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「春待つ時、万物は等しく寒さに身を竦める」


身の回りに於ける人とのかかわりの中で、色々と思う事があった。長らく長編小説の執筆に思考のほぼ全てを傾けていたから、頭の切り替えに、そして頭の体操になった。時々こうして人間らしい苦悩や煩悶を目の当たりすることで、自分も人間社会に生きる一部なんだなと思ったりする。

それは自分が決して悩まない人間という訳じゃないけども、元より与えられた命を生きているこの身であるから、心底悩んでいるようでいて、それを俯瞰する自分も自覚しているのである。

例えるならば、「人生」という船のオールを握りながら、なるようになると心得ているのか開き直っている。オールを持つからには自分の力で漕がなければ船は進まない。しかし万事思い通りに行くかと言えばそうでもない。波が高ければ流される。舵を取られる。行きつ、戻りつ、それでも進むのだ。行きつく先が願った場所とは限らない。だから面白いと言える。だから悩む。だからまたやってやろうと思う。

ずっと握っていれば、最初は下手でも段々上手にオールを使えるようになる。力加減を覚えるのだ。

最終的に、やった分だけのものは、ちゃんと自分に返ってくる。最後はなるようになる。

だから命尽きるまでは、生かされている命で、生きていようかと思う。


どうやら弱っているらしい人。随分疲れた様子の人。きっとみんな寒さに飽いて、春が待ち遠しいのだと思うのだけど、そういう人に対して、自分にできる事って何かしらと思う。態度や言葉で示すのも一つの手段かもしれない。けれど相手が求めているのかどうか、求められれば口を出すけれど、私はできるだけ口を挟まない。相手の事を信じているからかも知れない。その根っこの芯の強さを知っているからかも知れない。


少し話し向きは違うのだけど、或る御方とのやり取りの中で、現実を飛び出して糸が切れた凧のように振る舞いたくなるというような話を伺った時、私はこんな事を書いて送った。

「春待つ時、万物は等しく寒さに身を竦めるようです。

現実逃避の自分はよく実体を置き去りに旅に出ます。それはもう自由気ままです。気が済んだら帰ってくる様子です。これが俯瞰Aであります。

糸の切れた凧も、実は自分ではないかしらと思いました。糸が切れるかも知れないと俄かに気付くのです。切れては無論困ります。
ところがここで脳内では同時に、切れても面白いんではなかろうかという悪戯めいた魔が差します。よく言えば好奇心です。

結果的に糸が切れて凧が好き勝手空へ舞ってしまうとします。
あーあ、と思いながら、そうなった事実を愉快に思うのです。
自由に遊び始めた凧もまた、自分の意思の一つなのです。これが俯瞰Bであります。

自分という人間は、まるで集合体のようだと屡々しばしば思います。
悩む自分も心躍らせる自分も、いつもそれを眺めている自分が存在しているのです。
つくづく変な人間だなあと思いながら暮らしております。」

変な人間だから遠慮がない。この時も勝手解釈を述べた。面白がって下さればよいけれど、ご不快に思われたら申し訳ないなあと一応思う。ただ、いつでも正直でありたい。いつでも正直で偏屈な自分を受け入れて下さる人々が、今日も自分の相手をして下さっているのだと思い込んで生きているのである。

そういうわけだから今日も淡々と生きている。

それでね、先日は長編小説の完成を祝して、一人ネクターで乾杯した。たまに飲むと無性に美味しくて懐かしくなる。ずるい飲み物だな。


生きとし生けるもの、みんな揃って春を待っている―


                          文・いち

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