【科学者#085】多岐にわたって研究をしたエネルギー保存の法則の確立者【ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ】
第75回目で紹介したポール・ディラックは、1964年にヘルムホルツ・メダルを受賞しています。
これはドイツの賞で、自然科学、技術科学、医学、疫学の分野で優れた業績を上げた学者に授与されるもので、1891年にヘルマン・フォン・ヘルムホルツの生誕70周年を記念して設立されました。
今回はドイツを代表する科学者で、多岐にわたって研究をしたエネルギー保存の法則の確立者であるヘルマン・フォン・ヘルムホルツを紹介します。
ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ
名前:ヘルマン・ルートヴィヒ・フェルディナント・フォン・ヘルムホルツ
(Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz)
出身:プロイセン王国
職業:生理学者・物理学者
生誕:1821年8月31日
没年:1894年9月8日(73歳)
業績について
ヘルムホルツの業績としては、エネルギーがある状態から他の状態へ変換する前後でエネルギーの総量は変化しないというエネルギー保存の法則があります。
このエネルギー保存の法則については、はじめ第65回目で紹介したルネ・デカルトや、第18回目で紹介したゴットフリート・ライプニッツによって、それぞれのやり方で導き出しました。
そして、それぞれの支持者によって議論が長年行われてきたのですが、これに決着がついたのが19世紀の中ごろになります。
ヘルムホルツや、ドイツの物理学者であるユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー、第62回目で紹介したジェームズ・プレスコット・ジュールは、「力学的、熱、化学、電気、光などのエネルギーは移り変わるが、その前後でエネルギーの総和は変化しない」と主張しました。
これにより、ヘルムホルツはエネルギー保存の法則の確立者のひとりとして挙げられます。
生涯について
ヘルムホルツの父親は、ナポレオンとの戦いの時にはプロイセン軍に従軍していました。
その後ギムナジウムの哲学教師になるのですが、低賃金だったためヘルムホルツは経済的に困難な状況で育つことになります。
さらに父親は芸術的なことも好んだので、ヘルムホルツは音楽と絵画を愛するようになったり、哲学の影響を大きく受けることになります。
ちなみにヘルムホルツの性格は、母親の性格を受け継ぎ、穏やかで控えめな性格でした。
成長したヘルムホルツは、父親が教えていたギムナジウムに通い、卒業後は進学しようと考えるのですが、経済状況が良くなったので奨学金は必須でした。
そのため、ヘルムホルツは物理学に興味を持っていたのですが、物理学では奨学金がもらえなかったため、父親は医学を学ぶべきであると説得します。
1837年には政府の奨学金を得て、ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム医学学校に入学します。
この当時、政府からの奨学金を受け取るとき、卒業後は10年間プロイセン軍で医師として働くという文章に署名しなければいけませんでした。
大学にいる間は、他の学科の講義にも参加することができたので、ヘルムホルツは化学と生理学の講義に参加します。
そして、第31回目で紹介したダニエル・ベルヌーイ、第39回目で紹介したピエール=シモン・ラプラス、第76回目で紹介したジャン=バティスト・ビオの数学の研究を独学します。
さらにこの時期に哲学書を読み、特にイマヌエル・カントの作品を好んで読んでいました。
1843年には学校を卒業し、ポツダム連隊に配属されます。
そこでは兵舎の中に研究室をつくり実験を行い、余暇のすべてを研究に費やします。
そして、第62回目で紹介したジェームズ・プレスコット・ジュールが行った熱の仕事当量に関する実験をもとに熱力学の第一法則を導き出します。
1847年には、ベルリン物理学会で「力の保存について」という論文を発表します。
このことでヘルムホルツは、ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー、第62回目で紹介したジェームズ・プレスコット・ジュールと並びエネルギー保存の法則の確立者のひとりとしてみなされます。
そして、この論文が重要な科学的貢献とみなされ、1848年には軍医としての義務から解放されます。
その後は、ケーニヒスベルク大学の生理学教授に就任します。
1849年8月26日には、オルガ・フォン・フェルテンと結婚し、1853年にはイギリスを訪問し、ウィリアム・トムソンと友人になります。
この時期に、ケーニヒスベルク大学のフランツ・エルンスト・ノイマンがヘルムホルツと地位を巡り論争を引き起こします。
ちょうど同じ時期に妻の体調も悪くなったこともあり移動を要請します。
1855年にはボン大学の生理学教授に任命されるのですが、解剖学において講義が無能であると批判されてしまいます。
これは、ヘルムホルツのやり方に対して伝統を重んじる人たちが批判したものではないかと言われています。
1858年にはハイデルベルク大学の生理学教授に任命されます。
同じ年の1858年には父親が亡くなり、1859年末には妻の健康状態が悪くなり、その後亡くなってしまいます。
1861年5月16日にはハイデルベルク大学の教授の娘である、アンナ・フォン・モールと結婚します。
このアンナは、若く魅力的な女性で、ヘルムホルツに広く社会的な接触を与えます。
1866年頃からは物理学を中心に研究し始め、1871年にはベルリン大学の物理学教授に任命されます。
その後ヘルムホルツは、ヴィルヘルム・ヴェーバーと電気力学とエネルギー保存の原理について議論します。
この議論は白熱し、1870年代を通して続きます。
しかし、この2人の議論は決着がつかずに、1880年代にマクスウェルの理論が受け入れられることで終止符が打たれます。
ヘルムホルツという科学者
ヘルムホルツは経済的に余裕がなかったので、本当に行きたかった物理学系の大学ではなく、奨学金をもらうために医学系に進むことになります。
そのため、ヘルムホルツは医学系と物理学系で多くの業績を残してくれます。
実は、ハインリヒ・ヘルツや田中正平さんは、ヘルムホルツの弟子にあたります。
ちなみに田中正平さんは、音響学、物理学者、鉄道技師になるのですが、1884年8月に文部省代表として森鷗外などと共にベルリン大学に留学します。
そのときに、ヘルムホルツの下で音響学と電磁気学について研究します。
今回は、多岐にわたって研究をしたエネルギー保存の法則の確立者であるヘルマン・フォン・ヘルムホルツについて紹介しました。
この記事で少しでもヘルムホルツについて興味を持っていただけると嬉しく思います。
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