【短め短編小説】『A Brush(ア・ブラッシュ)一触れ☆Episode 1 私の場合』《A bit painful but Heart-warmingなお話》(3455字)
英語で”a brush”は、「一触れ」……ちょっと触れることという意味がある。
そして、私の元彼、竜崎蓮は、この一触れに纏わる不思議な体質のおかげで大変な人生を送っている。蓮と私が別れたのも、その体質が原因だ。
でも私は、蓮と別れることにはなったけれど、その特殊な体質のおかげで救われた。
蓮と私が出会ったのは、私達が大学4年の夏だった。
私は涙で顔をぐちゃぐちゃにして、清水公園の噴水の前のベンチに座っていた。私は両手で顔を覆い、声を殺して泣き続けた。
カップルや家族連れの楽しげな声が聞こえた。私が決して入っていけない幸せな世界があった。そう思うとますます涙が溢れた。
私は居たたまれずに、突然立ち上がり歩き出した。すると途端に、壁にぶつかった。
「きゃあっ!」
私は、壁に弾き飛ばされるように転んだ。
「大丈夫ですか?」
壁が喋った。
顔を上げると、同じ年頃と思しき、背の高い綺麗な顔の男子が私の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「あ、ごめんなさい。前見てなかったかも」
私は差し出される手を素直に取って立ち上がった。
「いいえ、僕の方こそ、急いでたんで。怪我はありませんか?」
穏やかで温かい声だった。
私は自分の体を見渡した。右の膝小僧から少しだけ血が出ていた。
「あ、血が。あそこで洗いましょう。僕、バンドエイド持ってます」
そう言って蓮は水道のある場所を指差した。
傷口を洗い流し、ベンチに戻ってバンドエイドを貼った。
「ありがとうございました。助かりました」
私は蓮に礼を言い、まさに歩き出そうとしたそのときだった。
「ねえ、よかったら話聞くよ」
蓮は、また私を心配そうに見ていた。
「え?」
「辛いこと、あったんでしょ? 地下鉄に乗るなら、顔、洗って直したほうがいいかも」
私は一瞬、新手の勧誘か詐欺商法かと思った。でも、蓮は、心から私のことを心配しているように思えた。
そう思ったら、ちょっと前まで自分が泣いていた理由を思い出した。ショックが痛いほど鮮やかに蘇り、苦しい気持ちが私を飲み込んだ。
私はまた泣き出した。
私は蓮に、清陽にフラれたことを打ち明けた。清陽との2年8ヶ月のすべてをぶちまけた。
どれほど清陽が好きだったか、どれほど自分にとって大切な存在だったか、自分がどれほど清陽との将来を夢見ていたか、清陽と一緒にいる自分がどれほど幸せだったか……。
言えば言うほど私の感情は昂ぶった。あまりにも強い感情が怒涛のように押し寄せてきて、自分が壊れてしまうのではないかと思った。
でも蓮に話を聞いてもらううちに、そんな津波のような感情は力を失い、徐々に遠くへ、遠くへと退いていった。そして私は、気怠い安らぎを感じた。
蓮は私の目を覗き込むと、微笑んだ。
「落ち着いたみたいですね。よかった。清陽さん、あなたにそんなに愛されて幸せな人だ。でも、あなた達が共に過ごすべき時は終わったんだと思います。あなたには別に居るべき場所があるのでしょう」
私は蓮の言葉を素直に聞くことができた。そうだ。清陽が別れを切り出す前から分かっていた。
遠方で就職することを選んだ清陽への私の思いは、前ほど純粋ではなくなっていた。就職が決まってからの半年、清陽も私も、なんとなく惰性で一緒に居た気がする。
私は、枯れてしまった花を握りしめながら、花は枯れていないんだと一生懸命に自分に言い聞かせようとしていた。
私は、私を見つめる蓮に微笑んでいた。
「あなたの言うとおり。私達は終わってた。気づかないふりをしていただけ。話、聞いてくれてありがとう」
蓮はまた優しく微笑んだ。
「いいえ、あなたが元気になってくれて僕も嬉しい。僕は竜崎蓮と言います。あなたは……」
「藤澤蘭子です」
「蘭子さん、また話を聞いて欲しくなったらメールください。僕は、日曜日はだいたい空いてます」
私達はメールアドレスを交換した。蓮は、「念のため」と言って携帯番号も教えてくれた。
私は、次の日曜日も、その次の日曜日も、そしてそのまた次の日曜日も蓮と会った。
清陽のことは吹っ切れたと何度も思った。でも忘れたと思った途端にどうしようもない寂しさに襲われた。
そして私は、蓮に「話を聞いてください」とメッセージを送った。
