春になったら彼女は
・短編小説
・原稿用紙5枚分
三月の寒空の下、麦わら帽子をかぶった楓先輩が目の前を歩いていく。
高校から駅までの近道の公園。
古い石段を降りるたびに、帽子からのびる髪がふわふわとゆれる。
片手に一つずつ、つまり両手に持たされていた、先輩の私物の入った紙袋が膝にこすれてがさがさと音をたてた。
来週の卒業に向けて、ロッカーを整理したのだそうだ。
麦わら帽子は、体育祭の時から部室に置きっぱなしだったのだという。
確かに、あった。
小道具と衣装がいつも乱雑に置いてあるから、誰かの私物だとは思わなかった。
下から登ってきた若いカップルが、にんまりと猫のような目をして、すれ違いざまに先輩を見た。
明らかに、季節外れなあの帽子のせいだ。
申し訳ないが、先輩はみんなが振り返るような絶世の美少女というわけでは決してない。それなのに、自分は先輩から目をそらすことができない。
卒業したら先輩は海外に行ってしまう。
ちっとも知らなかった。
留学すると聞いたのはつい二時間前のこと、演劇部だけの三年生への感謝の集いで。
帰る方向が同じという理由でせっかく荷物持ちの任を拝命されたというのに、留学の知らせに心が乱れてこの状況に集中できない。
「今日は無口なのね、まことくん」
なぜ突然「くん」なのだろう。
――あれだ、文化祭の「黒蜥蜴」で小林少年を演じたせいだ。
あんなのもうずっと前のことなのに。
先輩の発想はいつも突飛だ。
「楓先輩、日本の大学じゃ駄目だったんですか?」
「あら、どうしてそんなこときくの?」
先輩はいつも軽やかだ。
質問はさらりとかわすし、さっきみたいな好機の目だってどこ吹く風だ。
「わかった、さみしいんでしょ」
そうですよ、と言ったらどんな顔をするだろうか。
「同じところ受けるつもりだった?」
どうしていつも当てちゃうんだろうこの人は。
「駄目よ、まこと。自分が将来やりたいことをちゃんと認識して、それを実現しうる進路を選ばなければ」
毅然としてそんなことを言う先輩の芯の強さにはほれぼれとする。しかし同時に、突き放されたような気がした。
風が吹いて、先輩の髪がまたふんわりとゆれた。
甘い香りが鼻腔をかすめた。
こんなに近くにいるのにあの髪にすら触れられない。
いっそもう、あの麦わら帽子になりたい。
そばに居たいから追いかけていきたい、それのどこがいけないのだろう。
――いずれにせよ、その淡い夢はもろくも崩れ去ってしまった訳だが。
先輩が立ち止まったので同じく足を止めた。
「なんか自意識過剰なこと言った。ごめん」
先輩は麦わら帽子をぬぐと、私の頭にかぶせた。
「似合うね。おさげ髪とよく合う。それ、あげるよ」
もういらないんですか、と聞きかけて、こらえた。その次に言いたいことも頭に浮かんでしまったから。
――もう全部捨てていっちゃうんですか。
――私のことも忘れちゃうんですか。
「かわりに新しい帽子、私に買ってくれる? 向こうに持っていくから」
突然の提案に返す言葉を見つけられずにいると、先輩が小首をかしげた。
「交換っこしたら、ずっとそばに居るみたいで楽しいでしょ?」
先輩はいつだって突飛だ。
予想もつかないことばかり。
きっと、いつまでもこの人にはかなわない。
脱帽という言葉が脳裏に浮かぶ。
シャレにならないけど、しょうがない。
「じゃあ買ってあげますから、どこかに置きっぱなしにしないでくださいね」
先輩は、やったあと言って、ぴょんと飛んでみせた。まるで、無邪気さの表現方法の手本を見せるかのように。
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