『何者』考察|就活という名の仮面舞踏会
ああ、就活中じゃなくてよかった。
朝井リョウさんの『何者』を読み終わり、私は痛烈にそう思った。
だって、もしも就活中だったら、私は「私」でいられなくなりそうだったから——
今回は、そんな『何者』について考察していきたい。
◆本書はこんな人にオススメ
・就活ってどんな感じなんだろう?と気になる学生
・就活に不安を感じる就活生
・就活が終わり、卒業・就職を控えた大学生
・「人生ってなんなんだろう?」と夜中に考えてしまう社会人
・SNSや就活での「自分飾り」に違和感を覚える人
こんな人々におすすめな本である。
私が買った『何者』は映画版の特別カバーで、有村架純さんが大きく表紙を飾っている。
その裏表紙には、こんな一文が。
〈就活〉と〈SNS〉に”本当のこと”はあるのか?
ヴっ。
この一文を見て、私は本屋さんで思わず叫びそうになった。
(実際に声が漏れていたかもしれない。笑)
本書は「就活」(「就職活動」の略)がメインテーマの物語だが、
その裏テーマとして、SNSという存在が潜んでいる。
詳しい話はこの後するが、実は、本書は「就活物語」ではない。
むしろ、就活とSNS、ひいては人生という名の「仮面舞踏会」を描いた物語なのだ——私はそう解釈している。
そんな『何者』を、何者でもない私が、じっくりと考察していこうと思う。
◆『何者』のあらすじ
就職活動を目前に控えた拓人は、同居人・光太郎の引退ライブに足を運んだ。光太郎と別れた瑞月も来ると知っていたから——。瑞稀の留学仲間・理香が拓人たちと同じアパートに住んでいるとわかり、理香と同棲中の隆良を交えた5人は就活対策として集まるようになる。だが、SNSや面接で発する言葉の奥に見え隠れする、本音や自意識が、彼らの関係を次第に変えて……。直木賞受賞作。
『何者』の裏表紙の文章を引用した。
本書は佐藤健さん、有村架純さんらによって映画化されている。
映画化のキャストが、個人的には本書のキャラクターのイメージとかなり重なっているので、キャストも踏まえて、それぞれのキャラクターを紹介しよう。
なお、私の持っている映画化版の本の表紙には、「拓人@冷静分析系男子」など、キャラクターを表すキーワードも書かれていたので、それも合わせてご紹介したい。
以下、キャラ名@キーワード|映画のキャスト、の形で記す。
拓人@冷静分析系男子|佐藤健さん
瑞月@地道素直系女子|有村架純さん
理香@意識高い系女子|二階堂ふみさん
隆良@空想クリエイター系男子|岡田将生さん
光太郎@天真爛漫系男子|菅田将暉さん
では、それぞれのキャラクターについて、関係性を含めて紹介しよう。
※以下、ネタバレを含みます!!!
◆5人の就活生
(1)拓人@冷静分析系男子
一言でいうと「悟り系の観察者」。
周りとちょっと距離をおいていて、何事も俯瞰して観察している。
その上で、「俺だったらそんなことはしない」などと、批判の目を向ける。
本書は、この拓人の視点(「俺」という一人称)で描かれる。
(2)瑞月@地道素直系女子
一言でいうと「真面目ないい子」。
決して派手ではないが、自分の芯を持って生きている様が伝わってくる。
本書は拓人の視点で描かれているので、瑞月は拓人の「好きフィルター」を通して描かれる。
そのぶん、拓人の理想を反映した、かなり好意的なキャラクターとして描かれている。
(3)理香@意識高い系女子
一言でいえば「バリバリ就活生」だ。
留学、インターン、学園祭実行委員・・・。
「就活あるある」を一身に集めたような存在だ。(実際、理香は上記3つを全てやっている)
企業訪問を繰り返し、名刺まで作ってしまうような彼女のキャラクターに、拓人は失笑している。(瑞月とは対照的に、理香は拓人の否定的なフィルターを通して描かれる。)
(4)隆良@空想クリエイター系男子
一言でいえば「周りと違う自分が好きなヤツ」だ。
「就活なんてなんの意味があんの?」と達観しているフリをしつつ、実はコソコソと就活している。
意識高めの本を読み、バイトのことを「仕事」と呼ぶ。
