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写真が写すもの #9

祖父が開いた本の中には、数々の写真が収められていた。茶色の台紙の上には透明なフィルムで保護された写真が均等に配置され、無骨な祖父の指先からは想像できない繊細な加工がなされている。祖父は髭が絡み合う乾涸(ひから)びた唇を三日月のようにほころばせ、写真集を一枚また一枚と捲っていく。

モノクロの写真、色彩豊かな写真、世に存在する全ての色というものが、何も知らない7歳の真っ白な僕の心に絵の具を垂らすようだった。

“水気を欠いた広大な地面に、命を吹き込むように降り注ぐ雪”
“神々しい太陽の下、首に金色の真鍮(しんちゅう)リングを付け伝統的な踊りをする民族”
“心の奥底まで見透かすような眼孔を見開き、無限大の青空に威風堂々と舞う鳥”

生きるもの、生きないもの、喜ぶもの、悲しむもの、目に映る全てが彼のレンズを通じ一つの形になっていた。まるでレンズを向けられ、その瞬間を撮られる事を待っていたかのように。
普通の人には見えないものが見え、聴こえない音が聴こえる。存在する全ての“時”に溶け込み、自然が創り出す音と人間の鼓動を調和させる。そして、止まる事のない流れ続ける“時”を形に変える。僕は彼が創り出した「瞬間」に心を奪われていた。

「ほー、おまえも見る目があるな。面白いだろ写真てのは」
暫く黙って写真集を見てからだろうか。祖父はヤニで茶色く黄ばんだ歯をむき出しに、豪快な笑みを浮かべて話してきた。
「これは全部ガバ爺ちゃんが撮ったの?」
「んー、そうだな。たまたま俺がそこにいただけだ」
彼はそう答えると、静寂のせいで腹部に溜まった音を全て吐き出すかのように大きな声でガッハッハと笑った。なぜなのか、彼は質問に対し真っ当に答えを返してくれた事はなかった。

コンコン、というノックの音と共に母が部屋に入ってきた。
「あらー、父さんまた又郎にかまってもらってるの? はい、コーヒー入れてきたわよ。」
母は面白いものを見るかのように口角をあげながら祖父の前に湯気が立つマグカップを置く。そして、机の上の写真集に目を移し何かを思い出すように言った。
「父さんね、昔ね、気が付いたらいつも家にはいなくて、カメラ片手にどっか行っちゃってたのよ。帰ってきたと思ったらずっと写真触ってるんだから」
母はそう言うと、白い歯をむき出しにしオレンジジュースを僕の前にそっと置く。
「ガッハッハ、そんな固い事を言うな。金があったら、もっといろんな所に行っていろいろ撮れたんだけどな」
祖父はまた豪快に笑いながら言った。母は頑固親父に何を言ってもわからないとでも言うように、笑みを浮かべながら溜息をついた。
「そうだ、さっき母さんが呼んでたわよ。何か手伝ってほしいんじゃないの」
母はにやにやと笑う祖父に伝えた。祖父は、しょうがねーな、とぶつくさ言いながら腰をあげ母に背中をポンっと叩かれ母と一緒に部屋を出ていった。

陽気な海賊がいなくなり、午後の日だまりの部屋に僕は一人残された。暫くの間、薄汚れた写真集を眺めていたが、好奇心を抑え切れず身を乗り出しそれを開いた。一枚また一枚とページを捲り、じっくりとそしてゆっくりと写真を見た。最後から五ページほど前だろうか、写真はなく茶色の台紙だけが続いていた。ページを捲り台紙同士が擦り合う音が、楽しい出来事に終わりを告げるように悲しく響く。
最後のページにさしかかる。するとそこには一枚の写真があった。それまで見た綺麗に保管された写真とは違い、端が擦り切れ手垢がついている。

写真には木造でできた小さな一軒家の前に2人の男女と3人の子供が写されていた。大黒柱であろう男は凛々しい顔つきで大きな口を開け笑っている。その隣には恥ずかしそうに、そして楽しそうに笑う女性が子供の肩に手を置いていた。男女の前には無邪気に笑う2人の男の子と1人の女の子がいる。女の子はどこかで見覚えのあるニカッとした表情で笑っていた。

そこに写し出されていたのは飛行機を使った空の向こう側でもなく、船を使った大海原の先でもなかった。日常で見ることのできる平凡な日々の普通の一家の写真であった。

ガッハッハと笑う若き祖父と、三人兄妹の一人娘であったニカッと笑う母の写真は、陽の光が差し込む部屋をより一層温かいものにさせた。僕の嗅覚からは、微かな煙草の匂いと挽きたての珈琲の香りが脳の奥まで届くのであった。

我々が目にするものはなぜここまでも美しく、時に感慨深くそして切なく感じる事があるのだろうか。その意味を教えてくれたのは、僕の祖父であった。

写真が写すもの #8
遺伝子からの贈り物#10

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