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聖徳をまとう_七/愛は多面的に

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  ◇

 平塚もえぎは滔々と語り始めた――。

  ◇

 ありきたりなことを言うよ。だから、ふたりも気楽に聞いて。

 人には必ず裏に潜めた顔があるの。二面性あるいは多面性と言ってもいい。あなた達にも、私にも、それはある。普通は見えないよね。人の裏の顔なんて。だって潜在意識が躍起になって隠しているもの。誰にも見えないように。バレないように。でも、赤ん坊や幼児と呼ばれる小さい仔には見えてるらしいよ。表の顔と裏の顔が合わせ鏡になって――その目には映る。無垢だからかな。そして、大人になるにつれて、瞳が濁るにつれて、やがてそれは見えなくなる。裏の顔が、人の嘘や悪意や欺瞞が。そうして互いに騙し騙されるようになるの。ほら、大人の社会の出来上がり。 

 藤村さん、あたしを待っている間、うちの娘に――ぼたんにじっと見られていたでしょう。そのとき、娘の目にはあなたの裏の顔が映っていたのかもしれない。

 さっき、裏の顔は大人には見えないって言った。でもね、稀に、本人の意識とは関係なく、不意に表裏の顔が入れ替わる人がいる。机に置いたトランプのカードが窓から入るそよ風で裏返るみたいに簡単に。表裏が裏返っているわけだから小さい仔の特別な目は必要ない。大人にもそれは――裏の顔は見える。二重人格なんて決して特殊な話をしてるんじゃないの。そういう人が普通にいることをあたしは知っている。怖いのよ。裏の顔って本人が無意識に他人に見せないよう潜めさせている深層の顔。だから、その人の反社会的な性質を押しつけていることだってある。それが表の顔を押しのけて現れるって健全じゃないわけよ。

 あ、そもそも何の話だったかって?

 そうね。あたしが――河下美月の多面性を見たっていう話。

  ◇

 深淵が――いや、宇宙を湛えた無垢な双眸がじっと私を見上げている。その小さな宇宙は引力を持つらしい。魅入られ縛された私はかろうじて自由になる手を引力に従い伸ばした。無垢な双眸の上には三つ編みを束ねたお団子髪。恐る恐る触れてみる。お団子を撫でるよう掌を左右に動かすと、汗と太陽の混じり合った芳香が鼻腔にふわと届いた。ややあって――少女は破顔した。

「やーめーてー!」

 言葉とは裏腹にお団子髪の少女は楽しそうだ。飛び跳ねながら、ノースリーブワンピースの裾を両手に握り小刻みに上下させている。少女が着地するたび羽目板の床が悲鳴を上げた。

「ぼたんー! おにいさんたち困らせないのー」

 表から女性の声が響いた。店頭で開店準備中の平塚もえぎだ。

 六月三十日。日曜日。時刻は十三時。私と田辺雄平は阿倍野区昭和町の小さな古書店で子守をしていた。

「ごめんねー。本当なら娘は母に預けて来るんやけど、今日は愚図っちゃって。そうこうしてるうちにあなたたちとの約束の時間も迫ってくるしで、結局連れて来ちゃった」

 店内にいる私たちに聞こえるよう声を張り上げるもえぎ。出入り口の引き戸は開け放しにされているので表で彼女が作業する様子は丸見えだ。文庫本が山盛りになったワゴンや脚付きのメッセージボードを設置している。

「いえいえ、急な相談を持ちかけたのはこっちなんで気にせんといてください」

 殊勝な受け答えをする雄平。私たちはもえぎの準備を待つ間、狭い店内の通路に置いた丸椅子に腰掛けて、もえぎの娘、ぼたんの遊び相手になっていた。

 昭和町は地下鉄御堂筋線にして天王寺駅の隣駅だ。天王寺駅周辺に比べると事務所やオフィスは少なく、メインストリートであるあびこ筋から逸れると一軒家の目立つ落ち着いた街並みが広がる。古民家を改装したもえぎの店は登録有形文化財として有名な寺西家長屋にほど近い熊野街道寄りの路地にあった。