私は蓮に話を聞いてもらい、清陽のことを完全に忘れられないまま、蓮に惹かれていった。
蓮はそんな私の気持ちを受け入れてくれた。蓮は私の彼氏になった。蓮は、心も体も、私のすべてをまるごと包んで愛してくれた。
クリスマスを迎える頃には、私の中から清陽の存在はすっかり消えた。私の心の傷も完治した。蓮と過ごすクリスマスは、私を夢のように温かく幸せな気持ちで満たした。
年が明けると、久しぶりに清陽から連絡があった。
「卒業前に、飯おごらせてくれ。そういえば、蘭子の就職祝いもしてなかったし、俺、引っ越しなんかで卒業式出られないから、お別れ会だ」
私は、意外なほど冷静だった。清陽の声を聞いても切なくなることはなかった。
私は友達として清陽に会おうと思った。すがって泣く私を、清陽の中の最後の私の記憶にして欲しくなかった。
蓮にそう言うと、蓮はいつもと変わらず穏やかに微笑んだ。
「俺もそれがいいと思う。いい感じで本当に終わりにできるんじゃない?」
5ヶ月ぶりに会った清陽は、少しだけ前より大人びて見えた。
そして、もうふざけて花火を持って走り回ることも、無謀にも夜通し歩いて大阪に行こうとすることもないであろう清陽は、私に深々と頭を下げた。
「蘭子、ごめん。俺、自分のことしか考えてなかった。同じ別れるのでも、もっと別のやり方あったって今なら分かる。ひどいことも言った」
私は驚いた。
「え、いいよ。もう私、大丈夫だし。それに、清陽の就職が決まったのに……それが清陽の夢だって知ってたのに、私、心から祝ってあげられなかった。だから、もうだめだって分かってた、心のどこかで」
清陽は、心底ほっとしたような顔をした。
「蘭子がそう言ってくれて、俺、救われたよ。蘭子、すごく辛かったって聞いたから」
私は、清陽の言葉に息を呑んだ。清陽を呆然と見た。
「蘭子の彼氏、竜崎君だっけ? 2週間ぐらい前かな? どんだけ蘭子が悲しんで辛い思いしたか、聞かされた。だから蘭子に謝れって」
私は言葉を失った。蓮がしたことに急に腹が立った。
そして、私は蓮に詰め寄った。
「どうしてそんな余計なことするの? 清陽とはもう終わってるのに!」
私は、そのとき初めて、蓮の悲しそうな顔を見た気がする。
何も言わない蓮に私は畳み掛けるように言った。
「蓮、何? 清陽と私のこと疑った? 心配しないで! 今は私……、今は私……」
私は「蓮が好きだから」と言おうとした。でも言えなかった。私の中に、蓮が好きだという思いを欠片も見つけられなかった。
「え? 何? 私、どうしちゃったの?」
蓮は寂しそうに笑った。
「うん、蘭子はもう大丈夫ってことだよ。8月のあの日、俺、蘭子とぶつかったとき、蘭子の苦しみがすごい勢いで伝わってきた。俺、ちょっと触るだけでその人の辛さが全部分かるんだ。それでその人の苦しみが大きければ大きいほど、その人を放っておけなくなる。でも、その人の傷が癒えて立ち直っていくと、自分の中に溜まったその人の苦しみで心が恐ろしく痛くなる。その痛みから開放されるには、その人の苦しみの原因を作った誰かにその人に謝ってもらわなきゃならない。謝ってもらえば、痛みから開放される。同時に、その人からも必要とされなくなる。自分がどんなにその人と一緒にいたくても」
救いのない蓮の真実に、私の胸はひどく痛んだ。蓮のことを心から可愛そうだと思った。私は恋人としてではなく、友人として蓮を抱きしめた。
蓮が言ったとおり、私は蓮がいなくても平気だった。でも律儀な私は、蓮と友達になることに決めた。
あれから12年、蓮と私は友情を育んだ。もしかしたら普通の友情とは違うかも知れない。
たとえば、私は蓮のことを忘れてしまうことがある。だから私はスマホの予定表で毎週日曜日、蓮にLINEするよう通知設定している。
でも蓮と会うといつでも、私は優しく温かい気持ちに満たされる。私はこれからもずっと蓮と友達でいたい。
Copyright 2023 そら
【そらからのメッセージ】
居てくれるのが当たり前になってしまっている大切な友達。居てくれることに感謝の気持ちを忘れないでいたいです。友達が必要とするときには、その傍らで「私は君の味方だよ」と言いたいです。ちなみに英語では"I 'm on your side"や"I got your back"です。
Copyright 2023 そら
*この作品は『小説家になろう』にも掲載しています。
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