【小説】余生
彼女から一通の手紙が届いたのは夏の終わり。でも、秋の気配は全然なくて青い空にくっきりとした雲が浮かんでいる。そんな日の午後だった。
手紙は白っぽい素っ気ない無地の封筒に入っていて、転送されて私の住むアパートに届いたことを示す郵便局のシールが貼ってあった。シールを透かして見ると、その手紙は私が前に住んでいた住所宛てに出されたものだということがわかった。
「ストレンジさんが、死にました。」
ほんの少しの前置きの挨拶があるだけで、手紙の内容は簡潔だった。
季節外れのあじさいの花の淡い色のイラストが入った便箋につづられている手書きの文字には見覚えがあった。少し角ばっていて、全体的に左側に傾いている筆跡。彼女の書く、あの文字だった。
私はその短い文面の手紙を何度か読み返して、それから外に出かける支度をした。
***
ストレンジさんは私と彼女が飼っていた猫の名前だ。
彼女が拾ってきて、私が名前をつけて、世話は主に彼女がしていた。
そして、私が彼女と一緒に住んでいたアパートを出るときに彼女と一緒にそのアパートに残った。
白地の多い白黒柄の、ほっそりした体形のオス猫で、目が隠れないハチワレ模様が真ん中分けの髪型みたいに見える猫だった。
私も彼女も、その猫のことはいつも「ストレンジさん」と、さん付けで読んでいた。
私も彼女も、一緒に住んでいたときはお互いの名前を呼び捨てにしていたから、ストレンジさんは私たちの家で唯一敬称をつけて呼ばれる存在だった。
***
都電の雑司が谷駅に降り立った私は少し周りから浮いているように見えた。たぶん、この暑い夏の日差しの中で黒いワンピースを着ていたからだろう。
猫が死んだという手紙をもらって会いに行くときにどんな服を着るのが適切なんだろう?
私はわからなくて、クローゼットの中で一番黒っぽいワンピースを選んで、着た。喪服のようなつもりだったけど、白い水玉模様が入っていた。
彼女は私と一緒に住んでいた頃と同じアパートに今も住んでいた。
私と彼女が一緒に上京してきたときにルームシェアをしていた、雑司が谷霊園のお墓が窓から見える、2DKの、2階建ての古いアパートだった。
アパートの道をたどるのは数年ぶりだったけど、私は迷わなかった。
201号室の表札のないドアの横についているインターホンを押すと、しばらくして彼女がドアを開けた。
「来たんだ」
彼女はあまり驚いた様子もなく言った。
「うん。手紙、読んだ」
「立ち話もなんだから上がってよ」
「うん」
狭い玄関で靴を脱いで上がったアパートの部屋は私が出て行った頃とあまり変わっていない感じだった。私の荷物がなくなって、彼女の荷物が増えただけ、という感じだった。
アパートの部屋の中には彼女がいつも使っていたシャンプーの匂いがかすかにした。玄関と隣接するダイニング・キッチンの床には砂の入っていない猫用トイレがぽつんと置かれていた。
「ずっと腎臓の調子が悪かったんだけど、先週ね、死んじゃったんだ」
彼女は私を「彼女の部屋」に通して、椅子をすすめ、ペットボトルに入ったお茶を持ってきてくれた後、そう言った。
「彼女の部屋」というのは私たちがルームシェアをしていたときに彼女が使っていたほうの部屋ということ。私が使っていたほうの部屋は本棚と荷物とキャットタワーが置いてある部屋になっていた。
「ペット用の火葬場で焼いてもらって、骨も埋めてもらったよ」
「大変だったね」
「うーん、あの子が苦しそうにしてるのを見てるときが一番きつかったかな」
彼女はそう言って少し笑った。笑うとき、ちょっと口の端を歪める笑い方。
「まだ書いてるの?」
部屋の隅に置いてある机を見ながら私は言った。
「うん、一応ね」
彼女は少し恥ずかしそうな表情をしてそう答えた。
机の上は型落ちのノートパソコンと、ノートやメモ帳の切れ端、表紙を上にして開いたまま伏せて置かれた本、ボールペンなどで散らかっていた。彼女は「一応」と言ったけど、その散らかりぶりに彼女の苦心がうかがえるようで、私はしばらく何も言わずにその机を眺めていた。
***
私と彼女が東京に出てきたのは、そこが一番目標に近いと思える場所だったからだ。
私は音楽で、彼女は文章。私たちはそれを自分たちの職業にしたいと思っていた。
ルームシェアをして家賃を折半して、アルバイトをしながら、私は曲を、彼女は小説を書いた。
私は作った曲をCDに焼いて楽器店や個人経営のCDショップに置かせてもらったりした。
彼女は小説を、短いのや、長いのや、何本も書いて新人賞に応募したりしていた。
その生活は楽しかったけど、結果にはつながらなかった。
ある日、自分が睡眠時間を削ってまでやっていること、やってきたことがとても空しく思える瞬間が来た。
まるで空っぽの、誰もいない部屋に向かって一人で歌を歌い続けているような、そんな気がした。
私は音楽を辞めて、普通の仕事に就こうと思っていることを彼女に話した。
彼女は私をとめなかった。
