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「KIGEN」第三十五回
五章 「門戸」
季節は鈴虫の声を聞き、紅葉の道を夕べに並べ、厚くマフラーで顔隠したと思ったら、除夜の鐘を聞いた。初詣へ出掛けたいちごうは、石段一歩数えるごとに年末の出来事を思い出してはにやにやと頬を綻ばせた。
「また笑ってるよ」
「だって神社へ来る度思い出すんだよ。堪えようと思ってもにやけちゃうんだよ」
奏に指摘されながらもいちごうはまだ笑っている。二人は昨年末神社の前を偶然通りかかって、神社を宿舎に使っている相撲部屋を見学する機会に恵まれたのだ。稽古を見学する人だかりに混ざって、二人も稽古場へ首を伸ばすと、白いまわしを着けた力士と黒いまわしを着けた力士が大勢いて、真冬にも関わらず大粒の汗を噴きながら土俵の中で激しくぶつかり合っていた。
話し声などは殆ど聞こえず、代わりに荒い息遣いと、力士の体がぶつかるばちんっ、ごつんっといった重そうな音が辺りに響き渡っていた。奏は見ているだけで痛みを覚えて思わず目をぎゅっと瞑った。隣でいちごうは瞳を輝かせて、遠慮なく憧憬の眼差しを稽古場へ注いでいた。いちごうの身長は一七五センチあり、奏と並ぶと肩一つ抜け出している。大人に混ざると大差ないが、少年らしく憧れを隠さない眼差しが稽古場へ腰据えた親方の目に留まった。稽古が一段落した時、いちごうは相撲部屋の関係者に声を掛けられ、その親方と対面する事が出来た。将来力士になりたいと語ると、それならうちへ来るといいと言葉をかけられた。いちごうは飛ぶように喜び礼を述べた。そして、
「約束します。必ず伺います」
そう言って嬉し気に右手を差し出した。親方も満足そうに手を出して、二人はがっちり握手した。いちごうの手の平は毎日欠かさず行っている筋トレの為に肉刺だらけでごつい。皮膚が厚く形成された為か、中身がロボだとは全く気付かれなかった。神社からの帰り道、握り返された手の平を見詰めながら、これで道が出来そうだといちごうは喜びに浸っていた。奏は彼の喜びようが素直なだけに少し心配だった。
賽銭箱へ二人して五百円玉を投げ入れた。渉に強請ってお年玉を奮発してもらったのだ。五円玉の百倍良い御縁がありますようにとの願いが込められている。混みあう境内には新しい年を寿ぐ穏やかで神聖な空気が流れ、人々は上着を握り締めて、寒い寒いと白い息を出し合う。二人は又来た道を歩いて帰る。
「奏は何を願ったの」
「いちごうが無事入門できます様に」
「気が早いなあ、これから三年生になるのに」
「だって、夏休みには入門のお願いに行くでしょ、すぐだよ」
「はは、そうだね。あの親方、覚えててくれるかなあ、私の事」
奏が立ち止まった。いちごうも止まる。足のチタンは構造上取り除けないものがあって一部分は残されているが、骨格が完成したお蔭でこれまで通り動きはスムーズだ。
「いちごう、手見せて」
手の平で要求されて、いちごうは言われるままに右手を開いて見せた。奏は肉刺だらけでぼこぼことして凡そ奇麗とは言い難い、自分のよりも大きくて厚い手の平を掴まえてよく眺め、それから顔を上げた。
「これはいちごうの努力の結晶だよ。この努力を認めてくれる人は必ず居る。そういう人の下で頑張れますように、僕は祈ってるよ」
「奏」
いちごうは熱を感知した。みるみる体温が上昇して、胸の辺りを圧迫する。競り上がる熱は頬を襲い、目元が一際熱を持った。瞼が焼ける。いちごうはハッとした。それで期待して身構えたのだが、すかさず体内でひゅーんと冷却ファンの活発に動く音がして、熱源は速やかに沈静化された。
「残念、涙出るのかと思ったけど出なかった」
「へえ、涙腺は無いんだ」
「違うよ、AIに処理されたんだよ。泣けるよ、私だって泣けるよ?その内ね!」
「無理に泣かなくたっていいんだよ、泣かない方がいいよ。その方が強そうじゃない」
「強さは欲しいけど時には泣きたい気分にもなるでしょう。その時一滴の涙さえ出なかったらどうする?どう思う?あれ?どう思うだろう?奏泣き虫?涙出せる?」
「え?何が!?知らないよ」
奏は心外だと言うように断然地面を踏みつけて歩き出した。いちごうが慌てて追いかける。話の続きをしたいのに、奏は応じない。歩いた分だけ前へ進んでく。一歩、一歩、道を確かめながら、橋の向こうを見定めながら、足を進めて行く。
中学三年の夏休みが始まった。義務教育修了の証を得て角界の門を叩く事に決めているいちごうは、早速神社で声を掛けて貰った親方の元を訪ねて、体験入門を頼もうと張り切っていた。更に、中学校卒業の暁には正式に入門させて欲しいとの決意も伝える心意気でいた。
ところがあれ程固い握手を交わした親方は、いちごうの顔を見るなり露骨に眉根を寄せた。それでもいちごうは自分の希望を言葉で伝えようとした。だが親方はいちごうの話を手で払い除けると一方的に断りを告げた。いちごうは戸惑った。この半年、見学した稽古場の光景へ飛び込んでゆき、共に汗を流し相撲の稽古に励む己の姿を何度も思い描いて暮らして来たのだ。そんな日を待ち遠しく思いながら、たった一人のオンライン授業にも黙々取り組んで来たのだ。それが説明もなしに、意思を伝える時間さえ与えられずに門前払いだ。想定していなかった扱いに衝撃を受け言葉が出せなくなったいちごうに代わって、警護を兼ねて付き添うチームのメンバーが理由を問い質すと、親方は周囲を憚る様に声を落として、思いがけない事を云った。
「AIなんだろう」
「っそれは―」
第三十六回に続くー
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