もう一度確かめてみる必要が在ると思った。世の中の順序を話して聞かせる親子の会話は耳に入って来ない振りをした。

                          おわり                                  

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