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【短編小説】誰も知らない話

気になっている人がいた。

手でまるめてぎゅうぎゅうになったみたいな会社の雰囲気の中で、その人は一人だけ浮いていた。

自分は中途採用で入ったから余計に社内を俯瞰で見る事が多かった。
離婚して親権も奪われて、婿養子だった自分は家族経営だった会社からも追い出されてかなり苦しい生活を送っていた。
そんなぐしゃぐしゃになっていた自分を拾ってくれたこの会社には心から感謝している。

でもやっぱり、昼休憩の時にみんなで話す時、自分が離婚した事をはじめて話した時のあの、みんなの一瞬表情が翳るときが、ほんとうに苦手だった。

だけどあの人は、一人だけどんな反応も見せなかった。いい反応も、嫌な反応も見せず、自分が離婚しているという事実を、ただ事実として受け止めてくれたことが、心から好印象だった。

あわよくば、と思っていた。
あわよくば、目が合わないだろうか、少しだけ近寄れないだろうか、ほんの一瞬で良いので触れたりしないだろうか。

一日のうち、仕事をしている時間なんてほとんど全てだ。そんなに毎日会っていたら、そりゃ好意くらい持ってしまうだろう、と開き直って過ごしていた。

「あんた、結婚するんだって?」

ふと、そんな言葉が聞こえた。パートの主婦の野太くぬるく、不躾な声だった。
自分が仕事しているデスクからは質問されている相手を確認できず、このまま見たくないような、今すぐ立ち上がって確認したいような気持ちになりながら平常心を保つ。

そんなことを嘲笑うくらいあっさりと、1番聞きたくなかった声で返事が聞こえた。

「はい。実はいま妊娠してて」

気になっている人の声だった。

聞くんじゃなかった、と思う反面、妊娠している、と耳に入ってきた瞬間に、彼女がひっくり返ったカエルのようなポーズで喘ぎ声を上げながら抱かれている姿を想像して、罪悪感と嫌悪感でいっぱいになった。

ただのおじさんの、寂しい片思いの話は、こうして降りたての雨の一滴目のように、誰にも気が付かれることなく消えていった。

誰も知らない話だ。


おわり

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