就活には自分一人だけ私服で行き、スーツ姿の「量産型」就活生をどこかバカにしている——そんなキャラクターだ。
拓人・光太郎と同じアパートで、理香と同居している。
(5)光太郎@天真爛漫系男子
一言でいえば「ザ・大学生」だ。
バンドと酒に明け暮れ、コミュ力が異常に高い。
光太郎は「真剣」よりも「ノリ」という言葉が合うようなキャラクターとして描かれている。拓人と同居している。
その一方で、パパッと「ズボラ飯」を作るなど、手際や要領がいい一面もあることが伺える。(拓人はこの一面に驚いている)
◆就活の裏で描かれるSNSの呟き
本書は以上の5人の就活模様がメインストーリーなのだが、
その合間合間に、5人それぞれのSNSの呟きが描かれている。
本書の最初に、5人のSNSのプロフィールが載せられており、5人のどれを見ても、「こーゆーヤツいるいる!!!」と100回はうなずいてしまう。笑笑
先程の私のキャラ紹介よりも、本書に載せられている各キャラのSNSプロフィールを引用したほうが、何倍もキャラクターのイメージが湧くと思う。
そこで、一例として、本書の「理香のプロフィール」を引用する。
RICA KOBAYAKAWA @rika_0927
高校時代にユタに留学/この夏までマイアミに留学/言語学/国際協力/海外インターン/バックパッカー/国際教育ボランティア/世界の子どもたちの教室プロジェクト参加/【美☆レディ大学】企画運営/御山祭実行委員広報班班長/建築/デザイン/現代美術/写真/カフェ巡り/世界を舞台に働きたい/夢は見るものではなく、叶えるもの
SNSを使っていれば、誰しも一度はこんなプロフィールを見たことがあるだろう。
このような「あるある」な大学生を描く力、著者の朝井リョウさん、さすがすぎる・・・!
『桐島、部活やめるってよ』でも感じたが、朝井リョウさんは高校生や大学生の「実態」を描くのが本当に上手だ。
誰もが思わず「あるある!」「いるいる!」と思うようなキャラクターを描き出す。そんな限りなくリアルに近い小説のキャラクターが、本書『何者』の魅力の一つだろう。
では、ここからは、本書がなぜ我々の心に「刺さる」のか、その秘密を考察していきたい。
◆拓人に仕込まれたトリック
『何者』はよく「ラストのどんでん返し!」というフレーズで紹介されるのだが、その「どんでん返し」をざっっくりと紹介したい。
(※超絶ネタバレです)
「観察者」を気取る拓人は、実は就活浪人の5年生だった。さらにTwitterの裏アカで光太郎たちをバカにしていたことが理香にバレてしまい、「そんな人、どの会社だって欲しいと思うわけないじゃん」と理香に否定される。
これが「どんでん返し」の内容だ——と、私は解釈している。
ただ、これだけでは「どんでん返し」の意味が伝わりにくいの、なぜこれが読者に刺さるのか、その秘密を考察していく。
先ほども話したように、『何者』は拓人の視点で描かれる。
「俺」という一人称でストーリーが描かれるのだ。
これは、言い換えると、読者のあなたは「拓人」の目からみた、光太郎や瑞月たちを見ることになる。
ここまでは普通だろう。一人称の小説によくあることだ。
しかし、ここからが『何者』の面白いところだ。
拓人の目線は、一人称と同時に「地の文」の役割も担っている。
「一人称」が「主観的な」拓人の目線だとすると、
「地の文」は「客観的な」「何者か」の目線である。
簡単にいえば、拓人の目で見た「主観的な」現実が、あたかも地の文のような「客観的な」事実に見える工夫がなされているのだ。
たとえばこんな文章がある。
座って座って、と促され腰を下ろしたじゅうたんは、陽を思いっきり吸い込んだようにふかふかだ。もちろん、ゴミなんてひとつも落ちていない。フローリングの床に直接座らざるをえない俺たちの部屋とは、いつか来るであろう客人への気の遣い方が違う。
(p.43)
この太文字にした「もちろん、ゴミなんてひとつも落ちていない。」という一文、まるで「地の文」であるように見えないだろうか?