「よっしゃ、とりあえず終わったよ。お待たせー」

 一間半ほどの正面間口を背にしてもえぎが店内に戻ってきた。白い丸首のカットソーにデニムの細身のパンツ。長身も相まって活動的な印象を受ける。年は三十代後半だろうか。ミディアムロングのブリーチヘアーをゴムでひとつ結びにしている。

 平塚もえぎ。雄平が岡部華から聞き出した――八城グループに対して悪印象を隠さないという女性だ。ここまでの道中、雄平から聞いたところによると、SNS等でネガティブメッセージの発信もしているらしい。

「あたしはここ座らせてもらうね。お客さんが来たらちょっと中断させてもらうけどそれはいいよね?」

 そう言いながらもえぎは横木の隙間を通ってカウンターの奥に落ち着いた。私、雄平、娘のぼたんを均等に見渡すことが出来る位置だ。

「もちろんお客さん優先で構いません。それにしてもお子さん見ながら大変ですね」

 私が表層的なねぎらいの言葉をかけると、

「旦那さんは見てくれないんすか?」

 と、雄平が続けた。今日は日曜日である。だからと言って世の中の誰しもが休日とは限らない。

「ああ、あたしね。シンママなの」

「シンママ?」

「わかんないか。シングルマザーのこと。ひらたく言うとバツイチよ」

「――そう、なのですね」

 デリケートとされる話題に比してあけすけな物言いに私は鼻白んだ。

「えーと。連絡くれたのはあなたよね、田辺さん。それと、お連れさんが藤村さん。あってる? 最近物忘れがひどくってさぁ。年かなぁ」

 私と雄平は揃って大きく頷いた。

「もっと若い人が来るのを勝手に想像してたわ。たぶんあたしと同年代やよね。シンママのあたしが言うのもあれやけどさ、ふたりもパートナーは大事にしなよ」

「俺は亭主関白っすからね! おまけに外でも好き勝手やりすぎて、いつ嫁さんに愛想尽かされるか。ご忠告は肝に銘じておきます」

 呵々大笑する雄平。独身の私は愛想笑いで聞き流すことにした。

「ママー、喉かわいた」

 大人の会話の間隙を突いてぼたんが立ち上がり母親のもとに駆け寄った。

「これ飲んどいて」

 もえぎが手際よく差し出した水筒は蓋を開けるとストローの飛び出すタイプだった。水筒を両手抱えし、一心不乱にストローに吸い付くぼたん。私に父性があるとは思えないが、その愛らしい仕草にしばし見蕩れた。

「ぼたんちゃん、いくつなんですか?」

「ん。小学一年生」

 年を尋ねたのだが、もえぎは学年で答えた。

「甘えん坊でねぇ。手がかかって大変よ」

「でも、かわいらしいです」

「ありがとう。で、何だっけ。八城宗光のことを知りたいと」

 娘の髪を撫でながら、もえぎがカウンターの隙間から半身を覗かせた。

「そうなんすよ。八城自身のこともやけど、やつを囲んでるっていう支持者グループのことなら何でも」

「どうしてって――聞くのもあれかな。横谷香苗さんのお友達なんやってね。彼女のことは本当にご愁傷さま」

 私たちは頭を下げて応じた。

「横谷さんの事件のことはあたしにはわからない。あたしが八城と距離を置いたあとのことやから。とはいえ、八城の話ねぇ。まず、彼の女癖の悪さは有名やね。でも、人は彼のまわりに何故か集まる。君らの知りたいこともそのあたりかな」

 私が目配せをすると、雄平は心得たとばかり瞬きをして、

「いや、まさにそうなんすよ。是非、教えてください!」

 と、身を乗り出した。

「まぁ、私が彼のことを一言でまとめると――」

 平塚もえぎはこれ見よがしに人差し指を立てると、

「偽物ね」

 そう言って、べっと舌を出す。

「ニセモノ――ですか」

 先を促す意も込めて私はもえぎの言を繰り返した。

「八城宗光を囲むファンにはね、アーティストとしての彼に憧れて慕う集団と、ビジネス的な才覚を彼に見る集団と大きくふたつあるの。で、あたしは後者の立場で近付いたわけ。小さくても構わないから、昔から元々自分でビジネスをやってみたいって願望があってね。このお店はまだ始めたばかりやけど、これからどんどん個性を出してネットの力も使って情報発信していきたいって思ってる。世界中からお客さんが来るみたいな」

