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わたしの名は紅 オルハン・パムク 和久井路子訳 藤原書店 2004年 積ん読解消チャレンジ1

16世紀末オスマン帝国の首都イスタンブル、ある夜、一人の細密画師が殺される。
12年ぶりにイスタンブルに帰ってきたカラは、政府高官の叔父、エニシテから、殺された細密画師が、彼が製作している特別な写本に関わっていた事を知らされ、捜査を依頼される。
細密画に造詣が深いカラは、名人のオスマンと、エニシテの写本に関わっていた他の三名の画師に会いに行くのだった。

 この小説は、犯人探しのミステリーとして楽しく読めるのだが、それはごく表層的なものにすぎない底の奥深さがある。その深さは描かれる細密画をとりまく世界にある。
 写本を彩る細密画の絡み合う蔦や密やかに咲く花々、登場する人物や動物等、デティールを一つ一つ鑑賞するように、小説の構成要素それぞれに分け入ってもとても魅力的だ。
細密画の有名な画題の男女と、二重うつしになるような再燃する恋の行方。
署名やスタイルについての議論から始まり、観念論と唯物論といった哲学に通じるような美術論。
はるか東方の中国、ティムール、モンゴル帝国、そして少し前のペルシアの細密画の大名人ベフサド(ビフザード)、それぞれから手法を受け継いできたイスラム、オスマン帝国の細密画とその終焉。
物語や書を彩ってきた細密画の絵師たちが、西洋の遠近法や写実主義で描かれた絵画に出会ったときの衝撃と、引き起こされたそれぞれの反応。
こうした構成要素の魅力がミステリー小説とカテゴライズするのにおさまらない魅力を本作に与えている。
他にも、タイトルにある「紅」について、イスラムの女性の結婚と離婚、コーヒハウスの役割等、それぞれへの興味はつきない。

 著者のオルハンパムクは、次作の『雪』でさらに評価されノーベル文学賞を受賞している。
本作と『雪』では、複数の登場人物が登場して語ることで進んでいく展開、その中でイスラム教の過激派とされる人々も登場し、イスラム教の宗派的な複雑さが描かれる点が共通項としてあげられる。
 さらに「東ではなくて、西にいかねばなるまい」、「東も西もアラーの神のものだ」、「東は東だ、西は西だ」と、本作中でそれぞれの細密画師が語る箇所があったのだが、舞台の16世紀末オスマン帝国を超えて、近代トルコが抱え続けている複雑さや、作品が発表された2000年前後の世界情勢にも響く言葉として非常に印象に残った。

 そして雪、降り積もりすべてを覆う白銀の世界が、優しくも物憂く彼の作品世界を包んでいる。

 もう一度イスタンブルに、そして雪が降るときに歩いてみたいと思わせる一冊だった。

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