しかし、これはあくまで拓人の目から見た、「主観的な」一人称の文なのだ。
さらに、文を分解して見てみよう。
「落ちていない。」「気の遣い方が違う。」のように、これらの文章は断定の形で書かれている。
言い換えると、「落ちていないと気づいた。」「気の遣い方が違うなあ。」のような、「語り手の感想」であるとわかるような「主観的な書き方」はされていない。
つまり、あたかも「落ちていない。」「気の遣い方が違う。」のが、拓人の「主観的な感想」ではなく、「客観的な事実」であるような書き方がされているのだ。
ここに、朝井リョウさんのテクニックが光っている。
拓人のキーワードを思い出してほしい。
拓人は「冷静分析系男子」だ。
いつも周りを俯瞰的に観察しており、まるで他人事であるかのように分析している。
上記の「落ちていない。」「気の遣い方が違う。」という書き方は、まさに拓人が「観察者」であり、周囲を俯瞰的に観察していることを物語っているのだ。
このような「客観的事実に見せかけた拓人の主観的な感想」というトリックによって、読者は知らず知らずのうちに拓人に感情移入し、拓人の「主観的な感想」を「事実」だと信じ込んでしまうのだ。
「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。」という文章を見て、
「え? 本当におじいさんとおばあさんがいたの??ウソなんじゃない?」とは思わず、その文章を「事実」と受け入れるように、
「落ちていない。」「気の遣い方が違う。」という文章(=拓人の主観的な感想)を「事実」と受け入れてしまう。
——これが、朝井リョウさんの仕込んだ「どんでん返し」への伏線・トリックである。
◆読者から当事者へ——「あなたのことですよ!」
まとめよう。
「地の文に見せかけた拓人の一人称」というトリックによって、読者は知らず知らずのうちに拓人の言ったことを間に受けてしまう。——拓人のする「分析」がわりと鋭いから、なおさら受け入れてしまうのだ。
簡単にいえば、
「もちろん、ゴミなんてひとつも落ちていない。」という文章(=拓人の主観的な感想)を見て、「ふむふむ。ゴミは落ちてなかったんだな」と納得する。
それを繰り返していくうちに、理香や隆良を否定的に描く文章(=拓人の主観)も、「ふむふむ。たしかに」と納得しやすくなってしまうのだ。
理香と隆良は同棲しているが、2人の部屋に行った場面に、こんな描写がある。
あのふたりは、格好悪いところをお互いに見せることができていない。一緒に暮らすって、そういうことじゃないと思う。
(p.93-94)
ここでも「できていない」と、拓人の主観的な感想があたかも客観的な事実であるかのように描かれている。
このトリックによって、
拓人の「理香や隆良はイヤな奴だ」というフィルターを通して見た主観的な感想を、読者が「ふむふむ。できていないのか」と受け入れように仕向けられているのだ。
そのようにして、知らず知らずのうちに、読者は拓人の見方・考え方に共感していく。
そしてラストの数ページで、読者は突き放される。
拓人が急に、「地の文」から「一人称」に戻るのだ。
いや、戻らされるのだ。
拓人のTwitterの裏アカが理香さんにバレている、と知らされるシーン。
「私はあんたと一緒じゃない」
あんた、という言葉が平手打ちのように飛んできた。
「だってあんた、ほんとは私のこと笑ってんでしょ?」
座椅子に座っている理香さんは、俺を見上げるようにしている。
(p.303)
これまでは、拓人の目線(一人称)で、ストーリーが進んできた。
だが、このシーンからは、「理香が話し、拓人が聞く」という別のストーリーの進み方になる。
要は、拓人は「話し手」から「聞き手」になったのだ。
これによって、読者のあなたは、物語を眺める「傍観者」から、理香の話を聞く「当事者」になる。
「私はね、誰かのこと観察して、ひそかに笑って、それで自分が別の次元に立っているなんて錯覚したりしない。絶対にしない。あんたと私は全然違う」
(p.303)
「本当は、瑞月のことも光太郎くんのことも隆良のことも、笑ってるんでしょ?」(中略)
「留学のことだって、インターンのことだってボランティアのことだって名刺のことだって、本好きでもない光太郎くんが出版社目指してることだって隆良が分厚くて難しそうな本をずっと読み終わらないことだって、何もかも丸ごと笑ってたんでしょ?」
(p.308)
「あんたは、誰かを観察して分析することで、自分じゃない何者かになったつもりになってるんだよ。そんなの何の意味もないのに」(中略)
「いい加減気づこうよ。私たちは、何者かになんてなれない」
(p.308-309)
これらは全て理香の発言だ。畳みかけるように続く理香の発言(叫び)を、拓人は呆然として聞いている。
それと同時に、読者のあなたはこう思うはずだ。
「これ、私のことだ」