私は千葉で就職先を見つけて、2年間ルームシェアをしていた雑司が谷のアパートを出た。彼女と、ストレンジさんを残して。
***
雑司が谷のアパートを出てから、彼女とはまともな連絡を一度もとらなかった。
彼女に対して後ろめたい気持ちがあったんだと思う。
ルームシェアをしていたところを出ていくことで彼女の家賃の負担が増えるという現実的な迷惑ももちろんあった。でも、それ以上に、創作を諦めるという選択をした自分が裏切り者のような気がした。
アパートを出るとき、彼女は「私は小説を続けるよ」と言った。
数年ぶりに会った今も彼女は小説を書き続けていた。時間が止まったようなあのお墓の見えるアパートの一室で、ずっと、一人で。
***
ペットボトルのお茶を飲みながら他愛のない話――お互いの近況なんかを少し話した後、私は帰ることにした。
「でも、私もそろそろどうしようかなって思ってる」
玄関口まで見送ってくれた彼女は足元に目を落としながらそう言った。
「とりあえず今書いているのをがんばってみて、それから考えるつもり」
彼女は自分に言い聞かせるみたいな調子で言った。
それから私たちは玄関先で「さよなら」を言い合って、別れた。
***
彼女と会った後、しばらくは何をしても上の空だった。
胸の中にぽっかりと穴が開いたような、そんな気分だった。
その穴は小さいけれど、心の一部が真空になってしまったような、そんな気がした。
理由はわかっていた。
彼女が小説を辞める。そのことが私の胸に穴を開けた。
自分が音楽を辞める決断をしたときでさえ、こんなうつろな気分にはならなかったのに。
帰り際の彼女の言葉を聞いて初めて、彼女が私にとってどれほど大きな存在だったかを知った。
私にとって、彼女が創作を続けているということがどれほどの意味を持っていたのかを、知った。
彼女は私自身だった。
私があの雑司が谷のアパートに猫と一緒に残してきたのは、私自身だった。
***
アパートで彼女と別れた後、数ヵ月して、私は彼女の小説が電子書籍として出版されたことを知った。
ルームシェアをしていたときに彼女が使っていたペンネームを、彼女は使い続けていた。その名前でインターネット検索をして、その本が出ていることを知った。
出版の日付を見ると、私が彼女とアパートで別れたときに書いていた小説のようだった。
一緒に暮らしているとき、私は彼女の書いた小説を読んだことがなかったし、彼女も私の曲を聴かなかった。それは一種のルールみたいなものだった。
でも、私はもう彼女のルームメイトではない。
私は彼女の小説を購入して、それを読んだ。値段は300円だった。
彼女の書く言葉をまともに読んだのはそれが初めてだった。もちろん全て電子書籍の素っ気ないフォントで書かれている。だけど、私にはそれが彼女の角ばっていて左に傾いた、あの文字で書かれているような気がした。
その小説は遺書のようにも、恋文のようにも読める。そんな作品だった。
それを読んでくれるかもしれない誰か一人のために書かれたような、そんな小説だった。もちろん彼女は私がそれを買って読むとは思ってもいなかったはずだけど。
一度読んで、それからもう一度最初から読み直した。
それから少し迷ったけど、電子書籍を購入したサイトでその作品のレビューを書いた。もちろん私の名前は出さなかったけど、その、誰かへの手紙のような小説に対して、返事を書くつもりで、かなり長いレビューを書いた。
***
その後も彼女とは特に連絡を取り合ったりはしなかった。私は自分のリアルをどうにかこうにか捌きながら、毎日暮らしていた。
半年くらいして、彼女が2作目を電子書籍で出版したことを知った。値段は前と同じ300円。私はそれも買って読んだ。そして、同じようにレビューを書いた。
それから数ヵ月に一度くらいのペースで、彼女は小説を出し続けた。
内容は様々だった。
私は小説のことはわからない。彼女の書く小説が優れているのかどうか私には判断できない。でも、彼女の書く言葉は誰かに向けて書かれた言葉だった。
その言葉の中には、あの雑司が谷のアパートで猫と一緒に暮らしていた彼女がいた。
***
3作目か4作目かを出す頃には、販売サイトのレビュー欄に私以外の人が書くレビューもちらほら目にするようになった。長いもの、短いもの。評価や内容も様々だった。
そして今年。彼女はあの1作目の遺書のような、ラブレターのような小説から数えて10作目の小説を出版した。
彼女の小説はどこの文学賞に選ばれることもないけれど、彼女の書く言葉が好きだという固定の読者がつくようになっていた。
私もその中の一人だ。彼女の小説は全て読んだ。そして、読んで感じたことを率直にレビューに書いた。
私はもう音楽はやっていない。普通に働いて、お金を稼いで、その日を精一杯生きている。
だけど、私はもうあの夏の日に彼女のアパートを出た後に感じたような胸の空洞を感じていない。
もう一人の自分が今もまだあの場所で小説を書いている。
私は時々そんなふうに思って、笑う。
ーENDー