【連載】異界をつなぐエピグラフ 第9回|コウセイ畏るべし|山本貴光
第9回|コウセイ畏るべし
1.校正のおかげです
この連載では、いささか古めの本を多く扱ってきた。意図してそうなったというよりは、気づいたらそうなっていた。といっても、現代の本にエピグラフがないわけではない。むしろ、日々手にしている本のあちこちでお目にかかる。
最近読んだ本で、こんなエピグラフに出会った。
これは校正者の牟田都子さんの『文にあたる』(亜紀書房、2022)という本に現れる引用だ。この本では、校正にまつわるあれこれのトピックに触れた文章が50ほど並んでいる。上の引用は、巻頭の「そんなことはない」という文章の冒頭に置かれたものである。
その前に「校正ってなんだ?」という人のために少々説明してみよう。普段、私たちが目にする印刷物は、いわば最終完成物で、校正の痕跡は残っていない。それだけに外から見ると、校正という仕事がなにをしているのかは分かりづらいかもしれない。
物書きをしていると、校正には日々お世話になりっぱなしである。以下に述べることは、書き手の立場から見てのことなので、それこそプロフェッショナルから見たら、「そんなことはない」とご指摘が入るかもしれない。書くだけ書いてみよう(★2)。
書き手が本や雑誌のために文章を書く(打つ)。これを原稿と呼ぶ。多くの場合、書いたものがそのまま右から左へと印刷されるわけではない。誤字脱字その他の問題が潜んでいるかもしれないからだ。とりわけ印刷物の場合、物理的に紙にインクで刷ることもあり、一度造ってしまった本や雑誌は、おいそれと直すことができない。それだけに、できるだけミスなどを減らした状態で印刷にかけたい。
そこで、執筆者が書いた文章を、本や雑誌に掲載するかたちに仕立てる編集者と、その原稿に記されたことをチェックする校正者が読んで確認する、というしくみがある。
「校正」という言葉は、「比べて正す」というほどの意味で、文脈によってさまざまに使われる。ここでは印刷を前提とした文章についての校正に絞っておこう。この場合、校正とは「内容の誤りを正し、不足な点を補ったりする」(『大辞林』)こと。とは、牟田さんの本からの孫引きで恐縮である。
さて、書いた原稿は、ゲラといって、「なにごともなければ、このような形で印刷しますよ」というデザインを施したものに仕立てられる。書体、行間、字間、余白、色、図の配置、ノンブルその他、デザイナーがこれを設計する。校正者は、このゲラを読んで確認する。
もう少し具体的には、誤返還や誤殖、書体やルビや図版といつた体裁の確認に加えて、仮な遣いをはじめとする表記の揺れどなについてさらには記されれたことの妥当性をチェックする仕事である。
『世界大百科事典』(平凡社、JapanKnowledge)で「校正」の項目(執筆は布川角左衛門)を見ると、こんな一文がある。
ただし、校正者による指摘を見て、どのように直すか、そのままにするかを決めるのは書き手であり、最終的に印刷された文章の責任は書き手にある。私からすると、校正者とは、印刷の手前でミスに気づいたり正したりするための頼もしく不可欠な協力者、チームメンバーなのである。
2.普段とは別の目で
この校正の仕事を行うには、普段ものを読むのとは違うモードで文章を見る必要がある。
というのも、私たちは目にした文章に多少問題があっても、それを勝手に補完して読んでしまったりする。文中の文字がいくらか入れ替わっているのに、気づかずすんなり読めてしまったという経験がおありかもしれない。あるいは、事前に確認したと思っていたのに、メールを送信したあとで「汝でも大丈夫です!」と書いていたことに気づいたりする。目が滑るといおうか、見たものを脳(体)のほうで補完するのだといおうか、自分でそうしようと思ってするというよりは、体がそのように処理するといったほうが実状に近いかもしれない。
それだけに、校正を行う場合、普通に文章を読むのとは違って、上記したようなポイントに注意を向けながら、点検するように読む必要がある。喩えるなら、普段の読書は、文字列の上をすーっと滑空してゆく感じ。それに対して、校正の読み方は、ぐっと高度を下げて文字にがんがんあたったり、逆にもっと高度を上げて段落全体や章全体といった広さで眺めたりする感じ。
