贅沢とは自らに制約を課さず、行動を拡張してくれるもの
社会人1年目の冬、とあるコートを買った。
当時の私にとってそのコートの値段は、服というものに対して支払った最高額であり大金だった。
その冬はそのコートを着ることを1日の密かな楽しみにしていた。
珍しく雪の降ったあの日、私はそのコートを着ることを拒んだ。
それはコートが汚れてしまうと思ったからだ。
でもその瞬間、違和感を感じた。
そのコートの価値が私の中で下がった様な気がしたんだ。
「身の程を知れ」見えない誰かがそう囁いた。
使いこなせないものに振り回される様は、滑稽に見えてしまうものだ。そこには、自分が手にし得ない幸福を手にしているから、せめて不幸になって欲しいという嫉妬の念が僅かながらに含まれている。
余裕が有り余って仕方がない人にとっては、まるで恋愛に慣れない高校生のカップルを見る時の様に、不器用が故にちょっと微笑ましい気持ちになったりするのかもしれない。
どちらにせよ、汚れるのが嫌で着ることができないハイブランドの服も、傷がつくのが嫌で身につけられない高級時計も、盗まれるのが嫌で首にぶら下げることができない宝石のネックレスも、あなたを特別な場所に連れて行ってくれはしないだろう。
そして、もしもうっかり傷をつけてしまった日には、その高価なものの価値が下がってしまったことに、それはそれは落ち込むのだ。
だから本物の高級品は、それに傷がついたところでなんとも思わない本物のセレブにしか扱いきれないのだろう。
私たちの様な凡夫が、節約をして精一杯貯めた泣け無しの貯金を使って、もしくは長期のローンなどを組み他人の金を借りてまで、身の丈以上のものを手にしたところで、それは贅沢などではなくて、自ら自分の手に手錠をつける様なものだと思うわけです。
厄介なことにその鎖というのは、(うまく振る舞えば)周りからは見えない鎖であるということ。
透明であるが故に、自分でも自分を縛っていることを忘れてしまい、どんどん縛りは強固になる。
インスタグラムを覗けば、贅沢な暮らしをアピールしているけれど、実は見えない鎖で身体中を雁字搦めに縛られている人をたくさん見ることができるだろう。
そして見えない鎖の存在に気づいた時、ようやく私たちは自由ではないことに気づくのである。
「贅沢とは自らに制約を課さず、行動を拡張してくれるもの」と私は定義したい。
雪の降ったあの日、私がコートを着ることができなかったあの時のように、私が贅沢だと思っていたものは贅沢などではなかった。
もしあれが安いプチプラのコートであったなら、雪が作る染みなどを気にすることなく私は迷わず雪の中を颯爽と歩くことができただろう。
他にも、雨の日に履くのを渋ってしまう本革の有名な靴よりも、雨も気にせずに履ける合皮の靴の方が、あなたの世界を拡張してくれるものだったりするのかもしれない。
自らに制約を課してしまう高級品より、なんの縛りもなくむしろ自らの行動を拡張してくれるもの。
それこそが贅沢であり自由だ。
綺麗事はおいておいて、私も普通の人間でありブランド物や高級なものが好きだ。
そこには確かに揺るぎない価値があり、時には価値が上昇さえするし、所有しているだけで想像もしていなかったくらい儲かることもある。
同じブランドが好きな人と出会えば、会話が弾むことだってあるかもしれない。
そして何より、ブランドものは自慢できる。
本当は自慢になどなっていない。
そんなことはわかっている。
それでも気持ちよくなれる。
生物学的、進化論的に見ても、私たちが高価なものを欲しがるのは、利己的な遺伝子による生存戦略の一つであり、現代において超強力な財力という生命力の強さを示す、最も手軽で効果的な方法であり、簡単に自信を獲得する最良の方法なのかもしれない。
だから多くの人は、価値の高いブランド物を欲しがる。
こんな文章を書いている私も、ブランド物を自慢してほくそ笑んでいる様な大多数の人間と何ら変わりはない。
これまでいくつも、身の丈以上のものをそれっぽい理由をつけて「必要なもの」だと正当化して手にしてきた。
そこには多くの人が価値を信じて疑わないものを手にした喜びが間違いなく存在した。だがそれと同時に例外なくそれは私にとって不自由の鎖となった。
私が贅沢だと思っていたものは贅沢などではなかった。
もっと大雑把に大胆に、気張ることなく思い通りに使えるものを、自由に扱うことの方がよほど贅沢な行いであった。
だけれど、どうしようもない物がどうしても欲しくなるのが、どうしようもない人間という存在である。
身の丈以上の高価なものを手にしたところで、自ら足枷を増やすだけで、本物の贅沢などではないのだろう。
だがそれを自覚した上で、それを手にしたいと思ったのなら、それは正真正銘あなたが欲する無駄なものであり、所有という気持ち良さと引き換えに大いなる不自由を得る、そんな無益で空費な実に人間らしい行いを楽しむのもまた贅沢と呼べるのかもしれない。
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