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「KIGEN」第六十六回





 この名古屋場所で一つ上へ上がる事だけを考え、強い決意で一日一番に臨んでいった。場所が始まってからの基源は、朝の稽古場から周囲が近寄りがたくなるほど並々ならぬ集中力を注いでいた。初日からの八連勝で中日なかび勝ち越しを決めると更に勢い付いた。先ずは二桁、そしてその先へ。ここまでは大きな怪我や疾患もなく歩んで来られたが、油断や傲り、心の隙が生じれば、怪我とは常に隣り合わせの世界だ。基源はどう手を尽くしても体重が増えにくく、現役力士の中でも軽量だった。入門時と比べれば体は随分大きくなったが、それでも他の力士たちと肩を並べると小さく見える。外見は人間と何ら変わらぬようでいて、ロボットにルーツを持つAIの基源。全て人間と同じメカニズムとはいかず、奏のチームで研究は進められているが過去のサンプルがないだけに解明には時間を要す。生物学的にも唯一の存在である基源は、自らの体で試行錯誤するしかないのだ。


 だが基源は怪力だった。体格で劣る分は鍛錬で補えばいいと肉体改造に努めた結果、身が締まって下半身の安定が抜群に良かった。これは毎日欠かした事の無い四股踏みの功績も大きい。土俵際で片足になってもとにかく粘る。耐える。残す。更には投げが得意だ。四つに組んで、相手がまわしを切ろうと振っても力負けせず、隙あらば相手の力を利用して投げに行く。この時の腕の使い方、体重の載せ方が上手かった。一部に負荷をかけるのでなく、体全体を使って技を繰り出す。おじいの下での畑仕事が意味を成した。基源の相撲はまさにしなやかな筋肉を作り上げているからこその、強さと柔らかさを持った相撲だった。

 組むのを嫌がって土俵上を動き回る力士とは突っ張り合いになる事もある。そんな時は冷静に相手の動きを見て軸をぶらさない様に自らも動きチャンスを狙う。相性の悪い力士もいた。けれど口には出さなかった。出したらその時点で負けだと思った。自分の弱気に負けると思った。少なくとも現役である限りは、強気だけ勇ましく持って上を目指したかった。基源の原動力は要するに負けん気、根性、志なのだった。

 二桁勝利に王手となった十日目。幕内に休場が出たため、十両で今場所好調な基源が取組相手に選ばれた。図らずも幕内デビューとなった基源は、入念に準備運動して体を温め、気合十分に花道を入った。四股名を呼ばれ土俵へ上がると同時に観客席から歓声と拍手を浴びた。今日注目の一番として客席が楽しみにしていることが分かりやすかった。声援が飛ぶ。四股名があっちからこっちから土俵上へ届けられる。だが本人の耳には殆ど入っていなかった。基源は初対戦の力士の様子をじっと見つめていた。相手はベテランである。上位陣とも何度も当たって来た実績があり、怪我で番付を落としたとはいえ、仕切りの所作にも余裕と落ち着きがあった。乱される様子の全く無い相手の呼吸を感じる程に、基源の心臓が鼓動を速めた。未だかつて感じた事の無い高鳴りだった。

―私は、緊張している?―

 基源の額に汗が滲んだ。懸命に呼吸して自分のリズムを整えようとした。塩を軽く舐めた。何だか味がしない気がした。少し上を見上げた。満員御礼の札が見えた。その途端土俵の外へ大勢いる人々の声が聞こえて来た。

 あ。

 やっと胸の奥まで空気が吸えた。最後の仕切りで大きく深呼吸すると、夏の風が体中を駆け巡った。命を実感した。


 黒目がしかと前を見据える。拳に砂粒を感じる程に感覚は研ぎ澄まされ、仕切り線にしっかりと両手を着いた。いつもは片手を付いて、相手と立ち合う寸前にもう片方の手を着いている。だが今日はそうしなかった。いかなる場面でも礼儀作法を忘れないこと。おじいと親方に教わった相手への敬意だ。何年も先輩の相手より先に手を着いてしっかり呼吸を合わせるのが、道に適っているように考えての事だった。

 立ち合いは一発で成立し、後は相撲に夢中だった。がっぷり四つで堂々勝って終わりたいと真正面から勢いよく向かっていった基源だったが、気付くと歓声や悲鳴が耳を打ち、自身は土俵下へ立っていた。相手は立つと同時右に動きながら基源の猛進を躱したのだ。変化と言われる立ち合いだった。これにより一瞬相手を見失った基源の体は横から攻められ突き落とされた。勝負は呆気なく幕切れて、気付いた時には野次が盛んと飛び交っていた。ベテラン力士は怪我の悪化を恐れ、勝ち星を一つでも増やす方を望んだらしい。土俵上へ舞い戻った基源は、一礼して下がった。今場所毎日受けて来た勝ち名乗りを背中越しに聞いた時、自身は今日の黒星を受け取った。これが一日一番の厳しさだ。物言いが付かない限りやり直しはない。


 途轍もなく悔しかった。花道の先に付け人の姿が見えて来て、無性に悔しさが込み上げて来た。だがこの時、花道の両サイドから拍手と激励が聞こえて来た。中には子どもの声も混じっている。思わず顔を上げると、「明日がんばれっ!」「基源ー!」と大声で応援してくれる観客の顔がしっかりと瞳に映った。ぬくぬくと温かいものに全身の毛穴を塞がれた気がして、体がぽっぽと熱を持った。口を真一文字に閉じて、基源は力強く頷いた。


 土俵下で基源が使った座布団を抱えて待つ付き人が、どう声を掛けようかと思う間に、基源が先に口を開いた。

「勉強させて貰った」

 言って勇ましく前を向くと、そのまま花道を下がっていった。


第六十七回に続くー


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