【科学者#080】ノーベル化学賞と平和賞を受賞した量子力学を化学に応用した先駆者【ライナス・ポーリング】
ノーベル賞を2度受賞した人は2022年時点では5人いるのですが、例えば第53回目で紹介したジョン・バーディーンは1956年と1972年にノーベル物理学賞を受賞しています。
さらに、第25回目で紹介したマリ・キュリーは、1903年に物理学賞、1911年に化学賞を受賞しています。
ひとつでも偉大な業績と言われるノーベル賞ですが、科学系の賞だけではなく平和賞も受賞した科学者がいます。
今回は、ノーベル化学賞と平和賞を受賞した量子力学を化学に応用した先駆者であるライナス・ポーリングを紹介します。
ライナス・ポーリング
名前:ライナス・カール・ポーリング
(Linus Carl Pauling)
出身:アメリカ合衆国
職業:量子化学者・生化学者
生誕:1901年2月28日
没年:1994年8月19日(93歳)
業績について
ポーリングは、他の科学者に先駆けて量子力学を化学に応用し、1954年に化学結合の本性ならびに複雑な分子の構造研究によりノーベル化学賞を受賞しています。
ポーリングの化学結合の業績のひとつは、軌道の混成という概念をつくり出したことになります。
はじめは、メタンの構造を説明するために混成理論を開発したのですが、のちに幅広く応用され、今では有機物の構造を説明する際に有効な方法として使用されています。
生涯について
ポーリングの父親は薬剤師だったのですが、仕事がうまくいかずに1903年から1909年まで家族を連れてオレゴン州内の都市を転々としていました。
そして、体調を崩し1910年には父親は亡くなってしまうので、妹と弟がいたポーリングは家計を助けなければいけなくなります。
そんなポーリングの幼少期は熱心な読書家で、小学校の頃には父の友人が家に小さい化学の実験室を持っていたので、そこで実験を学びました。
この経験から、ポーリングは化学工学の道に進みたいという夢を持ちます。
その後、ワシントン高校に進学しても化学実験は続けるのですが、実験機材は祖父が夜間警備員として働いていた工場近くの廃棄鉄工場から借りて行っていました。
実は、この頃にはポーリングは家計を助けるためアルバイトもしていたので、出席日数が足りなく卒業証書は受け取ることができませんでした。
ポーリングがワシントン高校から卒業証書を授与されるのは、45年後の1962年の2つ目のノーベル賞を受賞した後になります。
1917年にはオレゴン農業大学に入学し、1922年には化学工学で学士号を授与されます。
1922年にはカリフォルニア工科大学に進学し、ロスコー・ディッキンソンのもとで学びます。
大学4年生の時には3年生のコースを教えていたのですが、そこで妻であるエヴァ・ヘレン・ミラーと出会います。
そして、1923年6月17日に結婚し、3人の息子と1人の娘が誕生します。
1925年には、物理化学と数理物理学の博士号を授与され、その後奨学金をもらいヨーロッパに渡ります。
そこでは、アルノルト・ゾンマーフェルトや、第27回目で紹介したニールス・ボーア、第57回目で紹介したエルヴィン・シュレーディンガーのもとで学びます。
1927年には、カリフォルニア工科大学で理論化学の助教に就任し、この5年間で50もの論文を発表します。
1929年には准教授に就任し、1930年には教授に就任します。
この時期に第38回目で紹介したロバート・オッペンハイマーと親交を結びます。
理論系のオッペンハイマーと実験系のポーリングは、共同で化学結合についての研究をしようとします。
しかし、オッペンハイマーが妻のエヴァに近づきすぎたことで、ポーリングが2人の関係を疑い始め、次第に仲が悪くなります。
その後オッペンハイマーは、原子爆弾計画であるマンハッタン計画の際、ポーリングを化学部門のトップに招くのですが、平和主義であることを理由に辞退します。
1930年の夏にはヨーロッパに渡り電子線回折法を学び、1932年には電気陰性度の概念を発表します。
1939年には「化学結合の本性」を書くのですが、これは化学界に多大な影響を与え、この論文は30年間で16,000回以上引用されます。
1946年には、アルベルト・アインシュタインが議長を務める「原子力科学者による非常委員会」に出席します。
これは、核兵器の開発に付随する危険性を一般社会に警告することを任務としており、この頃からポーリングは核兵器の開発を反対する活動を続けていきます。
1950年には、反共産主義に基づく社会運動であるマッカーシズムの攻撃対象になり、上院議員の教育調査委員会に証人として召喚されます。
1952年には、国務省にパスポートを差し押さえられてしまいます。
ポーリングは1954年にノーベル化学賞を受賞するのですが、ストックホルムで行われるノーベル賞の授賞式の直前にパスポートが返還されます。
1955年には、アメリカとソ連の核兵器廃絶と科学技術の平和利用を訴えた宣言文であるラッセル=アインシュタイン宣言に署名します。
さらに1957年には、生物学者であるバリー・コモナーと協力して署名運動を始め、1958年には国際連合に核兵器実験の根絶を訴え、11,000人以上の科学者が署名した請願書を提出します。
これらの業績により、1962年にノーベル平和賞を授与されるんですが、批評家の多くはポーリングの政治姿勢に同意せず、『ソビエト連邦の共産党の純粋な代弁者』であると批判します。
しかし、ポーリングは「私は共産主義の理想と目的のために奉仕したことはない」と言います。
1973年には、カリフォルニア州のメンローパークに分子矯正医学研究所を設立し、その後ライナス・ポーリング科学医学研究所に名前が変わります。
そして、1994年に前立腺癌により亡くなってしまいます。
ポーリングという科学者
ポーリングは、多様な分野に興味を持っており、量子力学、無機化学、有機化学、タンパク質構造、分子生物学、医学などを研究します。
小さい頃から化学実験に打ち込み、様々な分野で活躍したポーリングですが、核兵器の開発に反対するなど平和活動もするのですが、当時のアメリカではポーリングの平和活動は批判も多くありました。
ちなみにイギリスの雑誌であるニューサイエンティストでは、「史上最も偉大な20人の科学者」の中で、20世紀の科学者としてアインシュタインとポーリングだけが選ばれています。
今回は、ノーベル化学賞と平和賞を受賞した量子力学を化学に応用した先駆者であるライナス・ポーリングを紹介しました。
この記事で、少しでもポーリングについて興味を持ってもらえると嬉しく思います。
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