 もえぎは店内のぐるりに視線を巡らす。絵本や画集が多いだろうか。日本語以外の言語の書かれたカバーも目立つ。あちこちに飾り付けられた手書きのポップが目を惹いた。

「八城はネットを使った自己プロデュースが上手なイメージがあったから、その分野で学べることがないかっていうのと、あとは自分と同じようにスモールビジネスを志している仲間と繋がることが出来たらと思ってた。それで彼の会社の――キャッスル・インフィニティのオープンセミナーに参加したの。それから何度か少人数の勉強会に顔を出していると、八城と一緒の会食にも誘われるようになった。もちろん安くない会費を支払うわけやけど。そうこうして、八城やその取り巻き連中と何度か交流しているとだんだんわかってきた。これは――偽物だなって」

 冷笑のこもった声が途絶えると、水を打ったような静けさが訪れた。暫時の静寂を破ったのは雄平だった。

「純金やと思ったら、金メッキやったわけですね!」

 もえぎは口元に手を添えて噴き出した。

「はっは。そうそう、そういうこと」

 母親につられてだろう、隣のぼたんも大口を開けて哄笑している。私は努めて冷静に問いかけた。

「どういうことがあってそう思うようになったんでしょう?」

 もえぎは人差し指を下唇にあてて考え込むような仕草を見せる。

「そうねぇ。女癖の話はいったん置いておいて。肝心のアートのほうも、これはネット上の拡散はまだ押さえ込んでるようやけど、かなり小狡いことやってんのよ。買える権威は袖の下でどうにかするって言うのかな。もちろんその誘いに乗る相手も同じ穴の狢やけどね。要はそういうこと。で、その金で買った権威を盾にしてまた次の投資ってパターン。時が来ればやがて芋づる式に明るみに出るでしょ。と、まぁ、個別具体的なエピソードは枚挙に暇は無いんやけど、それよりも――」

 ひと呼吸置いて、もえぎは凪のような微笑を浮かべた。

「わかるのよ、そういうのって。求めてる人には。あ、神性の話」

「え? どういうことっすか。シンセイ?」

 気忙しそうに唾を飛ばす雄平。

「ああ。ごめん、わかりにくかったよね。若い人にはカリスマ性って言葉のほうが伝わりやすいみたいやけど、つまり特別な人だけが持つ超越性とか神秘性ってこと。威光、ね。そう。光みたいなものを身にまとうの」

「芸能人にはオーラが見えるとか聞きますけど、そういうことっすか?」

「うーん。あたしの印象では、その手合いを指すときは多分に比喩的な意味合いで使われてるかな。求めてる人には見えるものなのよ、はっきりと。キラキラ光る黄金色の――そうね、オーラが。要するに、八城宗光にはそれが無かったってこと。会うまではちょっと期待してたんやけどね。顔が半端に整っているもんだから騙されちゃった」

 返す言葉の見つからなかった私と雄平は黙して頷くしかなかった。その様子を暫し静視していたもえぎだったが、

「はっくし!」

 娘の甲高いくしゃみが店内に響くと、我に返ったかのように、一転、顔を綻ばせた。

「おっと。あたし、今、おかしなこと言ってた? ごめんごめん、忘れて」

 そう言って額に手をそえる。

「ともかくろくな男じゃないってこと。でも、そんなやけど自分をよく見せる能力には長けてるんやろうね。そんなわけで、彼のまわりには入れ替わり立ち替わり人が集まる。それも女性が多い。いつも近くにいるメンバーは幹部とか親衛隊なんて呼ばれてね。キャッスル・インフィニティの社員として実際に雇用されてる人もいるんやろうけど」

「親衛隊って、なんか昔のアイドルみたいやな」

 雄平が鼻の頭を掻きながら言う。

「今どきの若い実業家は、特にメディアに顔を出すタイプとなれば、そういう面を求められることもあるよね。それで、彼を近くで囲むその幹部様にもまた二種類あってね。ひとつは、彼が手掛けるビジネスのサポートを期待されて傍に置かれている人間。押しは弱いけどやることに卒が無い岡部華や、あなたたちのお友達の――横谷香苗さんもこっちやったね」

