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風の谷は未来のモデルか?~刃~

さてさてさて、今日もバイト帰りでお眠ではあるがこういう書き物は毎日続けてこそだと大人の方々から口酸っぱく言われているので素直に従って書いていこう。今朝からMUBI(月に限られた本数しかストリーミングされない配信サイト。貴重な映画がいくつも並んでいるのだが残念なことに日本語には対応していないからイングリッシュ脳が必要である)で7/3限定公開だったヴェルナー・ヘルツォークの去年の新作『Family Romance, LLC.』を観ていたから大学のオンライン授業が溜まってしまっている。サッサと書き終えてマイクのスペックが低くて何を言っているか分からない教授の有難い授業を受けなければならないのだが、1時間後にはぐっすり寝ている小生がはっきりと目に見える。ヘルツォークの新作についてはせっかく日本を舞台にしているから何か書こうかとも思ったが、いかんせん今のところ観る方法がないから劇場公開かネット配信でもされたときに改めて書く鴨しれない。運よく観られた方々はおめでとう!


昨日の続き~昨日の序から読むのがいい鴨~

昨日はどこまで書いたっけか?と昨日の記事を読み返すと文が無茶苦茶で恥ずかしい。だいたい深夜に創るものというのは総じて一歩距離を置いてみるとしっちゃかめっちゃかに見えるものだ。多分今日の文もそうなるんだろうなと思いながら書くしかない。
で、昨日は風の谷の民かナウシカのどちらを目指すべきかというところまで書いたようだ。結論から言うと我々が目指すべきは風の谷の民でしかない。ナウシカには到底なれないし多分全員がナウシカになれば社会は成立しない。まず風の谷の民とナウシカの違いから考えてみる。
多くの大衆観客はどこまでもピュアで一途で自己犠牲を顧みない勇敢さを持ち、それなのに可愛くて飛行機も乗りこなせてスタイルも良くザ・主人公なナウシカに憧れて惚れるのだろう。小生だってその気持ちは分かるし、ぼーっとしてればHeartを鷲掴みにされるかもしれない。(なんせ小生は物心ついたころに漫画を読みまくっていて、純粋で可愛い少女の主人公には惚れっぱなしだったのだ。少し古いが『LOVe』の高樹愛が好きだったなんて恥ずかしくて言えない)もちろん物語の中だけで愛するキャラクターとして愛でるだけなら何も文句はない。感動して涙腺を崩壊させても良いし、ナウシカでムフフな妄想をしてくれたって一向に構わない(極フェミには注意してネ!)のだが、一つ注意してほしいのはこれはあくまで宮崎駿のフィクションの中での地球に生きる生命体としての最大級の理想でしかないということだ。だから映画館を一歩出て、現実世界に戻ったあなたはナウシカがすべて正しいのだと言ってはいけない。そういう人がいるから、ナウシカやもののけが説教臭いと毛嫌いする人が出てきてしまうのだ。映画は映画で、現実から必要なエッセンスを抽出した世界に過ぎないことを念頭におかなければならない。

ナウシカのピュア→∞
あくまで個人的な考えだが、ナウシカには現実的に検証すると良くないところが二点ある。一つはピュアすぎるゆえ感情の高揚に歯止めが効かないこと。トルメキアが襲来してジルが殺されたときのナウシカの行動を振り返ってほしい。原因や事情はどうあれ、何人も人間を殺しているのだ。宮崎駿がよく使う演出方法に体の毛を逆立たせる描写があるが、おそらくナウシカの作中ではここだけに使われている。「人間が怒るときはそうなるんですよ」と駿は言うが凡人の小生はそんな人間見たことない。けど演出法としては一級品だ。風の谷のナウシカでは風というタイトルの通り、風が重要なモチーフとなっていて全編を通して風が吹き、風が止んだ時は不吉なことが起こる。ずっと風が吹いているから外に人間がいるときは風で髪がふわりと揺れることは意識すれば分かるが、殺戮モードのナウシカは風なんて無くても髪が揺れるのだ。そしてこのいわゆる暴走モードになるキャラクターは作中でもう一つ存在する。さて何だろうか?そう、虫たちである。虫たちは怒りに狂うと目を真っ赤に染めてすべてを破壊する。ナウシカの虫笛がなければ自分で怒りを抑えることもできない。ナウシカがユパの血を見てやっと収まったのと同じように。つまり、感情という一点においてナウシカは純粋でありすぎるがゆえに人間らしい性格よりももっと原始的な性格を持っているし自然的であるとまで言えるかもしれない。見境なく刃物を振り回してしまう人間なのだ。(アシタカもそうなのだが、なぜか主人公には強力な免罪符が配布されていることがよくある)もちろんそういう人間は現実社会にも存在するが、人々はそれを人殺しと呼び、犯罪者と蔑み、危険人物として近寄ろうとしない。ナウシカのピュアの極限をもとめるとただちに血の匂いが立ち込めるのだ。
まあ、これはあくまで人間性のお話でさして重要ではない、というかこれくらいは誰でも理解しているはずであろう。本文のテーマに繋がるのは次の弱点だ。

キャラクターのタイプ分け
ナウシカのもう一つの弱点は、人間と自然の価値を同等に見ている節があるということだ。ここが風の谷の民と大きく違うところでもある。ここまでナウシカと風の谷の民だけを挙げてきたが、もう一つのタイプとしてトルメキアやペジテの民がいる。(トルメキアとペジテを一緒にするなという声が聞こえそうだが、便宜上そうさせてほしい。まあペジテもなかなかやることやってるからね)この三つのタイプを自然愛好度に従って並べると

トルメキア&ペジテ(①)→風の谷の民(②)→ナウシカ(③)

となる。自然愛好度を数直線上に数値として取るなら、1→2→3よりもイメージとしては10→100→1000に近いかもしれない。それくらいこのグループ分けには差がある。①は人間様のためなら自然は征服しなければならないと考え、必要とあらば自然を害することを厭わない。②は自然の助けを借りながらも、それぞれがそれぞれの縄張りに生きるべきだと考える。③は自然と人間に区別はなく混濁した状態で生きたいと考える。
①は明らかに人間優先の思考の現実世界の大多数の人類である。極論、現に今住んでいる家だって過去の開発があったからこそ住めているわけだし、小生が渋谷で映画を観たTOHOも大開発のおかげでやっとできあがった映画館なのだ。だがその生き方に限界が見えてきた今SDGsが声高に主張され人類は変化しようとしている。その進化先にはいくつもの分岐があるはずだが(その内のいくつかは滅びへと通じる退化のルートかもしれない)、②が希望の道かもしれず、行き過ぎた結果が③になると小生は考えている。
②と③は表面的には同じように見えるからその差を見極めるのは少々厄介なのだが、トルメキアの船が落ちた後に生き残った虫への対応とその判断基準を考慮すると分かりやすい鴨しれない。

もう全部書いてしまいたいし、そんなに残りもないのだが眠たさには勝てない。寝る。

そんな金がありゃ映画館に映画を観に行って!