また、この作業を通じてたくさんの調べ物をすることにもなる。校正は、精読の一種といってもよいかもしれない。例えば、ある文章に「ル・グウィン(1929-2019)」と記されているとする。このとき、名前の表記はこれでよいか、添えられている生没年は合っているかをチェックするわけである。文章のタイプによっては、気が遠くなるような調べ物をすることにもなる。
私が呑気に書いているこの文章は、毎回、藤本なほ子さんが校正をしてくださっている。原稿をお渡しすると、そこに含まれるたくさんの書き間違いや不正確な表記について、藤本さんが「ここはこうでは?」とか「ここはこれでよろしいですか」といったコメントを入れて戻してくれる。
私のほうでそれを見て、藤本さんの的確な指摘の数々に「うぐ」「ぬわ」などと声にならない声を出しながら、「ごもっとも、ごもっとも」「スミマセン、スミマセン」と直したり、調べたり、書き直したりするのだった。
そんなふうにして、校正を通じて、執筆者が自分では気づかなかった点を指摘してもらうことになる。それは、自らの無知や粗忽さにイヤでも向き合う状況でもあり、自分が書いた文章について、無意識・無自覚な部分を指摘される貴重な機会でもある。
校正の指摘が入らない完璧な原稿を書く人からすれば、「まあ、だらしのないこと」と笑われるかもしれないけれど、もし世界に校正者がいなかったら、どれほどたくさんの間違いや不適切な文章をそのまま世に送り出してしまうだろうか、と思うのだった。というのは、物書きや研究者のように文章を書くことを仕事にしている人びとが、校正抜きでSNSやブログなどに投稿する文章を眺めると実感できるかもしれない。いわば野生の文章である。
つい、校正についての説明(と感慨)が長くなってしまった。
3.そんなことはない
先ほどの牟田さんの本からの引用を改めて提示しておこう。それはこんな文だった。
そしてこの文は、牟田さんの本の「そんなことはない」という文章の冒頭に置かれている。
ぱっと見るとエピグラフのように思える。同書の刊行を心待ちにしていた私は、書店で見つけるとすぐ買い求め、喫茶店のソファに腰掛けるとともに読み始めた。「はじめに」に続いて始まる本編の最初に、この「そんなことはない」が現れる。冒頭に先ほどの引用が置かれている。うん、エピグラフだ。
脚本家の三谷幸喜さんが、自分の「エッセーも、人目に触れるレベルの文章として、なんとか体裁を保っていられるのは、校閲の方のおかげ」だと書いていて、過去に校閲者の指摘に助けられた例を挙げている。
ある映画中の人物同士の関係について書いたところ、校閲者から、作中ではそのようには明示されていないのでは、と指摘が入ったという。三谷さんは、その校閲者がその古い映画の細部にそこまで精通しているとは思わなかった、と感嘆する。
(と書くと、場合によっては「これは牟田さんが書いている文章の適切な要約になっているか」というチェックが生じたりするわけである。例えば、上のほうでは「校正」と書いており、ここでは「校閲」という語を使っているが、このママでよいか、説明を加えるかといった点についても、指摘が入るかもしれない。この場をお借りして申せば、ここでは「校正」と「校閲」は同じ意味と考えておいていただいて差し支えない)
このエピソードに触れた牟田さんは、どう思ったか。その校閲を担当した人は映画通だったかもしれない。他方で、ご自身の場合について言えば、「校正の仕事をしていると、物知りだと思われることが多いが、そんなことはない」。物知りなのではなく、校正する際に書かれていることの典拠を調べているのだ、というわけである。
そうか、冒頭に置いた三谷さんの言葉を借りて、「校正者だからって物知りとは限らないんですよ?」と、外ならぬ三谷さんに投げ返すかたちになっているのか。面白いなあ。
でも、なにかしらの典拠について、どこを調べればよいかを知っていたり、必要に応じてあたりをつけたりできるのは、それ自体、一種の物知りとも言えそう。いや、物知りというよりは、ものの知り方の物知りとでもいおうか。「こんな場合、どこを探せばよいか」を知っているのは、調べ物にとってかなり重要なことだ。念のために言えば、これはネット検索についても同様である。どこをどんなキーワードで探すかによって、辿り着ける情報やデータの範囲はおおいに違ってくる。
4.なくても成り立つもの?