 もえぎはカウンターの下からタンブラーを取り出して口に含んだ。ここで一泊置くのには意図的なものを感じた。私たちの反応を見ているのか。

「香苗さんはどんな手伝いをしてたんでしょうか」

 私の問い掛けにもえぎは満足げに顎を引くと、

「彼女はアートの心得があったから。ウェブデザイン中心に、そこからネットでイベントの集客もしてたっぽい。ビジネスサポートって言っても様々でね。能力というより、結局お金出してくれる人を重宝している面もあったと思う。パトロンみたいなもの。わっかりやすいよね。でも最近はパトロン不足に悩んでるみたい。太客様が減ってるって噂」

「幹部だか親衛隊だかは二種類あるって言うてましたけど、ビジネスサポートと、もうひとつは?」

 と、雄平。そろそろ退屈になってきたのだろう、ぼたんがカウンターから出てきて、私と雄平のあいだに潜り込んできた。人見知りしない性格のようだ。

「もうひとつはね。単純よ。愛人候補たち。八城のお眼鏡にかなった女性は能力やお金とは関係なく傍に置いてもらえる。独身の頃から二股、三股も珍しくなかったって話ね。結婚してからだって、そんなの推して知るべしでしょ」

「ほお。有名人の表では見せない顔ってやつですか。悪いなぁ。ちょっと羨ましいかもやけど」

 雄平は大袈裟に舌なめずりをした。それを横目に私は、

「不貞は現代の倫理的にはもちろん悪やよ。ただ、それが特別な大罪ってわけじゃない――と言ったら世間様から怒られるかな。八城だけがやってることじゃないし、巷によくある男女関係のひとつと言ってしまえばそれまでやよ」

 そう言いながら私は白亜の邸の前で目を丸くして佇むユミ――澄子の姿を思い返していた。彼女の本名も、彼女が八城宗光の妻であることも私は後に知った。

 ――奥さん亡くなったのにどうしてまたケンカの声するのかと思ってね

 八城の隣家の老婦人が言っていた。そういうことか。人の気質は簡単には変わらない。浮気性の八城は恐らく不倫をしていたのだろう。

 澄子の、私と目があった瞬間の顔に浮かぶ驚愕の色。カーディガンの襟元にかかるブラウンの髪。踏切の乾いた警報器の音。

「藤村さんの言うことは見る人によってはそうかもやけど。でも、あたしはそんな簡単な話でもないと思うな」

 もえぎの声によって私は追想の世界から引き戻された。

「当時、八城のお気に入りの中に河下美月って女性がいてね。彼女ね、まぁ、あたしとも色々あったんやけど、八城と袂を分かった直後に事故で亡くなってるの。そのうえ、今回、横谷さんもでしょう。事件性があるって聞いた。これはきな臭いよ」

 河下美月の名がここで出ることは充分に予想はしていた。が、それが扇情的な話題のさなかで現れたことに思わず私と雄平は顔を見合わせた。

「え、なになに。美月のことも君ら知ってるの?」

「ええ。実は、香苗も含めて地元が一緒なんですわ」

 雄平は立てた親指を自分の胸もとから私へと差し向けた。

「なるほど。気心の知れた人ほど誘いやすいものやからね。驚くことではないか。で、なに。美月のことも聞きたい感じ?」

「お願いします」

 私としては望むところだった。私にとって、これまでの関係者のなかで最もその顔、その存在が茫洋としているのが河下美月だ。彼女の輪郭を鮮明にすることで一連の謎めいた事象に何らかのヒントが得られる気がしていた。

「さっきも言ったけど、美月とはあたし自身色々あってね。なにをどう言えばいいかな。――あ、そうや。さっき、開店準備を待ってもらってる間、ぼたんが藤村さんのことじっと見てたやろ」

 もえぎは私とぼたんに交互に視線を走らせた。そして、タンブラーの水を一口含むと、「んっ」と小さく喉を鳴らす。

 平塚もえぎは滔々と騙り始めた。

「ありきたりなことを言うよ。だからふたりも気楽に聞いて。人には必ず裏に潜めた顔があるの――」

  ◇

 ――あ、そもそも何の話だったかって?

