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「KIGEN」第八十七回


 
    終章「若い瞳」


 色鮮やかな新緑が薫風に葉をそよがせている。モンキチョウが盛んと羽ばたいて青い空を背景に宙を横切ってゆく。踊り子のように軽やかで、賢者のように勇ましい。


 肉体の期限を迎え、その命は果てたと思われた基源きげんの姿が垣内部屋にあった。白いまわしをつけて、現役時代と変わらぬ鍛錬された肉体が目に眩しい。だが、触れることはできない。そこに居る基源は実体のない基源なのだ。親方にはなれなかった。だがかなたが高密度AIロボと云う新技術を開発して、相撲の指導ができるAIロボットの基源を生み出したのだ。今の彼は特別相撲指導官という肩書きを持つ。若手から関取衆迄大所帯の垣内部屋に所属して、まるで現役の力士のようにまわしを締め、自ら土俵へ降りて指導に当たる。彼等の稽古に付き合う内、熱を入れ過ぎて思わず柱にテッポウを打ち、感触が無い為前のめりになってみたり、身振り手振りで説明する内に組もうとして弟弟子に止められたりと、毎日愛嬌たっぷりに過ごしている。この基源は、かつての基源に芽生えた人としての感情をも引き継いだ。相撲に関しては厳しい目で個々の癖や弱点を分析し、熱を入れて指導に当たっている。

 例え実体がなくても、大相撲の頂に立った者にしか見えない世界を、次世代の若い者に教えてやって欲しい。得意のAI解析で技術面から相撲を指導してやって欲しい。それが基源に与えられた役目だった。四股を踏む姿も、投げを打ってみせる姿も現役時代の基源そのもので、あまりに自然な動きは、手を伸ばす迄映像だとは誰も気付けない。奏の生み出した高密度AIロボ技術とは、人々の瞳が認識する空間に於いて、予めプログラムされた人や動植物を、AIを活用しながら3Dで映し出す技術である。対象を成長させたり進化させる事もできる。この技術を使って植物の成長の過程を説明したり、海洋生物の生態を病院のベッドの上で学び、まるで同じ海の中に居て飼育する、と云う様な疑似体験もできる。必要に応じて体験者の五感を刺激する4Dにすることも可能だ。

 基源の様に人型の場合、その容姿は電子分解の信号指示に従って柔軟に変えられる。例えば手の平で腰を押すと、手が映像を貫くのではなくて、まるで基源が腰を押されたかのように動き、手が離れると同時に元の位置に戻る。電子の粒は微細で組み直している様に見えない為、まるで体がしなって元に戻されたと思える。この電子信号が特殊なプログラムで構築されており、妨害を受けるなどして壊される事はない。昔奏が作成に没頭していた刹那プログラムを基盤とした、今の科学で実現可能な最新技術の集大成だった。そしてそれはかつて二人が交わした約束の結晶でもある。


 基源が人生初の健康診断の折、基源と奏の間で交わされた約束があった。

「もしも基源が肉体、或いは本体の消滅を察知した時は、その瞬間までのありとあらゆるデータを人工知能に収集させて、速やかに休眠状態に入る事」

 器を捨てろという指示は、「古都吹ことぶきいちごう」という一個の命の終わりと言えた。当時十代の奏にとって、無二の友人であり家族である存在の命の終わりを覚悟する事は、大変に勇気のいる判断だった。勇気と言えば聞こえはいいが、見方によっては残酷だ。だが当時の奏はそれを決断したのだ。例え稀少な器を失っても、AIさえ残せればいちごうを復活させることができる。復活したいちごうを変わらず同じいちごうと思えるかどうか、まだ技術も確立していない当時は何とも言いようがなかったが、それでもAIを取る事で彼の生きた道を残す事、そこで得た一切を未来へ活かす事はできる。奏は全ての感情論をさしおいて、ロボット研究開発者の一人としてそういう判断を下した。その上本人の許可を取って、基源の肉体を創り上げていた細胞からDNA、脳味噌、眼球組織等の保存可能なものは、JAXAのとある冷凍庫室で厳重に保管がなされている。隕石が付着した心臓部分も、その場所で一緒に眠っている。

 当時執刀を担当したのは基源の性別を決めてくれた例の医者だった。手術台の上で永久の眠りについた基源の安穏とした顔を見て、にこりと笑いかけ合掌すると、やがて体内をじっくり検分し、「こんな体で最後まで、良く頑張ったね」としみじみ語った。



 古都吹奏は研究員として相変わらず日夜研究に没頭中だ。近頃は独身のままである事を両親に殊更心配されるのを鬱陶しく思っているが、その愚痴は矢留世やるせへ零すにとどめている。研究室を離れるのはあまり好きでは無かったが、JAXAe-syジャクサイージーの社会貢献の一環で、お呼びが掛かれば全国どこへでも出前講義に行く。今日はチーム矢留世に出番が回って来た為、奏も日の下へ引っ張り出された。


第八十八回(終)に続くー


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ようこそいち書房へ。長編小説はお手元へとって御自分のペースでお読み頂きたく思います。

「AI×隕石×大相撲」 三つの歯車が噛み合ったとき、世界に新しい風が吹きました。 それは一つの命だったのか。それとももっと他に、相応しいも…

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