あなたは『何者』に登場するキャラクターが、小説の中の”フィクション”であるからこそ、登場人物を応援し、ときにはバカにすることができる。
言い換えれば、あなたは拓人という語り手の目を通して『何者』を眺める「傍観者」だからこそ、登場人物を笑うことができる。
理香が学生なのに名刺を作っていることも、隆良が難解な本を読んでいることも、光太郎がバンドに明け暮れていることも。
本書では、登場人物のポジティブな側面よりもネガティブな側面が多く描かれている。
それは拓人が人の悪い面を「観察」して「分析」してているからだろう。
その拓人の目線を通して本書を読むあなたは、あくまで「傍観者」でいられると思い込んでいるので、各キャラクターのネガティブな側面を笑うことができたのだ。
しかし。しかしだ。
理香に拓人がその正体を暴かれることで、あなたは物語を眺める「傍観者」から、説教される拓人と同じ「当事者」に引きずり下ろされるのだ。
「私はね、誰かのこと観察して、ひそかに笑って、それで自分が別の次元に立っているなんて錯覚したりしない。絶対にしない。あんたと私は全然違う」
「いい加減気づこうよ。私たちは、何者かになんてなれない」
この言葉が、そっくりそのまま「傍観者」を気取っていた読者に突き刺さる——これが、朝井リョウさんの仕組んだ「どんでん返し」なのだ。
◆妄想級の深読み——「どんでん返し」をさらに考察する
以上が『何者』に仕組まれたトリックであり、読者に本書が「刺さる」秘密なのだ。
しかし、これだけでは終わらない。
「傍観者」から「当事者」へ——。
読者を観客席からリングに引きずり込む仕組みが他にもあると、私は考えるのだ。
朝井リョウさんの小説の魅力は、「誰か1人はきっと共感できるキャラクターがいる」ということだ。
『桐島、部活やめるってよ』もそうだが、朝井リョウさんの小説では、色々な立場、属性のキャラクターが登場する。
クラスの中心にいるヤツ。
クラスの端にいるヤツ。
真面目にコツコツやるヤツ。
ノリと要領で生きるヤツ。
いろんな人物が登場するが故に、あなたは「これ、私だ!」と思わず肩入れしたくなるキャラクターに出会えるのだ。
その「色々な立場、属性のキャラクター」が、きちんと「あなたに」重なるような工夫も、しっかりとなされている。
簡単にいうと、人間を「あるある」なグループに分けて、各グループのキャラクターを登場させるのだ。
たとえば、『桐島、部活やめるってよ」では、こんなグループ分けがされていた。
・運動部と文化部
・部活をやってる人とやっていない人
・クラスの中心にいる人と端にいる人
このようにグループ分けをした上で各グループのキャラクターを登場させる。
すると、高い確率で、あなたに当てはまるグループのキャラに出会える——という工夫なのだ。
では、『何者』のキャラクターをグループ分けしてみると、おおよそこんな感じになる。
この図をみると、「ノリ、消極的、意識低い」かつ「静か、内向的」のグループだけ、誰もキャラが当てはまらない(=不在である)ことがわかる。
え?「拓人の名前がない」って?
勘が鋭いですね・・・!
拓人はこの図の「枠組みの外」から、理香、光太郎、瑞月、隆良を「観察、分析」しているのだ。
しかし、理香に「傍観者」から「当事者」へ引きずり込まれる。
そして、「不在」だった枠に、拓人が放り込まれる——。
「観客じゃなくて、お前もプレーヤーなんだよ」——観客席からリングに引きずり込まれる感覚。
物語の間ずっと、拓人に感情移入してきた読者のあなたは、ラストの数ページで、拓人と同じくリングに引きずり込まれる。
そして「私はね、誰かのこと観察して、ひそかに笑って、それで自分が別の次元に立っているなんて錯覚したりしない。」と、
これまで密かにキャラクターたちを笑ってきたことを暴かれる。
まるで、自分の心なかの醜い部分を覗き見られたかのような居心地の悪さを覚える——。
この「これまで空いていた(=不在だった)枠に引きずり込まれる感覚」が、「どんでん返し」のインパクトを大きくしているのではなかろうか——私はそう考える。
◆さらなる考察——瑞月だけが別の場所に住んでいる意味
拓人、光太郎、理香、隆良、瑞月——。
それぞれの人生を歩み始める、5人の就活生。
この5人の「住んでいる場所」に注目すると、また面白いことがわかってくる。
拓人・光太郎・理香・隆良の4人は、同じアパートに住んでいる。
そして、拓人・光太郎は同居しており、理香・隆良は同棲している。
この「理香・隆良ペア」の部屋は、「拓人・光太郎ペア」の部屋の「上」にある。
細かなことだが、この部屋の上下が、彼ら2ペアの、就活への意識の上下、さらに、4人の力関係の上下などを暗示しているのでは?と考察している。
さらに。
拓人、光太郎、理香、隆良の4人が同じアパートに住んでいるにもかかわらず、瑞月1人だけが、別の場所に住んでいる。
この意味は?