 そうね。あたしが――河下美月の多面性を見たっていう話。

 あたしがキャッスル・インフィニティの勉強会に参加を始めた頃にはもう美月は八城の傍にいた。起業ノウハウの獲得や人脈作りを目的にしていたあたしにとって、最初、美月の印象は正直あまり良くなかった。グループ内の権力者におもねっていると言うか、会食のときは八城の隣に座ってしなを作ったりしてね。少人数のケーススタディの席でも積極的に発言していたようなイメージは無いわ。勉強会は色んな動機や目的で参加している人間が集まっているわけやから仕方ないんやけど、少なくともあたしとは根本的に交わらないタイプやと思ったことを覚えてる。

 ある日ね。勉強会を終えて駅に向かう途中でふらっとコンビニに入ったの。ちょうど今くらいの時期やったかな。今日ほどは暑くなくて、ぽかぽかした過ごしやすい日。コンビニでは晩酌のつまみか何かが目当てやったんやと思う。買い物を終えて出たら、そこでばったり、店の前で美月と鉢合わせたわけ。もともと性格は合わないと思ってたし、こっちから話したいわけでもなかったけど、ただ、このシチュエーションで露骨に避けるのは角が立つと思ってさ。渋々一緒に駅まで歩くことになった。

 当時、梅田と中津のあいだにあるオフィスビルが勉強会の会場やったのやけど、駅までの道すがらに小さな神社があってね。美月が少し一緒に休んでいこうと言うから玉垣の土台のところにふたり並んで腰掛けて話すことになったの。そうしたら、あたし、本当に驚いた。聞いてもいないのに、彼女の口から八城への悪口雑言が出るわ出るわ。いわく、自分はそういう関係を望んでいるわけじゃないのに彼からの過剰なスキンシップに困ってるとか。彼のアーティストとしての才能はたまたま初期のヒット作に恵まれただけで、とうの昔に枯れているだとか。お金で権威を買ってるらしいという噂を聞いたのもそのときが初めて。

 ――平塚さん、あたしのこと軽蔑の目で見てたやろ。勘違いされてると思ったから

 彼女の日頃の振る舞いを直接見ているだけに眉に唾つけながら聞くのやけど――立て板に水のように話し続ける美月をあたしは目を丸くして見てた。

 それからは、毎回、勉強会のあとは美月とふたり示し合わせてその神社で一時間くらいかな、おしゃべりをするようになった。定位置の玉垣の土台に並んで座ってるといつも決まって同じ野良猫が寄って来るのよ。シロキジ柄やった。本当は良くないのやろうけど小袋の煮干しをあげるとますます懐くようになってね。かわいかったな。あたしが猫とじゃれてる様子を美月は笑いながら携帯の写真に撮ってた。

 美月はかしこまった場では発言なんてまるでしないのに、何故か神社であたしとふたりきりになると饒舌になるの。彼女はインディーゲームを自作してネットに発表してたのね。そこから、物作りのこと、ファンマーケティングのこと、ファイナンスのこととか色々。当時は勉強会でもそんなテーマが多かった。だから、あたし、美月に一度ぶつけてみたわけ。どうしてみんなの前では自分の意見を言わないのって。気の小さな子が学校で指摘されるようなこと。そうしたら、美月はこう答えた。自分は周囲からそういうキャラクターを求められてないからって。そういうのってどういう意味って聞いたら利発的で聡明な女性のことだって。ただ――

