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【科学者シリーズ#076】脱走兵として捕獲され人生が変わった、異例の早さで教授になった科学者【ジャン=バティスト・ビオ】

1789年7月14日から始まったフランス革命は、科学者たちにも多大な影響を与えました。

例えば、第28回目で紹介した近代化学の父であるアントワーヌ・ラヴォアジエは、徴税請負人だったこともありギロチンで処刑されてしまいます。

また、ギリギリでギロチンを免れた科学者としては、第46回目ではジョゼフ・フーリエを紹介しました。

そんな、ラヴォアジエやフーリエと同じ激動のフランスに生きた科学者がいます。

今回は、脱走兵として捕獲され人生が変わった、異例の早さで教授になった科学者であるジャン=バティスト・ビオを紹介します。


ジャン=バティスト・ビオ

ジャン=バティスト・ビオ

名前:ジャン=バティスト・ビオ
  (Jean-Baptiste Biot
出身:フランス
職業:物理学者・数学者・天文学者
生誕:1774年4月21日
没年:1862年2月3日(87歳)


業績について

ビオの業績として有名なものといえば、電流によってその周りに生じる磁場を計算するための法則であるビオ・サバールの法則だと思います。

このビオ・サバールの法則は、ビオ個人の業績ではなくフェリックス・サヴァールと共同で研究を行い法則を発見します。

まずは、1820年4月にデンマークの物理学者であるハンス・クリスティアン・エルステッドが電気回路の近くにあった方位磁針が北ではない方向を指しているのに気づきます。

ハンス・クリスティアン・エルステッド

その後エルステッドは、電流と磁気についてを発表し、これを受けて同じ年の1820年にビオとサヴァールは共同で研究を行いビオ・サバールの法則を発表します。


生涯について

ビオはリセ・ルイ=ル=グランで古典を専門に学び、1791年に卒業します。

その後は、父親が息子に商業分野でのキャリアを積んでほしいと考え、コレージュ・ド・フランスの数学教授であるアントワーヌ=ルネ・モーデュから数学の個人レッスンを受けます。

アントワーヌ=ルネ・モーデュ

それが終わると今度は、息子を商人の事務の補佐としてフランス北西部のル・アーヴルに送るのですが、ビオにとってはとても退屈な日々でした。

そのため、1793年9月からホンズシュートの戦いで砲兵として軍に入ります。

Battle of Hondschoote

しかし、途中で病気に苦しむことになり、軍隊を離れ両親のもとに戻ることを決意しパリへ向かうのですが、制服を着ていたため脱走兵として逮捕されてしまいます。

その後は釈放されるのですが、病気から回復するまでに数ヵ月かかってしまうので、その間は数学の勉強を続けます。

1794年1月には、エコール・ナショナル・ポン・ゼ・ショセ(国立土木学校)の入学試験を受け合格します。

1794年11月には、エコール・ポリテクニークが設立されたので、そちらに転校し、ガスパール・モンジュに教えてもらい、モンジュはビオの才能に気づきます。

ガスパール・モンジュ

しかし、この頃のビオは学生運動に参加していたため、政府軍の捕虜になってしまいます。

この時はモンジュが政府軍に釈放をお願いし、エコール・ポリテクニークに戻ってきます。

そしてこの頃に、シメオン・ドニ・ポアソンと友人になります。

シメオン・ドニ・ポアソン

1797年には、フランス北部のボーヴェのエコール・サントラル・ド・ロワーズの数学教授に就任します。

そして、就任してすぐに友人の妹である、当時16歳のガブリエルと結婚します。

このブリエルは、十分な教育を受けておりドイツ語が堪能だったので、ビオはガブリエルにエルンスト・ゴットフリート・フィッシャーのドイツ語のテキストをフランス語に翻訳できるように数学と物理学を教えます。

1799年後半には、エコール・ポリテクニークで教えていた第39回目で紹介したピエール=シモン・ラプラスに校正をお願いするために近づきます。

1801年の29歳の時には、コレージュ・ド・フランスの数理物理学の教授に任命されるのですが、これはラプラスの影響が強かったです。

1804年8月24日にビオとジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックによって熱気球が上げられます。

ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック

この熱気球は高度4000mに到達し、大気の磁気や電気、化学特性を測定します。

1803年には息子が誕生し、同じ年にはパリ科学アカデミーの会員に選出されます。

1806年には、ラプラスの支援を受けて教授職に加え、経度局の天文学者助手に任命されます。

1806年9月3日には、フランソワ・アラゴと共にバレアレス諸島のフォルメンテラ島へ出発し、子午線弧の長さの測量をします。

フランソワ・アラゴ

1809年には、パリ科学アカデミーの賞を受賞したり、理学部の物理天文学教授に任命されます。

1814年にはレジオンドヌール勲章のシュバリエを授与されます。

1815年にはロンドン王立協会の外国人会員に選出され、1816年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれます。

1840年には、ロンドン王立協会のランフォード・メダルを授与され、1849年にはレジオンドヌール勲章のコマンドゥールを授与されます。


ビオという科学者

ビオは、好奇心、技巧、洞察力、正確さ、独創的な分析、方法論、明晰さのすべての素質を備えていました。

はじめビオは商人のための数学を学んでいたのですが、その後軍に入隊したり様々なことを経験し、大学を卒業してすぐに数学教授に就くことが出来ます。

その後、ラプラスに支援してもらいながらも様々な業績を残し、多くの賞を授与されました。

今回は、脱走兵として捕獲され人生が変わった、異例の早さで教授になった科学者であるジャン=バティスト・ビオを紹介しました。

この記事で少しでもビオについて興味を持っていただけると嬉しくお思います。


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