瑞月だけが別の場所に住んでいる意味はなんだろうか?
——この「拓人・光太郎・理香・隆良の4人」と「瑞月1人」の住む場所の対比は、次のようなことを暗示していると考えている。
「拓人・光太郎」ペア、「理香・隆良ペア」が同じアパートに住んでいることは、「学生」を暗示している。
言い換えると「大学生っぽさ」を暗示しているのだ。
仲の良い友達どうしで同居する。恋人と同棲する。これは「いかにも」大学生の生活でありそうなことだ。
それに対し、瑞月が別の場所に住んでいるのは、「現実」を暗示している。
言い換えると、「大人という現実」を暗示しているのだ。
それだけではない。瑞月という存在自体が、「現実」や「大人」を暗示している。
瑞月のこんなセリフがある。
——人生の中にまだまだ素敵なドラマを見つけられる光太郎をね、いちいち現実のことを考えなくちゃいけない私なんかが邪魔しちゃいけないって思ったの。
(p.273)
さらに、瑞月の印象的な独白に注目したい。
心の叫びにも似た彼女の独白は、夜に読んでいた私の心を震わせた。少し長くなるが、どうか見ていただきたい。
「最近思ったの。人生が線路のようなものだとしたら、自分と全く同じ高さで、同じ角度で、その線路を見つめてくれる人はもういないんだって」
瑞月さんはまっすぐに隆良を見つめている。
「生きていくことって、きっと、自分の線路を一緒に見てくれる人数が変わっていくことだと思うの」
(p.249-250)
「だから今までは、結果よりも過程が大事とか、そういうことを言われてきたんだと思う。(中略)」
瑞月さんは言った。
「もうね、そう言ってくれる人はいないんだよ」
(p.251)
「私たちはもう、たったひとり、自分だけで、自分の人生を見つめなきゃいけない。一緒に線路の先を見てくれる人はもう、いなくなったんだよ。進路を学校の先生だっていないし、私たちはもう、私たちを産んでくれたときの両親に近い年齢になっている。もう、育ててもらうなんていう考え方ではいられない」
(中略)
「私たちはもう、そういう場所まで来た」
(p.251-252)
拓人、光太郎、理香、隆良、瑞月の5人の中で、瑞月は現実的な存在として描かれる。
「@地道素直系女子」というキーワードは、実は、「@現実を見ている女子」の方が近いのかもしれない。そんな彼女の姿に拓人は恋心を寄せている。
◆おわりに——仮面舞踏会のその先に
〈就活〉と〈SNS〉に”本当のこと”はあるのか?
この問いに全力で答えを求める5人の姿、それが『何者』に描かれている。
就活とSNS、これは一見すると全く別のものに見えるかもしれない。
しかし、これら2つは拓人の目線を通して同じものとして描かれる。
すなわち、「自分を”何者”かに見せようとする、仮面舞踏会」なのだ。
作中では、5人のSNSのつぶやきが何度も登場するが、そのつぶやきをみると、彼らがSNSの中で”何者か”になろうとしていることが伝わってくる。
——彼らのことを笑うのは、簡単だ。
でも。
でも、それはあなたも同じなんじゃない?
『何者』は、あなたに向けて、そんなメッセージを発している。
就活という仮面舞踏会がお開きになり、彼ら5人は会場を後にする。
舞踏館のドアを開け外に出ると——
——そこには人生という名の、仮面舞踏会が広がっている。
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