 ――もえぎさんの前では何でも言えるから不思議よね

 そんなふうに言われたら誰だって悪い気はしないよね。それ以上はもう追求しなかったわ。

 半年はそんな関係が続いたかな。一昨年の秋やったと思う。あの日は、薄い雲が空一面に拡がって、街中に金木犀の薫りが溢れてた。

 いつものように勉強会の会場に入ったら、岡部華が寄って来てあたしにこう言ったの。キャッスル・インフィニティは――八城さんは多様な考え方を認めている、でも、仲間のことで根も葉も無い侮辱や批判を吹聴する人間は置いておけないって。はじめは何のことを言われてるのかまるでわからなかった。でも、おためごかしのお説教を聞かされるうち、だんだん自分の身に何が起こったのかようやく理解が追いついた。つまりね、あたしは美月に売られたってわけ。神社で一緒に話してたこと、八城の手掛けるビジネスや、プライベートの男女関係への批判まで、ぜーんぶ、あたしの考えでそれをあたしが外部にばら撒いてることになってた。もちろん、その日、美月は会場にいなかった。

 もう呆然としてさ。そろそろキャッスル・インフィニティの会員同士の馴れ合いにも飽き飽きしてたから、そこから追い出されることはどうでも良かったんやけど、それより美月があたしのことをどう思ってどうしてそんな唐突に裏切ったのか想像がつかなくて。会場をとぼとぼ出てってさ、駅までの道の途中で美月に携帯からメッセージを送ったけど返事は無かったね。

 いつもの神社の前を通りかかったときやった。それを見たとき、あたし、今度こそひっくり返るかと思ったわ。美月と一緒に背にして座ってた玉垣にラミネート加工された紙が掲示されてるの。針金で雑に括り付けられてた。最初は神社からの案内か何かやと思うよね。近付いて見ると、その紙には大きく引き伸ばされたあたしの写真――あたしが野良猫とじゃれあってる写真が載せられてて、その下に、野良猫の餌やりは迷惑行為だからやめてくださいって。そう書いてあった。直感的に美月の仕業やと思った。だって、いつもあたしの写真を撮ってたし。ほんとに、今やから冷静に話せるけど、そのときは心臓止まって倒れるかと思ったわ。無我夢中で指が切れるのも構わずに針金解いてさ。自分の写真の載せられた紙をラミネートごと強引に折り畳んで、持ってたバッグに押し込んだ。それからのことは覚えてない。一直線に帰宅して、自宅で処分したんやと思う。

 その後はね。もう一度メッセージを送ってみたわ。内容は、あなたの真意を聞きたいから会って話をしようって。あなたの不興を買うようなことをあたしが意図せず言っていたのなら謝るって。それだけのもの。だけど、やっぱり返事は無かった。まぁ、普通やったらあたしは彼女に嵌められたんやって、自分に向けられた悪意を見抜けなかったんやって、そう思うよね。でも、あたしは何故かどうしてもそんなふうに単純には受け止められなくて。半年ばかりやったけど、神社で話してた時間はそれなりに楽しかったしね。今更未練の欠片も無いグループから追い出されたところでどうってこともないし。あぁ、神社にはその後も時々行ってみたけど、あたしの写真が貼り出されていたのはあのとき限りやったみたい。だから実害は無いとも言えるのかも。そんなふうに考えるあたしって人がいいのかな。

 それからまた何ヶ月かして、多少付き合いの続いていた勉強会の参加者から、美月が八城と別れたことを聞かされた。こっちはふたりが付き合ってたかどうかすらハッキリ知らなかったわけやけど、それでも美月のほうから別れを切り出したって言うんやから何それって思った。あたしもその頃はこの店の開店準備とかでバタバタしてて、もうどうでもいいよって感じ。そうしたら、また一月後くらいに連絡を受けた。美月が事故で亡くなった。太子町だっけ――彼女の地元で、コンビニの駐車場に自分の運転する車で突っ込んだって。

 結局、何もかもわからずじまい。美月のこと。彼女の心のなか。あたしや八城のことをどう思っていたのか。いつのどの顔が、振る舞いが、彼女にとっての本物だったのか。そもそも本物なんてあったのか――。

