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風の谷は未来のモデルか?~求~

さてさてさて、今日はバイトではなく、関わらせていただいているとある映画祭の運営会議を済ませて、滅多に食さないカップ焼きそばを食べながらこれを書いている。映画館が危機に陥っているのは当然なのだが、映画館を借りて開催する映画祭も同じように楽な道のりではない。客席は半分にしなければならないだろうし、この後コロナの第2波第3波が到来すると、もう既に春開催から延期しているにも関わらず再延期をしなければならないかもしれない。そうなればまた余計に予算がかかってボランティアの運営委員会が厳しい状況になることは避けられない。映画界隈の皆様はもちろんイベント関係の方々、正直やってらんないぜと思うこともあるし、安心できない日々が続くけれど、共に苦難を生き延びよう。

昨日の続き~一昨日の序・昨日の刃から読むのがいい鴨~
昨日はトルメキア&ペジテを①として現代人類の鏡映しであるとしたが、今日は②風の谷の民と③ナウシカを検証して我々がこれから目指すべきかもしれないモデルを探ろう。
②と③の違いをはっきりさせるための分かりやすいシーンがトルメキアの戦艦墜落後に生き残った虫への対応にある。羽を傷めて息も絶え絶えの虫が戦艦から出てきたとき、風の谷の民がどのように行動したかを思い出してほしい。あるものは殺さなければ虫を呼ぶと言い銃を向け、あるものはそんなことをしたらもっと大量の虫が怒りに狂い襲ってきて谷が大変なことになると言い、だから撃つんじゃないと止めた。しかし、ナウシカがしたことは虫を殺すわけでもなく、放っておくわけでもなく傷んだ羽でも飛べると安心させ共に空へ飛び立つことだった。この差は何だろうか?小生が言いたいのは、風の谷の民の判断基準は虫の生命にあるのではなく自分たちの安全にあり、ナウシカの判断基準は生命の尊重にあるというところだ。つまり、風の谷の民が虫を殺さないのは自分たちが生き延びるたいからで、ナウシカが虫を殺さないのは虫を殺したくないからだということ。


これは正直どっちが正しくてどっちが間違っていると言える2択ではない。我々が人間であり、一つの生命体である以上、自らの生存を望む気持ちは当然であり虫の命よりも自分たちの命が大切だと判断するのは決して間違っていない。反対にナウシカは人間の命と同じように虫の命も大切だと考え、生命の間に大きな差を意識していない。もちろん親しい人間や風の谷の民を守るため自然を害することもあるかもしれないが、作中ではそういう姿は描かれないし、王蟲の大軍が襲ってきたときも傷つけたのは自分の体だけだった。これはこれで尊い考えであるように見えるし、現実にこんな人がいたら小生は正面切って「あなたは間違っている」と言えそうにもない。(おそらく現実世界でナウシカに一番近いのは宮崎駿自身であると小生は考えている。宮さんは人間に対する興味の数倍自然を愛している節があると鈴木Pが何かのインタビューで言っていた。ソースは見つかれば追記するが、だからこそこんなヒーロー然としたキャラクターが生み出せたのだと思う)昨日も述べたように、ナウシカは自分以外の生命を守るためなら自己犠牲を厭わないといういささか高潔すぎる精神の持ち主なのだ。だが、果たして人間が誰しもナウシカを目指せるかと言えばそんなわけはない。基本的に人間というものは保身に走ってしまい、誰かのために命を捨てるなど到底できるものではないのだ。ましてや見ず知らずの人間や虫のために命を投げ出そうなんてできない。

風の谷は追求すべきべき未来のモデル
だからこそ、小生は人類にせめて風の谷の民水準にまでは成長してほしいと思うし、未来のモデルとして風の谷は優秀な存在なのだ。なにも今すぐヴィーガンになって動物性の食糧は食べず、家の庭には木を植えて、エアコンはつけず二酸化炭素排出を抑え、マイバッグを持ちなさいetc...と説教がましく言いたいのではない。あくまで人間は自然の一部であり、自然の脅威からは自然を上手く利用して(風の谷の民が腐海の臭気から風を利用して身を守ったように)自分の身を守るべきだと理解したライフスタイルに徐々に変えていく必要があると思う。例えば、コロナは人間が長年かけて開発してきた経済合理性の高い密集都市空間を最大限に活用して感染拡大している。小生の持論に過ぎないが、密集空間は本来の人間の、あるいは生物の真っ当な在り方ではないのかもしれない。楽観的かもしれないが、仮に日本中に均等に人間が散らばって地方や都市の境目が存在しない世界ならここまで感染拡大しないのかもしれない。それぞれの自治体が風の谷を形成し、自然との共存を目指すときトルメキアとはまるで違う豊かさを備えた空間が現実に生れ落ちるかもしれない。コロナの問題だけではない。30年以内に高確率で襲ってくると言われる首都直下型地震だって今のまますべての機能が東京に集中していては大ダメージを被ることは避けられない。
幸い、今の人類はインターネットを持っている。もはや身体的に東京に集中している必要は明らかに低くなっているのだ。令和になって『風の谷のナウシカ』を観ることが何を意味するのか?しかもコロナが我々を襲っているときに観るナウシカは何を示唆するだろうか?風の谷よりも発展した我々なりのシン・風の谷を創ることが急務なのだと小生は思うし、小生は地元の田舎に密じゃない映画館コミュニティを作ってみたいと密かに企んでいるわけだ。

かなり長くなったし、しかも映画のレビューとは程遠い小生の世迷言をさらすこととなってしまった。風の谷を目指そうという話は調べてみると他の方々も話されているようだが、この文は小生なりの見解であるからぜひ他の言い分も見てみてほしい。小生の映画レビューはとことん演出に拘ることもあれば、とことん現実世界に引き付けて考えることもある。気難しく面白みのない文章かもしれないが、ブログとは違いnoteにはそういう頭の中を曝け出しても良い気がしているので引き続き読んでいただけると嬉しい限りである。これからも毎日投稿できるよう踏ん張るのでいつまで続くか監視してもらえるといいプレッシャーにもなるというものだ。

明日、都民の皆様はコロナに注意して清き一票を投じに行って、ついでに劇場にお金を落としてきてください!

そんな金がありゃ映画館に映画を観に行って!