牟田さんの「そんなことはない」という文章の冒頭に置かれた引用は、エピグラフとしては、本文とかなり濃密な関係にある様子を感じていただけただろうか。本文の一部といってもよいような引用だった。
さて、というので『文にあたる』の次の文章「サバをめぐる冒険」に進むと、今度は須賀敦子さんからの引用が冒頭にある。うむむ? と思って、それぞれの文章の冒頭だけ見てゆくと、すべての文章のはじめに引用が置かれているではないか。そして、その引用をきっかけとして、牟田さんの文章が始まる。
三谷さんの文章からの引用を、てっきりエピグラフだと思ったのだけれど、これはエピグラフと言い切れない境界事例かもしれないぞ、という考えが浮かんでくる。とはいえ、文頭に置かれた短い引用文をエピグラフと呼ぶなら、その条件は満たしている。この連載で見てきたエピグラフと牟田さんの引用はどこが違うのか。少し考えてみて、こう思った。
牟田さんの引用は、これがないと本文が成立しづらい。
それに対して、他の多くの場合、エピグラフとして冒頭に置かれる引用文は、必ずしも本文で言及されたりしないものだ。言ってしまえば、仮にそのエピグラフが省略されたとしても、本文だけで成立する。
例えば、ポール・セン『宇宙を解く唯一の科学 熱力学』(水谷淳訳、河出書房新社、2021)という本がある。熱力学の歴史を幅広く、印象深いエピソードを交えながら説いた好著。全体は19章から成り、各章の冒頭にエピグラフが置かれている。第13章「量子 プランクの変心」はこんなふう。
この章では、マックス・プランクという物理学者が、それまでの信念を曲げて、熱と光にかんする自然現象を説明するための新しい理論をつくり、それが後の量子論の誕生の土台となった次第を解説している。その冒頭に、外ならぬプランクの言葉を引用しているわけである。
エピグラフとしては、かなりストレートな引用だ。なにしろ、その章の中心人物であるプランクの言葉のなかでも、当人の心境を吐露した一文である。章全体を具体的に代表するエピグラフと分類できそう(★4)。
それはともかく、ここで見ておきたかったのは、仮にこのエピグラフがなかったとしても、章全体を読んで理解するのには差し支えはなさそう、という点である(★5)。とはいえ、不要だと言いたいわけではない。ここにこのエピグラフがあるのとないのとでは、読み手が受ける印象もちがってくるだろう。
これに対して牟田さんの引用は、なくてはならない性質のものだった。では、果たしてこれをエピグラフと呼んでしまってよいものか。とは、例によって分類する人次第でもあるわけだけれど、『文にあたる』を読みながら、またしてもエピグラフ観が揺らぐ体験をしたのだった。エピグラフか否か、どちらに分類するにせよ、エピグラフの範囲を考える際、「その引用の有無は、本文の理解に影響するか」という観点がありうることを教えてもらったのだった。
5.後世からの指摘
校正といえば、というので書棚から本を取り出す。メアリ・ノリス『カンマの女王 「ニューヨーカー」校正係のここだけの話』(有好宏文訳、柏書房、2021)といって、ヴェテラン校正者が綴る、楽しくも言葉の奥深さや精妙さを味わえるエッセイである。牟田さんの『文にあたる』でも「親指サックのシスターフッド」という文章で引用されている。この本にはエピグラフがあったかな。と見てみたら、ありました。
おお、コウセイ畏るべし。お後がよろしいようで。