  ◇

 店を出ると、途端に全身から汗が噴き出した。手庇を作って空を仰ぐと、たぎる太陽が雲間からその半身を覗かせている。肌を刺す熱射は針のようだった。

「なんだかごめんねー。あたし、好き勝手しゃべってさ。お茶も出してなかったわ」

 店先までついてきた平塚もえぎは、

「あっついねー!」

 と、目を瞬かせた。

「いやいや。こちらこそお店の邪魔してすんませんでした!」

 頭を下げる雄平に私も倣った。

「ありがとうございました」

「ぼたんちゃんもありがとねー。お兄ちゃん、また来るねー」

 雄平の猫なで声だ。ぼたんはもえぎの足元で指を咥えている。雄平はしゃがみこんでぼたんに視線の高さを合わせると浅黒い掌をその頭に置いた。

「さて。しゅうちゃん、帰るか」

 立ち上がり、肩掛けのトートバッグから取り出したテンガロンハットをかぶる雄平。

「おっと。田辺さん、なかなか決まってますね」

 もえぎから喝采を浴びせられた雄平は満更でもなさそうだ。つばを押し下げて目元を隠すがその頬は緩んでいる。歳が近いこともあり見方によっては仲の良い夫婦のようだ。長屋の黒塀を背にしてそんなふたりの様子を眺めていた私は突如ひとつの着想を得た。

「平塚さん」

「え? どうしたの」

 八城澄子――渡辺澄子は、どこから来たのか。

「すみません、もうひとつだけ教えてください。八城宗光は既婚者ですよね。彼のパートナーは何者なんですか」

「ああ、そういうこと。そうねぇ」

 もえぎは思案顔で両手を腰に充てた。

「結婚したって聞いたのは美月が事故で亡くなったしばらく後だったから、つまり割と最近よね。お相手の名前は澄子さんだったかな。確かに、結婚は急だった印象はある。アイドルの結婚報告じゃないけど、一時は取り巻き連中がざわついたって聞いたから。あとは、彼が所帯を持って初めてわかったことやけど、八城はあまりプライベートは見せたがらないタイプみたい。女性の支持者が多いからそのあたり意識してるのかも。だから、奥さんと会ったことのある人もキャッスル・インフィニティの幹部社員とか一部に限られるんやないかな」

 澄子が自殺したことをもえぎは知らないようだった。

「そうですか。ありがとうございます」

 もえぎに礼を言い、そのまま彼女の後ろに視線を遣る。店先のワゴンの横にぼたんの姿があった。整然と並べられた色とりどりの文庫本に目移りしている様子だ。

 ぼたんは――子供の目はもう私を見ていない。

「娘はあまり店に来ないからね。退屈で愚図るかとおもったけどなんだかんだ楽しそうで良かったわ」

「将来は看板娘になってくれるんとちゃいますか」

 いつの間にかもえぎと雄平も私と一緒になってぼたんの様子を眺めていた。

「横谷香苗も河下美月も地元の町で――太子町で亡くなっています」

 私はあえてもえぎに顔を向けずに、まるで明日の天気の話でもするかのような恬淡な調子で言葉を紡ぐ。

「それ自体は、町が彼女らの共通の行動圏であるための単なる偶然だと私は思っています。ところで――」

「え? あ、うん」

 もえぎが振り向いて当惑混じりの相槌を打った。

「太子町は聖徳太子のゆかりの町なんです。平塚さんは、聖徳太子という名がどういう意味かご存知ですか?」

「確か最近の説やと、後からつけられた名前なんやよね。えっと、すごく神々しい太子さんってことかな」

「そうですね。聖徳太子の名は厩戸王子という蘇我氏系の王族の括弧書きとして書かれるのが現在の歴史教育では一般的やそうです。ちなみに、厩戸王子という名は、その母親が馬小屋の前で産気づいて出産されたという逸話から来ています」

「どこかで聞いたような話やね。キリストさんやったっけ」

「まさにそういうことです。聖徳太子というのは、文字どおり、尊く慈愛に満ちた天皇の御子という意味なんです」

「おい。しゅうちゃん、いきなり何を言い出してんのや」

 雄平が疎ましげに横槍を入れて来たが構わずに私は続けた。

「聖徳とは尊号、尊称。その人物が持つ威光――オーラに名を付けたようなものなんです。もえぎさんはさっき言ってましたよね。八城は偽物だった。でも、見える人には見えるんだと。そう、オーラみたいなものが」

 私は平塚もえぎに向き直り、そして言った。

「私のまわりにオーラは見えますか?」


――続(八/縁は導く)へ


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